第14話
建物の中は空調が整えられていて快適な室温が保たれていたが、外に出ると暑い。
弐瓶教授よりおそらくは上の立場であるXanaduの施設長の五代さんに挨拶しに行くってのに、俺はポロシャツにデニムのパンツにスニーカーとラフな格好をしている。この暑さに対しては申し分ない服装だが、目上の人に対しては失礼にあたらないか。……まあ、今更気にする事項でもないな。どう思われてもいいや。かっちりしたフォーマルな服装の持ち合わせがないのもあるけれどさ。
ちなみにXanaduは統廃合によって児童生徒がいなくなってしまった校舎を、最新の建築技術によってリノベーションした建築物らしい。東京からはさらに離れてしまうが、離れていることでこのたびの被害をさほど受けなかった――のかな。どうなんだろ。
「あのさあ」
アスファルトによって舗装されていた道が、地震の影響からか、ところどころデコボコになっている。弐瓶教授の研究室を出る直前まで聞いていたラジオによれば、道が液状化している場所もあるらしい。人が歩けるだけまだマシかな。自転車だったら転んでしまいそう。
「なんですか?」
弐瓶教授がシャワーを浴びて戻ってくるまで、俺は四方谷家から持ってきた荷物を整理していた。さすがに手は出さないよ。そんな、泊めてもらって不義理なことをするわけないじゃん。弐瓶教授のことは好きだけど、好きだからこそ嫌われたくないしさ。
目的地のXanaduまではまた徒歩での移動になるし、今のうちにこの荷物が本当に必要か不必要かを選別しておこうと思った。俺たちが眠っている間に一生懸命働いている人たちはいたんだろうけれど、一晩では道の復旧はできてないだろうし。
あちらもこちらみたいに、震災前と同程度に電気が使えるとは限らない。余震で停電する可能性だってある。あと、水だよな。弐瓶教授からもらったペットボトルを一回飲み干して、洗ってから、満杯になるように蛇口の水を入れておいた。ドラムバッグは重くなってしまうけれど、これは必要なものに該当するだろ。
「君の持っているうさぎのぬいぐるみって、君のもの?」
「上野動物園で、ひいちゃんに買ったものです」
「ひいちゃん?」
「
俺が弐瓶教授のことを調べたように、弐瓶教授も俺のことを調べてくれていたおかげで、名前を挙げただけで「あー。真尋さんの連れ子の?」と一致したようだ。俺はスマホで、四人家族だった頃の集合写真を見せる。
「この子です」
「はいはい」
俺みたいなのがうさぎのぬいぐるみを大事に持ち歩いているの、まあ、似合わないよな。客観的に見たら俺だって怪しむと思う。別にいいじゃん。好きにさせてくれ。
「俺にとってひいちゃんは、大事な妹ですし。思い出の品なので、四方谷家から持ち出しました」
「……なるほどねん」
弐瓶教授は少しバツの悪そうな顔をして、それから「あっ! コンビニはっけーん!」と話題を変えてきた。昨日から俺はボソボソの固形物しか食べていない。あれはクッキーなのか、ビスケットなのかすら定かじゃあない。弐瓶教授はカップ麺も食べていたけれど。
「なんか食べられるものを買いたいな。パンでもおにぎりでも、生鮮食品がほしいよねん」
悪路に影響されての交通量の少なさ。配送用トラック、ここまで来ているのか? 弐瓶教授のお目当ての『パンでもおにぎりでも』納品されているのか怪しい。
顔に出ていたのか「ユニちゃんはおなか空いてるのん。ささっと行くよーん」と俺の手首を掴んでくる。振り解いて、その左手を握ろうとするとギョッとされてしまった。手を繋ぐぐらいしてくれてもいいじゃん。熱いものにうっかり触ってしまったときのように、脊髄反射で引っ込められた。なんだよ。
「馬鹿」
自分のところの大学の学生を馬鹿って言っていいものなんですかね。まあ、言い方が可愛かったから許そう。罵られるのも悪くはないな。
「いらっしゃいませー」
一足早く弐瓶教授が入店し、コンビニ店員が「久しぶりのお客様だ!」とでも言い出しかねないほどに勢いよく挨拶してきた。元気があるのはいいことだと思うよ。実際そうなのだろう。レジのカウンターにあるべきものすら用意されていない。肉まんとかおでんとか揚げ物とかさ。
店内を一望すれば、アメやガムといった嗜好品は売れ残っていて、カップ麺や冷凍食品などの保存食の棚はすっからかん。弐瓶教授のお目当てのパンやおにぎりなんて見る影もない。うちにはそんなもの元から売っていませんでしたよ、みたいな陳列棚だ。予想はできてはいたけれど、現実として目の当たりにすると、何とも言えない気持ちにさせられる。
「つかぬことをお聞きしますがー」
レジに立っている店員に弐瓶教授がにじり寄っていく。ラフな格好の俺に比べて教授はパンツスーツ姿だ。ショートボブに低身長な体格と組み合わせると就活生のコスプレに見えてしまう。教授だけども。
