2 森山夫妻
森山奈津美は包丁をにぎりしめて泣いていた。背面が破れたソファーの手すりの横で小さく縮こまりおびえている。元大学ラグビー出身の夫、亮が部屋で暴れていた。酒が入り、気性は熊のように荒い。こうなると手をつけられない。
夕飯に出したサラダの小夏がいけなかった。故郷ではよく食べられる柑橘系のフルーツだが、亮の実家にサラダにフルーツを混ぜる慣習はない。
「出てこいよ、奈津美」
涙が幾重にも筋を書いた頬をぬぐって、わななきを手の甲で抑える。鼻水が垂れて呻きが止まらない。
怖い、怖い。こないで。
テレビのそばのドラセナは土を被り、その上にウッドチップがぶち撒けているのが見える。毎日大切に世話をしてきた可愛い子だった。
やがて静かになると、亮はソファーで大きないびきをかいてワイシャツのまま寝てしまった。ほっとして包丁を台所に戻しに行くと、くらくらとしてしゃがみこむ。疲れた、もう4時かと独りごちた。
落ちた時計を見ると針が止まっていた。投げられたショックで壊れてしまったのだろう。
すぐに壊されるからお気に入りは大抵リビングに置かないのだけれど。そう思ってテレビのそばに戻した。
ドラセナの土を直しながらつぶやいた。
「ごめんね」
パートの出勤は9時から。それまで少し時間がある、寝よう。
奈津美はリビングの電気を消すとひとりベッドルームにいった。
「森山さん、目が腫れてるじゃない」
同僚のパートスタッフにいわれてドキリとした。出勤前までおしぼりを当てていたけれど直らなかったのだ。
「昨夜、感動もののアニメ見ちゃいまして」
「アニメねえ」
同僚は奈津美の言葉を信じなかったようだ。
「相談なら聞くわよ。辛いことあったんじゃないの」
「いえ。大丈夫です」
そう、と心配そうに残すと同僚は店内へと出ていった。
奈津美は週に4日、自宅から少し離れた農協でレジ打ちの仕事をしている。娘の莉理が学校から返ってくるまでの少しの時間だけ。最初は亮に働くなといわれたけれど、一日中家にいると気が詰まってくるし、気分転換の意味合いもあった。
出された条件は家のことをちゃんとすること。掃除、洗濯、料理。滞りなくやれるのであれば認める。できなければすぐに止めろ。亮のいいつけ通りすべて真面目にこ
なしていた。
「ふきのとうはまだかね」
昼ごろレジ打ちしていると、お客さんに問いかけられて微笑んだ。
「すみません、朝出てたんですけど。売れてしまって」
「そうか。もっと早くこないとダメかな」
「またお願いします」
曲がった背中を見送って現金をレジに仕舞う。こうした客とのやり取りが何より楽しかった。
12時にもなると店内に客はほとんどおらず、売り場を時折直してはひま。もう一台のレジ打ちしている同僚と交互に休憩をとる。
今日は弁当を作る時間がなかったので、売り物のちらしずしを購入した。
休憩室で静かに食べる。
酢飯をぼんやり食べていると学生時代の記憶が蘇ってきた。
夫の亮とは4年制大学の時に知り合った。
亮は経済学部の3年生、奈津美は文学部の2年生。
本が読むことが好きで控えめの奈津美は、恋愛には消極的。友人に誘われて、観にいったラグビーの試合で初めて彼を見た。友人のお目当ては別のイケメンフォワードで黄色い声を飛ばしていたが、奈津美はむしろバックスの熊のような男に目がいった。
体を張ってあんなに頑張っているんだな。汗もあんなに掻いて。
ただ、先に声をかけてくれたのは亮の方だった。
「可愛らしい人だと思って」
彼はすごく照れくさそうにしていた。女性に告白したのは亮自身もそれが初めてだったという。
2人の交際は間もなくスタート。あんまり上手な恋愛じゃなかったと思うが、それでも楽しかった。一緒に映画を観にいったり、海にいったり。たくさんの思い出ができて、この先も一緒なら幸せだと思っていた。
結婚して娘の莉理ができて。亮の態度が変わったのはそれから少しのことだった。
たぶん慣れない営業に回されたことも関係していたのだろう。飲酒の量は増えて、夜毎暴れるようになった。気に入らない料理が並べば投げる、掃除が行き届いてないと分かれば、イスを蹴り倒す。直接の暴力こそ振るわれなかったものの、言葉の暴力で心はズタボロで。いつか殴られる。ずっとそうおびえていた。
(離婚したいな)
収入のない奈津美には先立つものがない。慰謝料なんか、決めてもちゃんと払ってくれるかどうか分からないし。それに莉理を育てなきゃならないから、仕事だって可能な時間帯のやつを選ばないと。
でも、たぶんいえばまた暴れるんだろうな。
それが一番怖い。怖いから口にできないでいる。ううん、今日こそ穏やかに話すのよ。わたしたち離婚しましょう。するのよ。ううん、できない。きっと怒る。
毎日こんな風に頭の中でシュミレーションを繰り返している。
パートの帰りにスーパーに寄って、夕飯の材料を買った。
自由時間のようで気持ちに自由がない。四六時中、亮が怒らないメニューばかり考えている。
重すぎるエコバッグを抱えて駐輪所までいき、自転車で帰ろうとした時のこと。
「森山奈津美さん」
声をかけられてふり向くと、昼間のスーパーには不釣り合いな紫のスーツの黒いサングラスの男が立っていた。
夕飯の準備を手早く済ませて、亮の帰宅まで静かに待つ。リビングでは娘の莉理が楽しそうに夕方のアニメを観ていたが奈津美の心は落ち着かない。
今日は話をしなくちゃ。怒らせてはいけない。ちゃんと話をするのよ。
「お母さん、お腹減った」
目をふっと下ろすと莉理があどけない顔でこちらを見ていた。小学2年生になる。
「お父さん今日は遅いからね、先に食べちゃう?」
そう微笑むと2人で先に夕食をとった。
亮が9時になって帰宅すると、奈津美はいつもより高いトーンでにお帰りなさいと微笑んだ。
甲斐甲斐しくスーツを脱ぐのを手伝ってハンガーにかける。お疲れさま、というと亮は「ああ、疲れた」と肩を鳴らした。
風呂に入って食卓に着くまで半時間。その間もずっとシュミレーションをしていた。莉理は先に眠らせて、奈津美はソファーでテレビを観ている。観ているが内容がまるで頭に入ってこない。
亮は少し食べてきている。用意したつまみをつつき始めると対面に座った。晩酌をして、終わるのを待つ。今日は癇癪を起さないようなメニューにしたからマシだろう。いつ怒号が飛ぶか気が気じゃなかったが。
「今日は喋らないんだな」
亮にいわれて、ドキリとした。
「ううん、話がしたいと思って」
今こそ切りだそう。心の手綱をにぎりしめた。
一拍開いて。
「わたしたち、別れましょう」
いい切ってじっと亮の顔を見た。怒ってはいない、間顔だった。
「は? 馬鹿かお前」
「ううん、本気なの」
「どうやって生活していく気だ。パートなんかでやっていける訳ないだろう」
パートなんか。怒りが湧きそうになっている、上手に運べ。上手に。
「慰謝料はいらないわ。そのかわりお願いがあるの」
そういって真剣ぶると、スマートフォンでインターネットに接続した。クリックしたのは動画サイトFree。再生回数8億回のあの動画。それを亮に突きつける。
「わたしたち、これに参加するのよ」
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