第30話 約束
買い物袋を家においてから、散歩をしてくるといって夕暮れの町に出た。向かった先は、町田第一中学校。僕と雛乃が今年の三月まで通っていた母校である。
部活が終わり帰宅するのだろう。大きなカバンを担いだジャージ姿の中学生たちが、次々と校門から放出される。その流れに逆らって、僕は中学校へと足を踏み入れた。
向かった先は、校庭の隅にある大きな桜の木。桜がつぼみの頃に、僕と雛乃はこの下に二人、並んでいたことがある。
もう、いくばくも中学校生活が残されていないというタイミングで、雛乃に呼び出されたのだ。
呼び出された僕は、ドキドキしながらその場所に向かった。人生初めての告白を受けるのではないかという、甘酸っぱい期待である。けれど、夕焼けに照らされた雛乃の横顔には、言いようのない悲しみの表情が張り付いていた。
「来てくれたんだ。直也」
「そりゃ、くるよ」
雛乃が地面の上に腰を下ろして、木の幹に背中を預ける。僕はためらいながらも、そのとなりに腰を下ろした。
「お父さん、お母さんより好きな人が出来たんだって。だから……今の家、お母さんは……出て行くんだって。私も……一緒に」
逡巡のあとにつぶやいたのは、そんな言葉だった。雛乃の言葉には刺があった。あからさまな嫌悪が、父親に向けられているようだった。
「……そう、なの?」
「うん。黙っててごめん」
僕は何も言えずにうつむいた。雛乃とは幼馴染。当然のように、彼女の母親とも父親とも顔見知りだ。仲良さそうな夫婦であると、僕はそう思っていた。雛乃は両親を慕っているように見えた。
「……ひどいよね。お母さんと、私を、切り捨てて……。ひどいよ」
つぶやく言葉と一緒に、彼女の目尻にじわりと涙が浮かんだ。それはゆっくりと重力に従って、白い頬をすべり落ちていく。その言葉で、僕は確信した。やはり雛乃は、両親をきちんと愛していたのだと。
不意に彼女が横を向いた。
となりに座った僕と、ほんの十数センチしか離れていない距離。その距離感にとぎまぎしながら、僕は雛乃の瞳を見つめていた。
彼女の瞳には、すがるような光があった。
「……約束、しよ?」
「約束?」
「うん……約束。あのね、直也。直也は……直也だけは、私を……私を、決して裏切らないで……っ」
掠れた声が雛乃からこぼれた。それは、彼女がみせる弱さだった。いつだって明るくて、しっかりもので、健気だった彼女。
「……分かった。約束するよ」
僕は頷いた。
雛乃が他県の高校に入学したのは、それからすぐのことである。
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