第二章 藤の散る庭で
九尾の狐
塔子が再び歌舞練場に訪れたのは、4月も半ばを過ぎてからだった。瑞希と陽菜の分も合わせて招待券をもらったからだった
例年なら最終リハーサルにあたる〝そうざらえ〟に招待されて誰より早く観れるのだが、今年は寝込んでいたのだから仕方がない。塔子は友人と一緒に観れることを楽しみにしていた。
歌舞練場に観劇に行くことが決まってから、中庭にいるだろう狐のことが妙に気になった。帰り道に待ち伏せをしていた紅丸と違って、狐の方は音沙汰ひとつない。
(こっちからは何にもしないのが得策なのかなあ)
会いたいわけじゃない。だが、友人との観劇の当日に水をさされるのは嫌だなあって思う。前回みたいにチケットを無駄にするのは嫌だし、瑞希と陽菜を誘った手前ドタキャンなんて絶対に許されない。
しかし連絡方法も無いし、直接直談判に行くしか無いだろうと思う。
(当日早めに行って邪魔しないようにお願いしよう)
なんだか本末転倒だが、案がそれぐらいしか見つからなかった。気合いを入れて準備した塔子は待ち合わせ時間よりずっと早く祇園甲部歌舞練場へ向かった。開場の時間よりも早いが塔子の顔を知る組合の人は楽屋の方に通り抜ける道を開けてくれた。
これで計画通りに中庭へ抜けることができる。まだ前の公演中だから、窓から見える庭の方には誰もいない。
(でもきっと狐はいるわ)
お茶席から庭に出る。池と滝を抜けて初めて彼に会った御廟の方へ向かった。もう枝垂れ桜とうに散り、藤の花が降るように散ってきた。
(中庭に藤棚なんてあったかしら?)
塔子は上を見上げた。御廟の方には大きな藤の木があり、木の上に寝そべる狐の姿が目に入った。その花びらが降ってきていた。
「まだ5月にもならないのに、藤が全部散っちゃうわ。どうせまた妖術で咲かせたんでしょう」
「塔子が、私に会いにくるのが見えたのでね。何かしてあげたくなったんだよ」
ふわりと、藤の花と共に降りてきた姿はまるで天女のように神々しい。思わず見惚れてしまう。
「今日はお願いがあってきたの」
狐は興味深そうに眉を上げる。
「申してみよ、対価は高いぞ」
口調とは裏腹に上機嫌なようだ。
「あのね、今からここで友達と都をどりを観劇するから、今日だけは邪魔しないでほしいの。普通の日が過ごしたいから」
「塔子はそんな事を言うために私に会いにきたのか?」
「そう、何にもしないでほしいの。私のこと忘れてたなら忘れたままでいいから!」
狐は塔子の願いに不満げな表情を浮かべる。
「お前の願いを叶えてやってもいいと思った私が馬鹿みたいじゃないか」
少し拗ねたように狐が呟く。
「本当にお願い、お願いなの」
塔子が頼めば頼むほど、狐は面白くなさそうな顔になる。しかし必死な表情の塔子に根負けしたように、溜め息をついた。
「高い対価をもらうからな?それにお願いのやり方が違う」
「じゃあどうするの?」
きょとんとなる塔子に狐は意地悪そうに笑って答える。
「私の耳元で囁け」
狐は膝を降り、塔子の腰に手を回す。
「友達との時間を邪魔しないでください、よろしくお願いします…?」
距離の近さに戸惑いながらも、私の囁いた願いに狐は弓形の眉を顰めた。
「全然違う」
狐の綺麗な髪の間から、白銀色のふわふわな耳がピンとたった。
「まず耳はここ。それから私の名前を呼べ。あとは、そうだな願いの内容は胸糞が悪い。もう、お願いって囁くだけでいい」
「名前知らないわ」
そう言う塔子を至近距離で見つめる金色の瞳が驚きに見開いた。
「花嫁になるのに、私の名前も知らなかったのか」
「え、花嫁にはならないです」
塔子は無碍に即答する。
「まあ、いい。今日は名前だけでも覚えていけ。私の名前は
藤の花が吹雪のように私たちに吹き付ける。降る花弁に塗れて吹雪の姿はあまりに美しかった。吹雪は願いを待っているように塔子を見つめた。
塔子は自分の鼓動の高鳴りを感じた。戸惑いながらも、ふわふわの耳に顔を近づける。鼻の先に触れる毛の感触がくすぐったい。今更嫌だとも言えない。目をギュッとつぶり、私は囁いた。
「吹雪…お願い…」
「分かった。九尾の狐が聞き届けよう」
吹雪の唇が塔子の唇に触れる。塔子はびっくりして目を開けたが、そこに吹雪の姿は既になく、藤の花がただ散っていた。
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