第10話

 考えてもらうのはいいんだけどさ。時間がないっていうのはわかってんのかな。わかってなさそうだよね。産むこと前提で話が進んでたっぽいしさ。


 それならそれで、なおさら、どうして今このタイミングで話そうと思ったのか。俺にとっての手遅れ――例えば、六ヶ月を過ぎてから話をしても、いや、俺が困るけど……。その辺はマヒロさんなりの優しさなのかね。俺の意見にも一応耳を傾けておかなきゃみたいな。


 ダメって言うに決まってんだろ。


 祖母は娘の現在の心境に胸を痛めてしまったのだろうか、俺に「ちょっと休ませて」と言い残して寝室へと行ってしまった。俺が自殺しようとしているように見えたのも関係あるかもしれない。あってほしいが、俺のことなんて正味どうでもいいんじゃないかな。まあ、死ぬ気はさらさらなかったけど。勝手に身体が動いて、包丁を突き付けられてたってだけで。


 リビングには俺以外誰もいなくなってしまったから、コーヒーカップを片付けて自分の部屋に戻った。俺は悪くない。二人のぶんの麦茶は全く減っていなかった。注いだんなら飲めばいいのに。もったいないけれど、流しに捨てた。父親ならキレてた。


『生まれてこなければよかったのに』


 ある日の父親の一言が聞こえてきた気がして、ベッドに倒れ込む。あれは確か、中学一年生の頃だった。十二月の、クリスマスがせまった時期。テレビでは、マヤ暦だかで『人類滅亡の日』なのだと話していた。多くの人類にとってはただの杞憂に終わったその日。俺は死にたいと願っていた。死にたかった。未来に希望はない。人類が滅亡するのなら、そのうちの一人になるのだと。父親は大して飲めもしないのに飲み会に出かけていて、帰ってきたところで、俺が首を吊ろうとしているのを発見して、止めた。


 だから、まだ、生きている。


 本当に、心の底から、生まれてこなければって、そう思って、死のうとした息子たる俺に言ったのだろう。俺の存在さえなければ、顔も覚えていない母親――父親にとっての愛すべき妻だった女と共に現在も生きていたかもしれない。生まれてこなければよかった。死ぬには遅すぎるのだと。


 俺の知ったことじゃあないけど、なんで産んだのさ。捨ててどこかにいくのなら最初から産まなければよかったじゃん。俺は悪くない。永遠に謎が解けない。誰か答えを教えてほしい。


 居なくなった母親を探して聞き出せばいいんかな。探しようがないんだけどさ。会いたい。会って話がしたい。片方からの答えを聞いたところでもう片方は死んでいるから、正しい答えは聞けない。こういうのって双方の話を聞いたほうがいいと思うんだよね。どっちかはどっちかにとって有利な話しかしないもんだしさ。


 子どもの頃の俺には早く大人になってこの家を出て行きたい、と同時に、その逆、どんな人だかも全くわからない俺にとっての母親に逃げられたこの父親を支えなければならないという、依存に似た思いがあった。俺には父親しかいなくて、父親にとっての息子は俺しかいない。息子とはかくあるべきであるという、その姿を演じ続けた。これが〝家族愛〟というものなのだとしたら、周りの話を聞く限り『一般的な形式とは異なる歪んだもの』だったらしい。


 いらない。


 早々に切り捨てるべきだった。教師に相談するとか、児童相談所に駆け込むとか。やったよ。やってはみたけどダメだった。


 成功例が、全ての事例に当てはまるわけじゃあない。俺には当てはまらない。より悪化するだけだった。だから俺は、与えられた環境の中で、どう生きていくかを考えるのに必死になる。育ってから、よその家の話を聞いて気付くこともあるよ。やたら厳しかったんだなって。当人にとってはそれが普通だと思い込むしかねェからそういうもんだと思って、よそはよそで、うちはうちなんだって、思い込んだ。


