拝啓 天馬 己の不甲斐なさを実感しましたⅥ

 

「一応確認するけれど、フェリオ殿下が貴方にそのようなことをおっしゃったの?」

「いや」

「でしょうね。そんな事実と反していることを、あの方が口にするわけがないもの」

「事実ではないのか?」

「事実のわけないでしょう。殿下には素晴らしい婚約者様がいらっしゃるのよ。寝言は寝て言いなさい」

「婚約者?」


 第二王子ならば知らないわけがないだろうに、レミエルはその存在を見聞きしていないような声で復唱した。


「煌めく黄金の巻き毛が美しく、透き通るような青空の瞳が涼やかな、公爵家のご令嬢クリスティーナ・ヴェリーン様よ!」


 語尾を上げて伝えれば、レミエルは「ちょっと待て。持ってくる」といい、黙り込んだ。


 持ってくるとはどういう意味なのか。


(もしかしてこの男、エリークと同じ能力保持者?)


 エリークも大量の記憶を脳に保管できる能力があった。


 そのうえ素直な性格ゆえに吸収力もあり、リニエール家の事業に多大な貢献をしてくれている彼は、その膨大な量のデータをまるで引き出しの中から出し入れするように持ってくるのだと言っていた。


 記憶をいつまでも維持し過ぎると、かなりの脳疲労を起こすため、意図して忘れるようにしているらしいが、完全に記憶を消去しているわけではなく、引っ込めた情報はいつでも引っ張ってこれるのだと。


(どちらにしても、リチュでのボードの進め方、先ほどの発言といい、一筋縄ではいかなさそうなことは確かね)


「……ああ、あの女か」


 瞬きをする間もなく、レミエルが呟く。


 だが思い出した記憶は大したものではなかったとばかりに、粗末な言い方だった。


「あ…あの女……?」


 なんという言い草だろう。

 王家の人間ならば、もっとまともな呼び方ができないのか。それとも王家の人間だからこその不遜なのだろうか。


 腹は立つが、クリスティーナの名を出したからにはその前後で淑女らしくない言動は避けたい。


 ソフィーは百歩譲って、レミエルの無礼極まりない発言に目を瞑ることにした。


「思い出していただけたようでなによりよ。その麗しのクリスティーナ様がいらっしゃるの。私とフェリオ殿下が恋仲などという、とぼけた妄言は吐かないでちょうだい。失礼よ」

「失礼? なぜだ?」

「だから、れっきとした婚約者様がいると――」

「あの女のどこがれっきとした婚約者なんだ?」

「はぁあああ!?」


 レミエルの声に被さるように、ソフィーの尖り声が響く。

 先ほどレミエルをアホと称した時よりも、怒りに満ち満ちた声だった。


 レミエル以外のその場にいた全員が、ギョッと紫星の少女を見る。


「レ…、レミエル様! それ以上はッ!」


 この場の誰よりも、その発言の危険性を知っているルカが、レミエルを制する。


 自分の身分では声をかけることすら非礼だと理解していても、止めずにはいられなかった。


 そんなルカの気遣いに、ソフィーは少しだけ冷静になる。


(いけない、いけない……。私は淑女。淑女……私は淑女)


 心の中で魔法をかけるように唱え、ふぅと息を吐く。

 危うく額の青筋がブチリと切れて、同時に淑女道が消滅するところだった。


 ソフィーはあえて整った声で諭した。


「――――レミエル様。クリスティーナ様は、私が教えを頂いた“女王の薔薇”の先輩でもあらせられるお方です。気高く高潔で、お優しいあの方を蔑むような言動は、後輩としても容認できません」

