第13話 航の幸せ

桔梗がいなくなり、すみれと航だけの二人暮らしが始まった。


航はあの夜のことなど忘れたかのように、今まで通りすみれに接していた。


すみれの作った食事を一緒に食べ、たわいもないことを話しては笑い合った。


すみれは21歳、航は36歳を迎えていた。


航への告白を受け入れてもらえなかったすみれは、それでも楽観的にこう考えていた。


女として愛されることがなくても、このままこの家で航とふたりで穏やかに寄り添って生きていけるのではないかと。


すみれはそれでも十分に幸せだと思っていた。




ある日、珍しく航が京都から遊びに来た友人を家に呼んだ。


航の大学時代の同級生で、犬飼という磊落な男性と麗華という美しい女性だった。


すみれは白いエプロンを付けてオードブルとビーフシチューを作り、ふたりをもてなした。


犬飼は黒縁眼鏡の奥の目を丸くしながら、すみれを航の妻だと勘違いして叫んだ。


「航。聞いてないぞ!こんなに若い嫁さんがいたなんてさ。いつ結婚したんだよ!」


その言葉に顔を綻ばせるすみれをよそに、航はばつの悪そうな顔で訂正した。


「誤解するなよ。すみれは俺の姪っ子だ。」


「そうかあ。でもお前が結婚しない理由がわかったような気がするな。こんな可愛い子がそばにいたんじゃな。」


そう言うと犬飼は下卑た顔ですみれを見た。


「そうね。」


麗華は赤いルージュの唇を引き上げ、意味深な笑みを浮かべた。


麗華はショートカットのボーイッシュな美人だった。


その口調もハキハキと快活で気持ち良く、女のすみれから見ても素敵な女性だった。


2人は航と同じ大学の教育学部で、犬飼は高校の古典の教師、麗華は中学の英語教師をしているとのことだった。


航と犬飼はビール、すみれと麗華は赤ワインを飲んだ。


ハタチを過ぎてすみれは、友達との食事の席でお酒を少しずつたしなむようになっていた。


しかし航はすみれがお酒を飲むことにあまりいい顔をしなかった。


すみれは航に、酒席では絶対に隙を見せるなと、何度も注意されていた。


アルコールで少し酔いがまわり、いつもより饒舌になっていたすみれは、思い切って犬飼と麗華に聞いた。


「あの・・・航君って大学生の時はどんな感じだったんですか?」


「うーん。そうねえ。」


麗華は赤ワインを口に含み終わると唇の両端を引き上げた。


「言っちゃおうかなあ?」


「おい。すみれに変なこと吹き込むなよ。」


アルコールで顔の赤くなった航が麗華を睨んだ。


「航といえばあれだろ。」


犬飼が得意げに話し出した。


「何日間続けてカレーを食えるかっていう競争を先輩としてたよな。」


「先輩の態度があまりにも横柄だったから、俺が勝ったら改めてくださいって言ってね。」


「結局10日続けて食った航が勝ったんだよな。」


「ああ。しばらくあの先輩、大人しくしてたっけ。たかだか歳がひとつ上なだけで後輩を見下すような輩は気に食わん。くだらない勝負だったが後悔はない。」


航は思い出したようにそう言うと、ビールを一口飲んだ。


「航君は今でもカレーが大好きです。でも二日続けて出すと文句を言います。」


すみれがそう言うと、犬飼と麗華は大きな声で笑った。


すみれは更に質問を続けた。


「大学時代の航君に彼女はいましたか?」


犬飼と麗華は顔を見合わせたあと、噴き出した。


「すみれちゃん、そんなことが気になるの?」


「いえ・・・なんとなく聞いてみたくなって・・・」


急に恥ずかしくなったすみれは俯いた。


「いたよなー。こいつ、学園のマドンナと付き合ってたんだぜ?な?航。」


犬飼は航の首に手を回し、にやにやと笑った。


「今更それがなんだ。そんな遠い昔のことは忘れたよ。」


航は憮然とした顔をした。


「けどこいつ、バイトとサークル活動の方を優先してばかりいて、早々に振られたんだよ。向こうから告ってきたのにさ。航、お前もったいないことしたな。」


「うるせえな。お前こそ、浮気して彼女に振られてただろ?」


「あれは浮気じゃありません。僕は女友達も大切にしていただけで・・・」


犬飼の声などまったく耳に入らなくなったすみれは、ショックを隠し切れずにいた。


やっぱり航君、彼女いたんだ。


そうだよね。


だって航君、格好いいもの。


キスとかしたんだろうな。


そしてそれ以上も・・・。


すみれは、胸のもやもやを鎮めるために、赤ワインを一口で飲み干した。


そんな態度をじっと麗華が観察していることに、すみれは気が付いていなかった。




夜が更け、酔いつぶれた航と犬飼は、客間に布団をひいて早々に寝てしまった。


すみれはお皿を洗い、麗華も片付けを手伝った。


「ごめんね。突然押しかけちゃって。」


麗華がゴミ袋に空き缶を入れながら言った。


「いいえ。楽しかったです。」


すみれはお皿を拭きながらそう答えた。


一通り片づけが終わり、すみれは麗華に「コーヒーでも飲まない?」と誘われた。


すみれはお湯を沸かし、インスタントコーヒーをふたつ作ると、麗華の前にコーヒーカップを置いた。