 こうやってでっかく育ったからやられることもなくなったけれど、ごく普通のご家庭ではむやみやたらに子どもを殴り飛ばすとか蹴り飛ばすとかしないらしい。そうなんだね。知らなかった。でも、おかげさまで他人と話す時に他人が「こう言ってほしいんだろうな」という言葉を考えるようになって話すようになったから、そこまで悪いことではなかったんじゃあないか。そう思いたいだけか。


 まあ、ともかく、唯一の肉親である父親から『生まれてこなければよかった』なんて全否定されたものだから、トラウマとして記憶の奥底に深く刻み込まれてしまっている。俺は悪くない。


 カエルの子はカエルで、タカにはならない。もし、もし、俺が百歩譲って、自分の想いを吐き出さぬままで、マヒロさんのおなかの中にいる子どもを産ませたとしよう。俺はふとした瞬間に同じことを繰り返して、その子に同じ思いをさせてしまうに違いない。暴力を振るって、その後にならないと気付けない。そんな不幸が起こり得るなら未然に防いだほうがいいに決まっている。俺は人の親にはなれない。


「ひいちゃん。俺はどうすればいいと思う?」


 ウサギのぬいぐるみに話しかけても、答えは返ってこない。誰もが俺に、将来的に生まれてくる子どもを育ててほしいと思っている。正解は知っていた。知っていても、できるかどうかの問題だ。これから何十年と、自分ではない子ども他人に振り回される人生を受け入れられるかどうか。周囲は困難を乗り越えるべく手助けしてくれるとまで言ってくれている。できないだろ。


 だから、あとは、俺自身がどう考えて、どう行動するかだけだ。

 それはわかっている。無理じゃん。


「俺は、マヒロさんのことが好きなの?」


 好きってなんだろう。好きなら、他の人間を不幸に陥れても許されるものなのか。それだけの強い感情なのかがぜんっぜん理解できない。どうして苦しまなければならないのかがまったくわからない。


 俺の人生って一体何。何なの。誰かのためのものなのか?

 最初は父親のためのもので、他人からの期待に応えるためのもので、今度はまだ名前も決まっていないような他人子どものためのもの。


 そんな理不尽があるか。


「ひいちゃん」


 答えてほしい。

 あの子が、あの義理の妹ひいちゃんがいてくれたら、こんなことにはなっていなかった。絶対になっていない。断言できる。


 俺がひいちゃんに向けていた感情の正体は一体なんだったんだろう。


 ずっと共に居たかった。

 周りからなんと言われようとも、俺が唯一の『おにいちゃん』であったから。

 向こうからの、信頼に、俺は誠心誠意できる限り応えられていたつもりだ。


 一緒にいたいという思い。

 これが『好き』って気持ち?


 だとすれば、もう二度と手に入らない。タイムマシンを使って、時空を超えて、あの交通事故をなかったことにしたとしても、今この地点にいる俺が救われるわけじゃあないだろ。つまり、真の救いは、ひいちゃんを蘇らせることにある。あのときから続く未来がここに出現するのであれば、それが俺にとっての最高の未来のはずだ。


「そうじゃない? ひいちゃん」


 やがて台所から料理をしている音がしてきた。


 そうか。

 そんな時間か。


 その音に混ざって「バタン」と何かが床に倒れるような音が鼓膜を叩く。祖母が台所から移動して、戸棚から皿を取り出す際に椅子を倒してしまったか。そんなところだろう。


 マヒロさんが戻ってきて、祖母も大喜びの毎日が始まってから、いちいち物音に動じていたら気が休まらないほどには家の中が騒々しくなった。だから、今回の音も気にしなくていい。


 俺は悪くない。

 何も。

 何も悪くない。


「……五ヶ月ね」


 結局、マヒロさんが部屋に戻ってしまったことにより結論は先送りにされてしまったっていう、何も変わっていない状況をどう打開するか。


 ウサギのぬいぐるみに話しかけて現実逃避している場合じゃあないよ。このまま逃げ切られてはならない。絶対に。止めなくてはならない。うっかり階段の上から突き落とすぐらいの……事故ってことにすりゃあ、俺は悪くない。考えてみればまだ五ヶ月あるのだから、手術でなくとも機会はある。正常に生まれてくるとも限らないしな。いくらでも事故は起こりうる。


