第23話 すみれの後悔
すみれが勤める老人介護施設に迫田妙子が訪れたのは、すみれが迫田航の前から姿を消してから3年後の春のことだった。
桜の花びらが窓の外ではらはらと舞い散る午後、施設内にあるカフェテリアですみれは迫田妙子と向き合っていた。
航と養子縁組をしている迫田妙子とは、桔梗の通夜で一回会ったきりだった。
「良かった。やっとすみれちゃんに会えた。」
「どうして私の勤め先が・・・?」
航君に聞いたのだろうか?
しかしすみれは航との別れを決意したあと、勤め先を変えている。
妙子がすみれの勤め先を知るのは、航経由ではありえないことだった。
「すみれちゃん。航の元を離れていたのね。知らなかったわ。」
妙子は責めるでもなく、すみれに柔和な笑みを浮かべた。
そして手品の種明かしをするように、軽い口調で言った。
「申し訳ないけど興信所を使わせてもらったの。東京で老人介護施設に勤めている野口すみれさんを探して欲しいってね。思ったより早くみつけてくれたわ。個人情報保護といってもまだまだ抜け道はあるみたいね。」
「・・・・・・。」
「それくらいどうしてもあなたを見つけたかったの。」
「もしかして航君に頼まれたのですか?」
航とはあの家を出てから、一度も会っていなかった。
会いたくて会いたくて仕方なくて、何度も家の近所まで足を運んだ。
けれど会ってしまったら、また航君に甘えてしまう。
それに航君にはもう恋人がいるかもしれない。
それを知るのが怖かった。
もし、航君が私を探してくれているのなら、私はどうしたらよいのだろう・・・。
そんなことを考えていると、先ほどまでの柔らかい雰囲気から一転、妙子の表情が思い詰めたように固くなった。
「その航のことなんだけどね。」
「はい。」
すみれの鼓動が早くなった。
「事故にあったの。」
「・・・え?」
「2週間前のことよ。」
「航君は・・・航君は無事なんですか?!」
すみれは絞り出すように、震える声で尋ねた。
最悪の場合を想像し、泣き出してしまいそうになるのを必死で堪えた。
「ええ。命に別状はなかったの。不幸中の幸いね。」
「どんな事故に遭ったんですか?!」
「地下鉄の駅の階段でね、小さな女の子が足を踏み外してしまったらしいの。その子の母親はベビーカーを片手にゆっくり歩いていたせいか、目を離してしまったのね。航はその子を助けるために自分が盾になって、階段を転がり落ちたの。今、大きな大学病院に入院してる。」
「怪我の具合は・・・」
顔面蒼白になったすみれを落ち着かせるように、妙子は口元を引き上げた。
「まだ確実ではないのだけれど・・・左手を強く打ちつけたらしくて、麻痺が残るみたい。」
片手が使えないのなら、日常生活にも困るはずだ。
すぐにでも航に会いに行かなければ・・・、ただそれだけがすみれの頭を占めた。
「航君が入院している病院はどこですか?会いたいです。航君に会いたいです!」
しかし妙子は神妙な面持ちで、黙り込んだ。
その態度にすみれはじれったくなり思わず叫んだ。
「病院を教えてください!」
「そのことなんだけど、あらかじめすみれちゃんに話しておかなければならないことがあるの。」
「・・・なんですか?教えてください。」
はやるすみれの言葉を受けて、妙子が静かに答えた。
「航は、記憶を失っているの。」
「・・・・・・え?」
考えてもみなかった言葉に、すみれの思考が止まった。
「記憶を失ってる・・・?」
「脳のレントゲンを撮って調べてもらったんだけど、脳に異常はなかったの。お医者様が言うには心因性の記憶障害じゃないかって。なにか忘れてしまいたい程辛い出来事があって、それが事故の衝撃で表面化したんじゃないか・・・記憶を失くすことで自身の心を守っているんじゃないかって。」
「忘れてしまいたい程、辛い出来事・・・。」
「私達が養父母だってことは、戸籍や身分証明書を見せてなんとか納得させたの。けれど航は、すみれちゃんのことも、桔梗さんのことも、自分の過去も、全部忘れてしまったの。」
「そんなの嘘です!私のことだけは・・・きっと覚えてくれているはずです!」
「私もそう思って聞いてみたの。野口すみれちゃんのことは覚えてるでしょ?って。でもね・・・そんな子知らないって・・・」
嘘だ。
そんなことあり得っこない。
私のことまで忘れてしまうなんて・・・そんなこと・・・。
すみれはなんとか冷静になろうと大きく深呼吸をした。
「とにかく航君に会ってみます。」
すみれがそう言うと、妙子は航が入院している病院の名前と病室番号の書かれたメモをすみれに手渡した。
「時間があるときでいいから、航に会ってやってちょうだい。もしかしたらすみれちゃんを思い出すかもしれない。」
「・・・はい。」
「私は航を救えるのはすみれちゃんしかいないと思って、それですみれちゃんを必死に探して、今日ここへ来たの。すみれちゃん。航をお願い。お願いします。」
妙子はそう言って何度も何度もすみれに頭を下げた。
「あの・・・航君には恋人はいないんでしょうか?もしいるなら・・・」
すみれは一番気にかかっていたことを、妙子に尋ねた。
「いないわよ。だってそれらしい女性がお見舞いに来たことなんて、一度もなかったもの。京都の家に女性を連れてくることもなかったし。あ、そういえば」
「え?」
「君塚麗華さんていう女性がお見舞いに来たわね。」
「麗華さん?」
「でも安心して。君塚さんは犬飼さんという男性と一緒に来たの。航とはただの友達だって言ってたわ。でも航、二人のこともすっかり忘れていた。」
「・・・そうですか。」
麗華さんと航君は付き合わなかったんだ・・・。
「もうすみれちゃんしか頼れる人はいないの。」
「・・・わかりました。」
こんなことになるなら、航君の元から離れるんじゃなかった。
激しい後悔の波が押し寄せ、すみれの胸はつぶれそうだった。
でも・・・もう航君から離れない。
記憶を失くした航君のために、自分が何をしてあげられるのかはわからない。
でもきっと私にしか出来ないことがあるはず。
それに・・・航君は、絶対に私のことだけは顔を見れば思い出してくれるに違いない。
そのときのすみれはそう考えていた。
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