第1話 春を待つ
「気分、よくなりました?」
「…………………………」
「おーい、聞いてます?」
なんで、返事をしなきゃいけないんだろう。
返事したって、愛想よくしたって、なんにも、なんのためにもならないのに。
ならなかったのに。
僕ばかり気を遣って空気を読んで……。
目なんて覚めなきゃよかったのに。
「……気分、悪い」
「でしょうね」
「…………ほっといてくれ」
「そういう訳にもいきませんよ」
押し付けがましい。
僕もかつて、こう映ったのだろうか。
善人面してお節介を焼いて、八方美人で誰にでも同じように接して……。
そう思うと余計にこの「ハル」とやらが腹立たしかった。
「救護義務とかいうやつなら大丈夫だから本当にほっといて」
「そうじゃなくて」
「なに」
「絵について聞きたくて」
寝た子を起こしやがって。
ぶり返しの焼け木杭の藪蛇の波風の蒸し返しの虎の尾を踏むようなことを。
だめだ。また指先が冷たくなってきた。
額に大粒の冷や汗が浮かび、空っぽの胃が悲鳴を上げている。
「あー、そゆこと」
「…………」
「でも俺は聞きたいんすよ」
「………………」
「俺、これから絵を描こうかと思っ、おっと」
胃が握りつぶされるような痛みを感じる。
先程飲み干したばかりの水をそこらの雑草に与えてしまった。
雑草以下か、僕は。水を飲むことも許されないのか。
そこまで死ねと言っておきながら生かす理由はなんなんだ。
「思ってるんですよ、だから経験者なら聞こうかと」
「……僕は絵なんて描かないから」
喉が焼けている。
死にたいけど酸で殺されるのは嫌だな。
苦しみたいわけじゃないのに、どうしてわかってくれないんだろう。
苦しみたくないから死にたいのに、どうしてわからないんだろう。
喉から出たのか他から出たのかわからない血を最後に吐いて、口元を拭う。
他人に不快感を与えないように、なんて考えている場合じゃない。
僕はハルを見据え、ただただ丸出しの憎悪を込めて言った。
「……ほっとけ」
つもりだった。
「で、これのことなんすけど」
「聞いてる?聞こえてる?言葉は通じてる?」
「じゃあこれはいらない?」
「……ほしいならあげるからほっといてくれ」
どこにでもあるような紙の束だ。
どれもワンコイン程度で買えてしまうもの。
わざわざ誰かのお下がりなんかもらわなくたっていいだろうに。
「貧乏ならこれぜんぶあげるから、もう話しかけないで」
「え、やだ」
「はい?」
「明らかに新品じゃない、けど一見使われた形跡がない」
スケッチブックをパラパラと捲っていくハル。
もうどうでもいいからはやく帰りたい。
シャットダウンするように世界の情報を全て遮断して眠りたい。
「そんで、やたらと枚数が少ない」
「だから……」
「よく描いてる人の証拠だ」
「…………」
頭を抱えた。
頭部が熱い。いや、手が冷たい?
目は正しい景色を世界に見出せず、めまいと耳鳴りが止まない。
今日この時間に外出した自分のことさえ殺したいほど憎くなる。
そうだ、どうせ全部僕が悪いんだ。
時期外れの雪が降るのも地面が滑るのも気分が悪いのもぜーんぶそうだ。
ハルだって、こうして本題を言わないのは僕に死んでほしいからに違いない。
世の中のみんな全員、僕が死ねばいいと思ってるんだ。
言葉が紡げない。
愛想笑うこともできない。
いつも当たり前にできていたことが、何一つできない。
僕は僕のことで手一杯で、ハルという存在について、一切疑問に持つことをしなかった。こいつもいつか、僕を殺すんだろうか。
「俺に絵を教えてくれ!」
「…………は?」
胸の奥めいたところがキリキリと痛む。
ここのところは、痛くないところの方が少なかった。
僕は今日、帰ったら熱が出るんだろうな。
ストレスのキャパオーバーだ。
もう、慣れきっていた。
でも、慣れることができなかった。
風邪じゃないから寝てしまえばいいんだろうけど、そう簡単に眠れるのなら誰も苦労なんかしないだろう。
「俺、ハル」
「…………」
「花美堂ハル」
「…………」
違うな、帰ってからじゃない。
息が苦しすぎる。頭が重い。
もう熱が出てるんだ。
「そっちは?」
「…………」
「名乗ったろ、俺」
そういう話じゃない、とは言えなかった。
僕はこのまま寝たいんだ、早く帰ってくれ。
春なんて来なくていいから。
冬のまま死ねたらそれだけでもう何も望まないから。
「…………トーマ」
「トーマさんね」
「………………」
「………………」
地面に倒れ込む僕を、ハルがただしみじみと見つめていた。
悪など微塵も知らないという、輝きに満ちた瞳で。
「トーマさんって、虚弱系?」
「………………」
力がほしい、と思った。
ふしぎパワー的なアレじゃなくて、筋力。
だっていま、思い切りハルをぶん殴ってやりたかったんだ。
でも力が出なくって。
もうすこし暖かければ筋トレする気にもなれたのかもしれないけど。
仕方ないから、もう二度と目が覚めないことを祈り、ついでに生まれ変わりなんかもないように祈りに祈って、僕は意識を手放した。
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