マリ・ルィードの孤独な散歩、3
「僕たちから避けるように動いてる」
こっそりと階を移って物音の主に近付くが一向に距離が縮まらない。
「バレてるかもね」
「どうやって……?」
かれこれ二十分は追いかけっこをしている。〈議長〉にすら目の前まで察知されないペルシェが一人だけで行動していたら、きっと最初に逃げられるようなことはなかっただろう。隠密の経験がないアシュレイか、おそらく前線に出ることも多くないシュトロイゼルのどちらかが無意識に音を立てているという可能性はある。
「こちらの存在に気付いてるなら撤収しててもいいはずなのに、ずっと校内をぐるぐるしてる。どういうつもりなんだろう」
うーんと顎に手を当てて、シュトロイゼルが真面目な顔で提案する。
「思い切って捕まえる? アシュレイとおれでこのまま追って、一番気配を消すのが上手いペルシェが回り込んだらもしかしたらいけるかも」
「あんた、そろそろ〈生徒会長〉に吊るされるよ」
「指示に背いてみよう!」
医務室会議では檻の設置場所を定めるためにも積極的に捕まえるのはまず避けるようにと三人で決めていたのに、方向性と違う提案にぴしゃりとペルシェも窘めた。そういえば先程もシュトロイゼルがフィーたちにカマをかけたことについて、シャルロットは事件発生の示唆をするのはやめてほしいと苦言を呈していたっけ。彼は怒られることに頓着せず、独自の方程式に沿ってこの事件に臨んでいるらしい。
「そりゃいつもはちゃんと言うこと聞いてるけどさ。堅実な方法はシャルとクイニアがやってくれてるし、行き詰まったら相手の反応を見てみるのも手じゃない? こういうの駆け引きって言うんだよ」
「……一歩間違えたら雑な作戦って言わない?」
「反対?」
シュトロイゼルが不敵に微笑みかけると〈執行官〉の目がすっと細まって、スイッチを入れるかのように外套の襟で口元を隠した。
「実行しないとは言ってない。追い込むなら上の階へ行かせて。作戦中にメレンゲ食いが出た場合は中止。いい?」
二人の顔の近くまで近付いて、小さな声でペルシェが言う。
「はーい」顔立ちはシュトロイゼルの方が少し大人びて見えるのに、ペルシェがシュトロイゼルを相手にするときは少しお姉さんとして接しているような気がする。彼がこういう性格だからか、それともフェーヴに就いた順番が関係しているのか。
ただ二人を眺めているとペルシェの厳しい視線がアシュレイをとらえて、釘をさすように言い聞かせた。
「あんたはこいつから離れないこと」
「わかってるよ」
ペルシェはもう一度シュロトイゼルへ目配せすると、すっと離れて闇の向こう側へと飛び込んで行った。
「おれたちは変わらず歩くだけ。行こっかアシュレイ」
「……そうだね」
彼女の姿はすぐに見えなくなって、足音すら一瞬で遠ざかって消えてしまった。
今の亡霊の位置を探ろうと目を瞑ると、聞こえてきた別の足音がそれを邪魔をした。それがペルシェのものではないと直感してアシュレイは目を見開いた。
「ゼル、こっち」
「て、アシュレイ!? 走るの!?」
いきなり手を引かれたシュトロイゼルはこけそうになりながら一緒に走りだして。
「きゃあ……」その時ちょうど上の階からのか細い悲鳴がシュトロイゼルの耳にも届く。聞き覚えのある声、間違いなく生徒の声だ。
「やっぱり……」
「今の、」
アシュレイの横顔を盗み見ると少し青褪めていて。
階段を駆け上がって暗い廊下を見回しながら進むと、金髪のフェーヴが斧を手に棒立ちで佇んでいる。シュトロイゼルはどうしたのかと問いただそうとした言葉が全て消えた。その足元で糸が切れたように失神した、制服の少女がいたからだ。
「どいて」
アシュレイを追い抜きペルシェの横を通り過ぎて、〈医務官〉は女子生徒のそばに膝をつくと迅速に怪我の様子を確認し、肩を叩いて呼びかけた。
「聞こえる? おーい、」
「フィー……」
周囲はメレンゲ食いを駆除した後の粉塵が漂う。
