第15話 ジュ・トゥ・ヴ



僕の熱はあの翌日には下がり、すっかり本調子で。

体温計も買ったし、市販薬も常備した。


「ハル、宿題ちゃんとやってる?」

「なにいってんのトーマさん」


昼間の陽光の中、録画した映画の再放送を見ながらアイスを食べているハル。

学生なら誰もが顔をしわくちゃにしたくなる「宿題」というワードを耳にしても、実にケロリとしていた。


「あんなの初日に終わらせるもんだよ」

「……僕ってまだまだ、ハルのこと知らないんだな……」

「知ればいいじゃん、これから」


そうだけどさ。確かにそうだけどさ。

……いや、僕は今までそういう努力をしてこなかったからこんな状況になっているんだろう。当時あれだけ気にかけていてもしばらく後にはハルのことを忘れたように。


だから、ハルには僕から踏み込んでいきたい。

もう二度と忘れないように、抱える努力をしたい。


「ハルって、頭良いの?」

「同年代よりは良いと思うよ、学年で一番だし」


じゃあたまにする頭の悪そうな話し方は演技か。いや、その方が楽なのかな?

気を許してくれてるって認識でいいんだろうか……。


「……えっと……ハルって、どんなこどもだったの?」

「このまま小さくしたような感じかな」

「……うそだぁ」

「少なくとも、好きな人にいきなりキスするところは変わってないよ」

「…………それって」

「これ以上言うと俺はものすごく近くて重くてありえないほど面倒な男になる自信があるけど大丈夫そ?」


大丈夫じゃなさそうだから話を変えよう……。





トーマさんは珍しく俺が黙ってるからか、次々俺のことを質問してきた。


正直、気分がいい。


こんな俺のことを、この人はこんなにも知りたいと思ってくれている。不本意だったけど好意を隠さなくて良くなった今、だからこそ自分でもっと律しなくては。


「あ、ハルのお母さんが前は警察にお世話になったりしてたって言ってたけど」

「若気の至りってやつだね、ほとんど売られた喧嘩を買っただけだし」

「……あんまり、危ないことしないでね……心配だから」


言ったそばからこれだもんなー……。

トーマさんは昔を思い出してから、俺のことを小さなこども――いや、あの頃の俺か――でも扱うかのように接してくる。隙だらけだし、触れても拒絶されることがなくなった。今だって、こんなに近づいてるのに押し退けもしない。


ああ、暑さのせいで理性が溶けていく。


「ほかに、知りたいことは?俺、なんでも教えちゃうかも」

「……あの、知りたいことっていうわけじゃないんだけど……」


もじもじと手を動かすトーマさん。

その手を取り、ぐにゃぐにゃと振り回してみる。

トーマさんは抵抗すらしない。


「う、最初、公園で会った時に言ったこと……」

「……どれだろ」

「あの、死にたいときに僕を殺してくれるって言ったけど……」

「……あー、うん」


トーマさんを、とは言ってないけど。

トーマさんが死にたくて仕方なくなったら、俺はその時死にたい原因を殺してあげるって意味のつもりだったんだけど、トーマさんはそうとらなかったらしい。

まあ、仕方ないか。あの状況じゃあな。


「僕、ハルを犯罪者にはしたくないし、だからその……」

「うん、わかってるよ」

「え?」

「トーマさんが望むなら俺はなんだってするけど、トーマさんが嫌なことはしない」


ホッとしたように息を吐いたトーマさんの目には、涙が滲んでいた。

そっか、これも不安要素だったのか。少しずつ擦り合わせて減らしていかないと。

と、思っていると不意に唇にやわらかいものが触れた。

至近距離で見るトーマさんの海のような瞳に、思わず言葉を失う。

それはきらきらと朝陽を反射するさざ波みたいで……。


溺れそうだ。


「…………これは、嫌じゃないから」

「…………その先は?」

「……先!?いや、先、……え?」

「ウソウソ、俺だってトーマさんを犯罪者にしたくないしちゃんと2年待つよ」


意味がわかってるのかわかってないのか、目を白黒させて口をパクパクさせている。

いや、わかってないんだろうな。絵だけを描いて生きてきたんだもんな。


トーマさんは絵を捨てない。捨てたらいけないんだ。

だから、絵以外の隙間を、俺で埋められたらいいのに。

絵と俺だけでトーマさんが構成されたら、傷を塞ぐことができたら。


「そうだ、俺、いいこと思いついたんだよトーマさん」







「手で……?」

「筆とかペンは握れないって言うんなら、もう手で描いちゃえ、みたいな」

「あー……それは考えたこともなかったな」


テーブルやソファを壁の方に寄せ、広い空間を作った。

イーゼルを3つほど繋げて、大きなキャンバスを立て掛ける。

下にはブルーシートを敷いたり、水の入ったバケツやタオルを置いたりなどなど。


「前に、パステルとか色々使わせてくれたことあったでしょ?」

「うん、一通りね」

「その時、画材そのものは触らなかったけど、トーマさん、俺の描いたものは触れてたから……ほら、ちょちょいと直してくれたでしょ」

「あぁ……そういえば……」


恐らくは照れや恥じでない感情で、トーマさんの頬が染まっていく。

慣れた手つきで大きなパレット(俺にはベニヤ板にしか見えない)に絵の具を出し、遠慮がちに指で混ぜ伸ばしていく。目はきらきらと潤んでいるが、その顔つきは職人そのものだ。この顔だ。この顔を俺は失くしたくなくて取り戻したくて。