「気高く高潔? たかだか数か月、同じ学び舎にいたというだけで何が分かると言うのだ? あの女の歪んだ性根を、君が知らないだけだろう」


 たかだか三度あっただけで、親友を強要する歪んだ男に言われたくないわよ! と指摘したいのをグッと堪え、難詰の言葉を唇から出さぬよう喉元で抑える。


「……お止めくださいと、私はいま二度ご忠告致しました。三度目はありません」


 できるだけ冷静に。けれど冷たく言い捨てると、ソフィーはドレスを翻した。


 これ以上レミエルと話せば、淑女の決壊が近い。

 その前に退散を決めたのだ。


 だが数歩ソフィーが進んだ時、レミエルはなんのはなしに言った。


「別段、子さえ産めば身分など大した意味を持たない。あの程度の女の代わりなど、いくらでもいる――――」


 ピタリと、ソフィーの足が止まる。


 いち、

 に、

 さん。


 時間にして何秒だったか。

 ほんの数秒の静寂は、のちにそこにいた黒星全員が、二度と思い出したくないと口をそろえるほどに不気味なものだった。 


 静寂を切ったのは、声ではなく風だった。


 ふっと、一陣の風が走ったのだ。


「――ッ!?」


 一番ソフィーに近い場所にいたキースが小さく声を出す。その声に、黒星全員の意識がキースに向いた。


 しかし、ジェラルドだけが反対の方を向く。


 彼の目には、しなやかな動物が一直線に獲物を狙っているように何かが映ったのだ。


 それが紫星の少女だと気づいた瞬間には、彼女の手に握られていた短剣が、レミエルの喉を捉えていた。


 あと数ミリという位置で止まってはいるが、明確な殺意をもって剣は急所を狙っている。


「二度とその口――、開けぬようにしてやろうかッ」


 少女が吐いた言葉とは思えぬほど、憎悪と憤怒に染まった声が静寂をかき消し、場に痛いほどの緊張感をもたらす。


 その場にいた者たちは、一体なにが起こったのかすぐには理解できなかった。


 だが、キースが顔を土色に変え、ソフィーと自分の腰に下げていたはずの短剣がなくなっているのを何度も確認する姿に悟る。


 紫星の少女は、とても少女とは思えぬ俊敏な動きでキースから短剣を奪い、その剣で第二王位継承者に刃を突きつけているという事実に――――。


「ソフィー様!」


 ジェラルドが、すぐさまソフィーとレミエルの間に割って入った。


「レミエル様は公爵家に降っているとはいえ、王位継承権をはく奪されているわけではないのですよ!」

「うるさいわねッ! ジェラジェラは黙っててッ!」

「ジェラ、ジェラ……?」


 吐き捨てるように呼ばれた名に、それは自分のことか? と一瞬ジェラルドの思考が鈍る。


「えっ、いつの間に愛称で呼び合う仲になってたんだ!?」


 場にそぐわない質問をしたのはエーヴェルトだった。

 お堅いジェラルドが、いつの間にか紫星の少女から愛称で呼ばれていた事実にひどく驚いたようだ。


「愛称…? 蔑称では?」


 ジェラルドが呟く。


 ソフィーは、以前同じような音で誰かを呼んでいた。確かレオレオといっていたが、呼び方が似ている気がする。あの時も愛称といえるような雰囲気はなく、どこか憎々し気だった。


 怒り心頭のソフィーは、普段心の中だけでしていた呼び方をつい口に出してしまったことには気づかず、ひたすらレミエルに対して激怒していた。


 その怒り具合に、名のことなどどうでもいいとばかりにジェラルドがソフィーを止める。


「ソフィー様、相手をお考え下さい!」


 ジェラルドは左手を伸ばし、レミエルを守るように立つ。右手を上げなかったのは、いざとなればいつでも剣を手にかけるよう開けておく騎士の癖だ。


 最年少で聖騎士を賜った男を前に、ソフィーはたじろぐ様子もなく、短剣の切っ先をジェラルドに向けた。堂に入った構えは、どう見ても初心者のそれではなかった。


 紫星の少女は、厳かに告げる。


「私はフェリオ殿下に幾つかのお願いをしておりました。その中の一つに、もしも私の敬愛するクリスティーナ・ヴェリーン様を貶めるようなことを口にする輩がいれば、容赦なく八つ裂きにする。その許可は頂いております。まさか、殿下の弟君とは…残念ですわ」


 残念だと口にしながらも、その瞳には「さて、葬るか」という色が濃く現れていて、一切の躊躇が感じられない。


 怒りに正気を失っているわけではなく、正気を保ちながら怒り狂っているのが一層恐ろしかった。


 対して、そんな増大な殺意を向けられているレミエルの方はといえば、剣を喉元に突きつけられたというのに、驚きもせず顔色一つ変えていなかった。その姿もまた奇異としか言いようがない。


 ソフィーの本気の怒気は十分に伝わっているだろうに、それについては完全にどうでもいい風で、それよりももっと気になることがあるとばかりに首を傾げる。


「初めて会った時から思っていたが――――」


 レミエルは足を進め、ソフィーと離された距離を自分で縮めた。


「君は本当に女なのか? 男が女装しているのではないのか?」


 言いながら、レミエルはソフィーの胸に手を置いた。

 ポンとなんの躊躇もなく。


「「「「――――ッ!!!!??」」」」


 一同が声も出せぬほど度肝を抜かれている間にも、レミエルはドレスの上から探るように手を動かす。まるで、陶磁器の人形を調べるかのように。


 そして、有無を確かめ終えた己の手をマジマジと見つめ、言い放つ。


「やはり、男なんじゃないのか? いくらなんでも丸みがなさすぎるだろう」


 シン……と、またもや時が止まった。

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