アシュレイを迎えるように顔を向けているペルシェのところまで追いつくと、四肢を投げ出して倒れる同級生の姿に言葉を失った。シュクルリィ混じりのドロリとした独特な鉄の匂いがして、深い傷を負っていることが嫌でもわかる。
「う、…………」
息のもれるような細い呻き声が聞こえる。微かに意識のあることを確認して、〈医務官〉は腕の出血より胸元の深い傷を優先してボタンを外す。
「ペルシェ。おれの鞄から清潔な布出して」
人形に近付いている彼女は痛いだろうに汗のひとつも出ない。苦しそうに頭を少しずつ動かしている姿が、アシュレイにはうなされているように見えて。
「大丈夫だよー、すぐに痛いのなくなるからね。——二人とも、全部あと。担架出すからこの子運ぶの手伝って」
瞬く間に応急処置を済ませたシュトロイゼルは彼女に声をかけながら、鞄の中からずるりと組み立て式の担架を引き摺り出した。
「アシュレイも、大丈夫だよ。これくらいで六年生が死んじゃうことはないから」
それから石のように立ち尽くすアシュレイを見上げて自分の腕をポンポンと叩いてみせた。〈医務官〉たる彼の頼もしさを信じられる。アシュレイはペルシェの反対側に立って彼女の肩の下にそっと手を入れ、広げられた布の上に体を移した。
それからは医務室へ慎重に運び、シュトが送った緊急事態の知らせに校舎の眠りを覚ますように明かりが灯った。
余裕の表情で片目を瞑ってくれたシュトロイゼルだけがフィーを運び入れた医務室に籠り、アシュレイとペルシェは外の廊下で他のフェーヴが到着するのを待つ。
「……あの子、あんたの友達だね」
「うん」
冷たい壁を背中に感じながらぼんやりとそれだけ返事をするが、はっと気付けば今かけられた言葉が頭に入っていなかった。
「ごめん、生返事だったみたい。もう一度……」
「言い直すほど大したこと言ってない」
ああそっか、と返すけれどそれもうまく聞き取れた自信がない。
「フィーは死なないけど、あんたの方が死にそうだね」
鮮明な音が言葉として届いて隣を見ればいつもの淡々としたペルシェの横顔だった。生徒の死を何度も見届けてきただろう彼女はただ静かに構えている医務室を見つめていた。徐々に焦点が合ってきて、さっきまではどう振舞っていたんだろうとアシュレイはようやく俯瞰を取り戻す。
そうだ。〈医務官〉を……シュトロイゼルを信じたはずだったのだ、僕は。
と、ペルシェが何か腕に掛けて持っていることに今更ながら気付いた。出発の時には何も持っていなかったはずだけれど。
「それは?」
尋ねると無言で寄越してきたので、アシュレイはそれを広げて観察する。
黒いぼろきれだと思っていたのはおそらく大きなマントと、真鍮製の太い鎖。それはまさに話に聞く、『鳥の亡霊』が身に着けている物と一致していた。
「フィーじゃないよ」
ペルシェはアシュレイの顔を見て先に言った。
「フィーを襲ったメレンゲ食いがこれを被ってたんだ。この子のお蔭で正体がわかったね」
○
今年の六年生たちの間に完全に亀裂が入った日、アシュレイを含めた十八人が愚かにもマカの挑発に乗り消灯時間を過ぎた校舎へ侵入を試みた。その執着によるものとも表せる行動はそれでも当時の彼らにとっての正義であったが、それは結果的に誰かの悪意に利用されていたことに今でも気付いていない。
冷え込む時期の夜は探し物の指が悴んで、たまたま拾った誰かの落とし物が手の中で冷たい。人形として近付いているはずなのに昔とあまり変わった実感がなく、本当に自分がちゃんと人形になれるのかまた不安になる。
「コレット、どこ……?」
一緒に来たはずの親友とはぐれてしまって、ひとりぼっちのままフィーは心許ない足取りで教室から教室へと移動する。
「おいっ」
慌てた足音に呼ばれて振り返るとその正体はマカだった。まさか彼が追ってくるとは露ほども思っていなかったフィーは目を丸くして、一人でなくなったことに関する安堵とマカという級友に対する警戒心が同時に胸の中に混ざって渦巻いた。
「なんでここに……」
「コンテのやつがわざわざ知らせに来たんだ。って、その左手の……」
「え?」マカが自分の手を指差しているのに気付いて開いて見せた。