ペットボトルが並べられている棚も、水や茶が並んでいたであろうレーンは買い尽くされて無が並べられている。スポーツドリンクもごくわずか。炭酸やジュースの類は売れ残っていた。なるほどね。
「はい!」
俺はコーラを手にして、レジへと向かうことにする。父親の監視下では飲めなかった飲み物だ。中学の帰り道に、女子バスケットボール部のキャプテンだっていう人から、一口飲んで「ほら」とファーストフード店で買ったなんとかバーガーセットのコーラを渡されたのが初めてのコーラ体験だった。あちらさんとしては回りくどい〝好き〟のアピールだったらしい。俺のどこに惚れたのか。身長かな。顔ではないだろ。
昔はバレーボールやらバスケットボールやら、とりわけ『身長は高いほうが有利』だとか言われるスポーツにやたら誘われたけれども、そういう課外活動の類は活動費が嵩むので参加した記憶がない。部活動っていうのは、あちこちの大会に出場するために、親の負担がついてまわる。日々の生活に苦労しているのに、あの父親が協力してくれるはずがないじゃん。
万が一参加できるだけの余力があったとしても俺は参加していなかったと思う。ただでさえも他人の表情を窺って、他人に合わせて生きているのに、わざわざ団体行動に身を投じるなど正気の沙汰じゃあないよ。オリンピックなどを見ていると震える。周りと話題を合わせるために仕方なく見ていた。
女バスキャプテンさんは、学年としては二個上の先輩で、当時の中一の俺からしたら「どちらさんですか?」ぐらいの認識しかなかった。それから、あちらさんから誘われて、どっかに出かけて、わかりやすく告白されて、曖昧にオーケーした。同級生よりも背伸びした心持ちになったのは覚えている。思い返せばあれが最初の恋人っぽい存在だった。あちらさんについて回って、いろいろ出かけるのは楽しかったし。童貞を卒業したのもその人とだった。
そのうちあちらさんが受験でお忙しくなって、疎遠になってしまったから今は何してんのかわからない。どちらかといえば生きていてほしいけれど。連絡先、当時のままかな。
「パンとかおにぎりとかっていつ入ってきます?」
ふいにその先輩とのファーストコンタクトを思い出してしまったのは、店員がその先輩に似ていたからだろう。まあ、店員はどこをどう見ても女子高生で、その先輩その人ではない。名札には研修中の文字列が貼り付けられている。他人の空似。先輩の名字もおぼろげにしか……佐藤だっけ、鈴木だっけ。高橋だったかも。今は大学三年生をやっているのかな。どこの大学に行ったのだかも覚えていないな。これでも彼氏だったはずなのにさ。
「いやあ……わたしたちにもわからなくてー」
バツの悪そうな顔で店員が答える。弐瓶教授は「なんてこったー」と水色の前髪の上からその額を押さえた。俺もがっかりしておこう。またボソボソのクッキーかビスケットみたいなものを食べるしかないか。
「申し訳ございません!」
店員は何も悪くないのに弐瓶教授に謝っている。なんだか可哀想に思えてきて、店員と食にうるさい大人の間に割り込んだ俺はレジ台の上にコーラを置く。
「コーラ、飲める?」
俺は日本語で話しかけたのに、その内容がうまいこと伝わっていなくて「えっ」と店員はまぶたをパチクリとさせた。俺のスマホを取り出してからスキャナーを指差して「お会計してほしいんだけど」と頼んでようやく「あ、いらっしゃいませ! 袋ご利用ですか?」と定形文が口をついて出てくる。
「いらないよ」
「ありがとうございます! お支払いは!」
「スイカで」
ピピッと決済音が鳴って、背後から弐瓶教授が「何ふつーに買い物しちゃってんのさーあ」といちゃもんをつけてきた。コンビニで買い物して何が悪いのか。そんでもって、買ったものは俺のものだから俺がどうしようと俺の勝手じゃん?
「あげる」
「え、」
会計したばかりのペットボトルのコーラを面前にちらつかすと、また事態がうまく飲み込めていない顔をされてしまった。店員は視線をレジの裏手の扉――そちらに事務所があって、そこに責任者がいるのだろう――に向けて助けを求める。俺は悪くない。いらないならいらないと言ってほしい。自分で飲むから。
「ありがとうございます?」
受け取ってくれるようだ。
語尾に疑問符をつけてお礼を述べてから、事務所に消える。俺は首を伸ばして、扉の向こう側を見ようとするも、向こう側は〝節電〟なのか照明は落とされていた上にすぐに閉められてしまってイマイチわからなかった。
「ああいうのが好みなのん?」
本人が見えなくなったのをいいことに、俺のヘソの辺りを人差し指でつっつきながら弐瓶教授が問いかけてくる。好みかって聞かれると、俺は弐瓶教授のほうが好みだよ。たまたま昔を思い出したってだけであって。
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