「ミルクと砂糖はいりますか?」


「私はブラックでいいわ。」


「わあ。大人の女性って感じですね。わたしは苦いのが駄目なんです。」


だからビールもなにが美味しいのかわからない。


すみれは自分のカップに砂糖とミルクをいれ、ダイニングのテーブルに座ると一息ついた。


麗華はコーヒーを一口飲むと、さっきまでの明るい表情とは裏腹に真面目な顔をしてすみれをみつめた。


すみれが不思議そうな顔をすると、麗華は大きくため息をついた。


「実は私、今日はすみれちゃん、あなたに話があって来たの。」


「はい。」


畏まってなんだろうと、すみれは麗華の次の言葉を待った。


「すみれちゃんって何歳?お酒飲んでたからもう成人しているのよね?」


「はい。この前21歳になりました。」


「彼氏はいるの?」


「い、いません。」


すみれは大きく両手を振った。


「ふーん。好きなひとは?」


この人は一体私の何が知りたいんだろう?


いきなりそんな質問ばかりしてきて失礼じゃないだろうか?


すみれは不機嫌な顔を隠しきれずに「いません。」と憮然として言った。


「ねえ。航が36歳にもなって結婚しない理由ってなんだかわかる?」


「・・・・・・。」


すみれが黙っていると、麗華は静かに、けれどすみれを暗に責めるような口調で言った。


「航はルックスもいいし、性格も少し頑固なところがあるけれど、優しくていい奴よ。恋人のひとりもいないなんておかしいと思わない?」


「それは・・・航君は自分ではモテないっていつもぼやいてますけど・・・。」


「そんなわけないでしょ?本当にそんな言葉を信じてるの?」


麗華はそう言って薄く笑うと、黒いシャネルのバッグから取り出したメンソールに火を付け、それを口に咥え、ゆっくりと煙を吐き出した。


「私、航に尋ねたの。今付き合っている女性はいないの?結婚を考えたりはしないの?ってね。そしたら航はこう答えたわ。俺には幸せを見届けなければならない子がいるからって。その子が幸せになるまで俺は誰とも付き合わないし結婚もしないって。それってすみれちゃん、あなたのことでしょ?」


「・・・・・・。」


「航はそうやって自分をずっと恋愛から遠ざけてきたんでしょうね。あなたの幸せだけを願って。それについてどう思う?」


そう詰問されてすみれは何も言えなくなった。


「すみれちゃん。あなた航のことが好きよね?」


「・・・当たり前です。」


「LIKE?いいえ、LOVEよね。そしてそれを航も知っている。」


「どうしてそんなことがあなたにわかるんですか?」


「わかるわよ。この数時間だけでもあなたと航を見ていればね。あなたそれくらい、態度から航への想いが滲み出てるのよ。」


「・・・・・・。」


自分の想いを隠せていると思っていたすみれは、麗華の指摘に青くなった。


「だから航はあなたとの関係に悩んでるんじゃないかと思う。あなたを女としては愛せない、けれど突き放すことも出来ない。はっきりいうわ。あなたは航を苦しめているの。」


私が航君を苦しめている・・・?


「あなたが女としての幸せを手に入れるまで、航は絶対にあなたを見放さない。あなたはそれをいいことにいつまでも航のそばを離れないつもりよね。でもそれって航にとって幸せと言えるのかしら?」


「私では航君を幸せに出来ないっていうんですか?」


すみれは震える声でそう尋ねた。


「はじめからそう言ってる。もう一回言うわ。あなたの存在が航を苦しめている。それをわかって欲しいの。」


「・・・・・・。」


「私、来月京都から東京へ引っ越して来るの。大学時代から航を好きだったけど、友達としての関係を崩すのが怖かったから、その時は告白しなかった。けれど再び航の近くにいられるのなら、もう我慢しない。」


「我慢しない・・・」


「久しぶりに航と会って、やっぱり私は航のことがまだ好きだって気付いたわ。今度こそ航に告白するつもり。私のほうがあなたより航のことを理解してあげられる自信がある。私なら航を本当の意味で幸せにできる。航の子を産んであげることも出来る。だからすみれちゃん、そろそろ航を解放してあげて欲しいの。私達の邪魔をしないで欲しい。あなたはもう子供じゃない。一人前の女性なんだから自立して欲しい。精神的にも肉体的にも。」


「航君の・・・子供?」


考えてもみなかったその言葉に、すみれは強く打ちのめされた。


「航だって心の奥底では、自分の血をわけた子供が欲しいって思っているわ、きっと。」


それ以上何も聞きたくなかった。


すみれは席を立ち、自分の部屋へ逃げ込んだ。


ベッドの上ですみれは声を殺して泣いた。


航君のそばにいることが私の幸せだった。


でも幸せなのは私だけだった。


その幸せの陰で、航君が苦しんでいるなんて知らなかった・・・。


すみれはこのとき己のことしか考えていない愚かな自分を嫌というほど思い知った。





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