「……それアシュレイのものじゃなかったか? なんでお前が持ってんだよ」
「えっと、落ちてて……」
そっか、これアシュレイの鍵だったんだ。後で返しておかないとと制服のポケットに大事に仕舞った。
「そうかよ……」
はあ、と溜め息を吐いて、マカは話を戻す。
「……何やってんだよ、お前。ただのぬいぐるみ探しにみんな巻き込んで」
「そんな言い方しないで。わたしの友達なのに」
マカに身構えるようにフィーは向き直った。フィーの犬の事でマカの顔が曇るようになったのはいつからだったか。
「たとえ先生のための人形になっても、わたしはこの思い出を大事にしないといけない。しあわせだったあの頃の、無くしてはいけないわたしの一部なの!」
マカの苛立ちがつのる音が歯軋りとなって、彼は絞り出すように押さえ込むように声を上げる。
「お前のそういうところが……」
誰かの悲鳴が遠くの方から聞こえてきたのはそんな時だった。誰か。いや、この声は級友のものだ。
マカに引っ張られ、こけそうになりながら近くの教室の隅に身を潜める。
「いま、誰か……」
「息を止めろ」
メレンゲ食いの出現だと判断したマカはフィーを机の下に押し込んで、自分も頭を出さないように机の間に屈んだ。と同時にジャラ、ジャラ、と異様な金属の音が近くの廊下を通っていく。足音はなく、鎖の蛇が這うような不気味な物音。本当にメレンゲ食いなのだろうかと不安が頭をよぎって、二人は思わず教室の入り口を覗き見た。
そこにいたのはメレンゲ食いなどではなかった。黒いマントを頭から被った、奇妙な人影のような異形。首のある位置から下げた鎖が床を引きずって、隠れた二人には気付かないまま通り過ぎていった。
誰かが殺されたという確信だけがあって、口を押さえる手の震えが激しくなる。
「あっ、おまえら!」
化け物が去ったあとしばらく待って、ようやく廊下を出るとちょうどコンテが見つけて駆け寄って来た。
「お前よく見つかってないな、今変な奴が」
「ばか。死んだかと思ったろ……」
膝に手を置いて荒い息を整えていたコンテは、二人の無事を確認すると友人を叱った。それから安堵のためか大袈裟かと思えるくらいの深い溜め息を吐いて。
「……ほら、ささっとぬいぐるみ回収して帰ろうぜ。ちょうど隠した犯人もいる事だしな」
フィーとマカは先程通って行った『鳥の亡霊』のような化け物が近くに来ていないか周囲を見回す。あたりはすっかり平和そうな静けさが戻っていて、まるで何もなかったかのよう。……幻だったのかもしれないと思うほど。
「で、どうせ捨てられなかったのならちゃんとしたとこに仕舞ってあんだろ。どこに隠したんだ?」
「……返してくれるの?」
マカを振り返ると彼は観念したのか素直に白状した。
「……ロッカー。図書館わきの」
そんなのあったっけとフィーは図書館の建物の様子思い浮かべるがうまく思い出せない。コンテも「なんかあったな」と曖昧な記憶を辿るように窓から中庭を見下ろした。
「ま、着けば分かるだろ。こっちから行こうぜ。——近道だし」
コンテは亡霊が向かった方向へと歩き出す。
「おい、そっちは」
「いいからいいから」
そっちは危ないと引き止めようとしたが、コンテは飄々と言って歩き出した足が止まらない。仕方なくついていく二人だったがその背後に嫌な予感が付き纏った。
やっぱり誰かが襲われたんだ。
学舎を出て図書館に着くと入り口から曲がった横の外壁に縦長な扉が並んでいて、マカが迷いなく一つの扉を選んで鍵穴に対応する鍵を挿し込んだ。
開かれる扉を見ながらフィーは胸を撫で下ろす、やっと取り戻せる、と。しかし中を見た男子二人の様子がどこか妙で、目的のものがいつまで経っても取り出されないことにフィーは焦燥が先立って二人の間から覗き見た。……中には何もなく、そう、ただの空っぽの本棚だけだった。マカの細い呟きが空洞に吸い込まれる。
「……ない」
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