「ね、ひいちゃん。俺は悪くないんだ」


 ウサギのぬいぐるみに話しかけると、無言の肯定が返ってきてくれた。そうだよ。肯定だ。沈黙は答えだろ。


 俺を除け者にして盛り上がっているあちらが悪い。俺は悪くない。ひいちゃんだけがわかってくれる。俺の味方はひいちゃんしかいない。どうして死んじゃったんだろう。本当に意味がわからない。同じ車に乗っていたのがいけなかったが、同じ車に乗らないという選択肢はなかった。五歳児のひいちゃんが家に一人で留守番というわけにはいかなかったしさ。


 あいつらが悪い。何度考えても理不尽だ。父親と、元旦那と、大人はみんな悪いやつばっかり。行方不明になっていたっていう真尋さんもそう。なんでひいちゃんを見捨てたんだよ。大人は何にもできない子どもを、身勝手に巻き込んでいく。あんまりがすぎる。世の中はおかしい。


 子どものままでいい。そうも思う。好きになってもらう必要性はどこにもない。嫌いになってもらっていい。わがままで、無知で、ひとりぼっちが苦手な子どものままでいい。大人に全ての責任を押し付けるような立場でいい。


 それでいて、他人からの得体の知れない期待に応えるための努力をしなくてもいい。

 もっと、より自由に、誰かの言葉に縛られないような人生を送るために、子どもにとっての子どもは重荷にしかならない。


 どうして誰も理解してくれないんだろう?


 俺の言葉に頷いてくれる存在が欲しい。ただ一人だけでもいてくれたら、それでいい。多くはいらない。一人だけでいい。多ければ多いほど、正しいというわけでもないから。


 俺を肯定してくれる存在を作らなければならない。今生きている誰しもがわかってくれないのだとすれば、かつて存在していたひいちゃんを蘇らせるしかないんじゃあないか。やはりそうだ。それが正しい。そうに違いない。ひいちゃんは、俺を『おにいちゃん』として認めてくれていたのだから。


 俺を救ってくれるのはマヒロさんではなく、ひいちゃんだ。ひいちゃんならば、俺を救ってくれる。マヒロさんは俺を苦しめるだけ。


 発展した科学技術は人間を作り出せるはずなのに、今年に入っても量産できていない。今度行く、Xanaduのオルタネーター計画は近しいことをしているらしいけれども。人間は、より進化できるはずなのに。いまだに哺乳類と同じ生殖方法でしか生命を生産できていない。適当な個体を見つけて、時間をかけて身体の中で育てる。他に手段はない。


 だから、産むだの産まないだのでこうやって、問題が起こる。めんどくさい。技術があるのに活用しないのは怠慢だろうに、ああでもないこうでもないこうしてはいけない、道徳的な観点がどうのと屁理屈をこねる。オルタネーター計画には政府も金を出しているっぽいから、その辺はオーケーをもらっているのかな。


「死んだ人間を作り出せるのなら、一色京壱も蘇るんじゃあないの」


 弐瓶教授の想い人。弐瓶教授はタイムマシンによって自殺する前の時間軸へ飛ぶことに執着しているけど。そうじゃあなくて、そのオルタネーター計画とやらが進んでいけば、うまいことできるんじゃあなかろうか。


「タクミくん、真尋、晩御飯できましたよー」


 祖母が扉越しにでも聞こえるようにと声を張り上げて、俺とマヒロさんを呼んでいる。マヒロさんは部屋に閉じこもったままで、今日は手伝っていないんだな。いつもは夕飯の準備なんて率先してやってくれんのに。まあ、……そういう日もあるか。

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