ミルフィーユとマカロンのジレンマ、2
「ちょっと多すぎ……」
メレンゲ食いの発生位置から最も近い場所にいた〈捜査官〉はたった一人で三十を超える敵を相手にしていた。
彼女はその機敏性を誇る身軽な脚で走り回りながら大きな翅を回避していく。またついでのように片刃の剣を風雷のように振るい、直線に振り抜かれた銀の光が数匹を切り裂いた。
すぐ五メートル先にはまだ生徒が数人慌てた足音を立てており、今に奴らが生徒に気付くかわからない。取り囲まれた形で戦っていると敵の壁が邪魔で全体の様子が見えづらくなり、フェーヴの喉が苛立ちに唸る。
メレンゲ食いが生徒の何を狙って襲うのか。それは生徒やフェーヴが体に蓄積している『シュクルリィ』を食べるためである。
シュクルリィはソプドレジルアンの生徒が人形として成長するための重要な原料で、人形が食事の代わりに摂取する生命維持の役割を担う栄養素をも兼ねた、微細な糖の結晶。メレンゲ食いにとってもシュクルリィは甘露であるらしく、以前どこかのフェーヴが試しにシュクルリィそのものを与えてみたら生徒をかじるより嬉々として食んでいたという。
この暴食は、シュクルリィを多く体に含んでいるフェーヴにはより強い反応を示す。そのためフェーヴという存在自体がメレンゲ食いの注意をひく釣り餌となり得る。なんと便利な囮体質だろうか。生徒を守る戦いにおいて、意図せずともフェーヴ側がアドバンテージを得ていると言えるのだ。
「おい!」逃げ遅れた生徒に飛びつこうとするメレンゲ食いを鋭い声で呼ぶ。すると白い虫は声にさえ魅力を感じるのかくるりと身を翻してフェーヴを食べようとする群がりに参加する。
「……そうだ、それでいい」
しかしそれにしても異常な多さ。斬っても斬っても減らないなとわずかでも気が散った瞬間に服の裾を掠めていく翅を、細い刀身で切断する。
「ちょっと増えてきてないか……?」
聴覚が気色の悪い羽音に支配される。確実に一匹ずつ屠っているはずなのに、どこから湧いているのか視界は一向に晴れない。フェーヴの中でもメレンゲ食いの対処に練達している〈捜査官〉であっても、一人で無秩序を相手にし続けるのにも限度はあるというものだ。
何匹斬ったのか数えていないのはいつものことだが、今日ばかりは覚えておけばよかったなと頭の中で皮肉を吐く。
「避難誘導完了! 掃討に参加する!」
少し高い男子の声がノイズの壁を突き抜けて耳に届いた。
間髪を容れず容赦のない銃声がメレンゲ食いの群れに穴を開け、軽く屈んだ〈捜査官〉の頭上を結晶弾が音速で疾っていく。
「——っはぁ、」
「クレア!」
背後から駆けつけた声が群れの再結集を許さずに一気に近付いて、拳銃を持った手を裏拳にして大振りに払う。金属音と結晶の破裂のせいで軽く麻痺したメレンゲ食いの行動が一時的に鈍重になったのを目視し、〈捜査官〉は彼に声をかけた。
「遅いんだけど。散歩がてら来たんか」
「状況は」
群れの渦中に割り込んできた雲のような白髪のフェーヴ。キシェ、馴染みの〈憲兵〉である。朝からどこかに行っていたはずの彼は仲間の背中を守るように立ち、クレアの嫌味を聞き流して情報共有を求める。
「雨樋の水みたいに溢れてきていくら殺しても全然減らない。どっかから出てきてるならそれを塞ぐかなんかしないと」
「……君が探してくれ」
思案の一瞬、迷いなく彼は決断を下す。言葉では簡単なようだが即座に従うには重い提案だった。
「お前が俺を守りながらこいつら全部相手にするって?」
「兎に角、今できる最善を尽くさないと」
ともすればいつもと比べても落ち着いた口調で左手を腰にやり、キシェは大振りの長剣を抜く。日頃から生徒をメレンゲ食いの食欲から守り、戦闘経験が最も多いと言っても過言ではない〈憲兵〉が敵を引きつけ調査役を守るのが今の最善。実行するなら確かにそれが適材適所というやつだ。それに両手に武器を握ったこいつが、たとえ百匹のメレンゲ食いを相手にしたところで屈するとは思えないのだから策に乗るしかない。
「はは。らしいねえ、キシェ」
数秒間はだるそうに攻撃していたメレンゲ食いたちの動きが回復しつつあり、麻痺が和らいできたことを知らせてくる。奥の方に目を凝らすとやはり気味の悪いことにだんだんと増えている。
「準備はいいかな」
キシェは静かにいった。問いかけではなく、それは合図だった。
「どこかかじられたりしてない?」
〈捜査官〉が迅速にメレンゲ食いの発生ポイントを塞いだお蔭で彼らの大量発生はどうにか一時的に収束した。クレアは悠長にも刀を撫でて文句を言っているが、塵の舞う廊下の真ん中で服を払うキシェは少し消耗した様子。
「自分の腕に自信がなくなったなら他の奴に相談しろよ。つーかほんとに多すぎ。片刃が錆び付くとこだったんだけど」
「工房に行くのを面倒がるから二、三十斬っただけで心配になるんだよ、クレア」
何気ない小言を流しながら、流石の〈憲兵〉も多勢を相手にすれば息も上がるかと盗み見て「まずいっぺんに三十匹も斬ることないじゃんか」とクレアは今回の異常性をぼやいた。
「それよりこっち来て。いいものを見せてあげよう」
〈憲兵〉は首を傾げて疑いもなく手招きに応じる。〈捜査官〉の示した場所を覗き込むと現状の渋さがわかってしまう。
「…………う」
それは直径約二十センチ程もあるメレンゲ食いが、二匹は通れそうな大きなひび。相当に視界が悪かったせいで壁にこんな穴があったことすらわからなかったようだ。思わず顔を顰める二人の視線の先にはメレンゲ食いの群れがまだ人形に食い付かんと蠢いており、クレアが応急処置で隙間に格子の破片をバリケードのようにして塞いでいなければ今にもまた這い出てきそうであった。
「……〈医務官〉呼んだ方が早くない?」
「確かここにはちょうど絵が飾られていたはずだけど、それはどこに?」
キシェの指が今はボロボロになってしまった木の壁を指す。その壁に長年飾られていたはずの縦楕円形の額縁に囲まれた素朴な絵画は姿を消していた。しかしクレアはしゃがみ込んだまま相棒を見上げもせずに「知らないよ」と肩をすくめる。
「ついさっきだ、メレンゲ食い出現の報せがあって。来たらあの騒動だぞ。朝見た時は絵もあったけど、それが今どこに行ったのかなんてまだ確認してない——それよりも、問題はこいつだ」
自分の手元に注目を促すクレア。彼女が手のひらに乗せていたのは、小さな赤い錠前だった。
「それは……、」
「これ、アシュレイの檻を守ってたやつとおんなじ型のものだよ。購買でも扱ってない珍しいタイプのね」
ピクッと反応したキシェはもう気付いたようだ。〈捜査官〉は己の不覚を認めざるを得ずギリリと錠を握りしめ、低い溜め息と共にぽつりと呟いた。
「……事情が変わってきたね」
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