慣れた手つきであると同時に、初めて触れたものに対するような戸惑い。

そんなトーマさんを見つめ、俺自身も手元の紙にそれを描いていく。


トーマさんに絵を教わった、という事実は銀の弾丸になるだろう。

ただ汚く不当に盗むだけの愚行がどれだけ醜いものか、白日の下に晒してやろう。


だから俺には、優等生の絵が必要だ。

正しく積み上げ、学び、昇華するけの土台が。

その上で戴冠でもするように、トーマさんという魂、中身が。

トーマさんの絵を受け継いだ上で、俺らしさが上回らなければならない。

俺ならできる。だからトーマさんは待つだけでいい。


「ハル、おいで」

「ん?」


ああ、誰がこの誘惑に抗うことができようか。


「ハルも一緒に描こう」

「いいの?」

「もちろん」


べちゃ、と絵の具まみれの手で握手される。

不快感は皆無で、ただ喜びだけが伝わってくる。

トーマさん、嬉しいんだね。楽しいんだね。

それだけで俺も、なんだか楽しくなってくる。







「絵の具ヤバいね」

「とりあえずこのままお風呂場に直行で……」


うっかり、我を忘れて描きまくってしまった。

僕もハルも、絵の具だらけの色水だらけ。

足に比較的無事なタオルを巻き付け、よたよたと浴室に。


「あ。俺、後でいいけど」

「一緒でいいよ別に、洗ってあげるから」


服のままだし、とりあえず絵の具を洗い流すだけだ。

まだ乾いてもないし、洗剤とボディーソープで複数回洗えば、完璧に落ちるだろう。

まだ慌てたように狼狽えるハルの手を引き、洗剤をふりかける。


「あ、ちょっとトーマさん、服が」

「いいよ、すぐ洗濯するから……気になるなら脱いでもいいけど」

「……いや、ダイジョブ……」


冷たいシャワーがちょうどよく、絵の具をじゃぶじゃぶと洗い流してくれる。

きれいな色水がいくつもの筋になっては流れていった。

このきれいなものは、僕たちふたりのためにある、ふたりだけのものだ。

こんなちいさなことでも、ハルと一緒なら心が震えてくれる。

やさしい記憶だけを選んで取り出してくれているみたいだ。


「ふふっ」

「なに、どしたのトーマさん」

「昔、母方の実家でね、犬小屋にペンキを塗ったことがあって」


何色で塗るかでナツメと喧嘩して、結局各自好きな色を塗るってことになった。

ふたりともまだまだこどもで、手や足で塗って、全身ペンキだらけになって。


「やっぱりこうしてシャワーで洗い流すんだけど……祖母がね、それを洗車だって」

「はは、そんなにひどかったんだ?」

「いやぁひどかった、アルバムにあったかなぁ……頭っから足先まで大好きな色のペンキまみれでさぁ、洗い流したくないって泣いたんだよ」

「見てみたいな、ちいさいトーマさん」


じゃあナツメに送ってもらわなくちゃね、と笑う。

いままでハルには醜態ばかりを晒してきたけど、少しずつ……ハルを知るのと同じくらいのペースで、僕の楽しかったこと、好きなことも知っていってほしい。


「トーマさん、背中にもついてる」

「えっうそ」

「うそ」

「こどもだなぁ……」


たまに大人びた貌を見せても、やっぱりハルはまだまだこどもなんだ。

こうして色水を掛け合ったり、賑やかに遊びたいこともあるんだろう。


「ねえ、ハル」

「なぁに、トーマさん」

「暑いうちに、海にリベンジしよっか」


ハルがにかっと笑って頷く。


「すこしずつ、ハルとの楽しい記憶で……上書きしていきたい」


いつか、ハルのことしか思い出さなくなるように。


「トーマさんが望むなら、なんでも」

「ぁ……」


そういえば、なんでもするって言ったけど、ハルは何も望まなかったな。

そう言うと、ハルの顔はいつか見たニヤニヤ笑いに移行した。


「どうしよっかな~」

「な、なんだよその含み笑いは」

「すぐ使うのもったいないじゃん」

「……じゃあ、有効期限決めちゃおうかな」

「えー!待って待って、じゃあ再来年の俺の誕生日、一緒に祝って」

「え?いいけど……そんなのわざわざ予約しなくたって祝うよ、他には?」


ハルは、やたらと2年後にこだわっている。

18歳じゃまだお酒も飲めないし、これといって大人という感覚もないのに。

まあ、僕がおとなにこだわってこなかったというだけで、普通のこどもは早くおとなになりたがるものなのだろう。ハルも例外でないというだけだ。


「……じゃあ、今年のトーマさんの誕生日、一緒に旅行しよう」

「旅行か、どこ行きたいの?」

「あとで地図送る!」


まあ、気分転換にもなるだろう。

ハルも進路を意識する時期になれば、こうもいかなくなるのだから。


「いいよ、旅行ね」

「よっしゃ!」


無邪気に喜ぶハルを見て、僕まで嬉しくなってくる。


ああ、風邪をぶり返さないように、ちゃんと着替えないと。


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