第50話 彼の見える世界

 歩く。歩く。歩く。


 街を歩いていく。

 塀の上を歩いていく。

 路地裏を歩いていく。

 尻尾を揺らし、風に髭を撫でられ、爪で地面を掻く。四つ足で歩くことも今じゃ違和感がない。

 少し低い視点から見える風景。随分と馴染んでしまった世界。


「どうしてあの子がこんな目に」

「きっと大丈夫だよ。今は信じて待っていよう」


 聴こえてくる声。見える景色。当たり前にいた住処。

 共に過ごしてきた家族たち。大切だったけど自分から何かをしようとはしなかった。ずっと目を閉じて、耳を塞いでいた場所。


「何が起きてるの。どうして」

「驚くことじゃないよ。こうなるのは時間の問題だったかもしれない」


 繋がりを持ち続けた友人たち。

 これまでも毎日のように顔を合わせていたのに、随分と離れてしまった気がする。人間だった頃と猫だった頃では何かが違うのだ。


 もうすぐ戻れる場所。やっと帰還できる世界。失くした物を取り戻し、全ては元通りになる。ようやく昔の日常を取り戻せるのだ。

 だというのに心はひどく落ち着いていた。身を震わせるような喜びなどない。

 その先がどうなるのかを知っているから。

 確かに以前からあったものは取り戻せる。

 だが新たに手に入れた物を失うことになるのだ。とても大切で今では切り離せないものを。


 それは正しい。彼らは元々ここにはいなかった。

 住んでいる世界が違うのだ。出会ったことはただの偶然。本来なら関わることなどなかった。理屈を言われなくても、充分すぎるほどわかっている。

 だけど交わってしまった。こうして現実に出会ってしまったのだ。


 当たり前のように触れられることがこんなにも愛おしい。毎日がお祭りのように騒がしかった日々は、かけがえのないものだった。

 全ての幕は閉じようとしている。もうすぐ手の届かない宇宙の果てへと旅立ってしまう。


 自分には何もできない。この別離は約束されていたのだから。

 どれだけ悲しくても、いくら苦しくても、どんなに泣いても結末は変えられない。

 自分には何もできない。

 今迄何一つとして行動してこなかった。何一つとして積み上げてこなかった。そんな人間に今を変えることなどできはしない。


『何かを変えるスイッチなんてどこにでもあるんだよ。凡人だろうが天才だろうが関係ない。押すかどうかだけだ』

『あなたは確かに家族を裏切ったかもしれない。でも何もしちゃいけないなんてことはない。人はやり直すことができる。何度だって立ち上がることはできるんだ』


 耳に響く声。己の世界を変えた人たち。言ってることもやることも真逆のくせに、どちらの言葉も胸に残る。どちらの考え方も一方的に否定できない。

 どちらも大切で、どちらもかけがえのない存在だからだ。こんなにも深く刻まれてしまった。彼女たちの声を聴かないなんてしたくない。魂にまで刻まれている。


 自分には何もできない。こんなにもちっぽけな存在だ。行動しても無駄だとわかっている。観客の一人がたまたま舞台に上がり込んだようなものだ

 だからいつもと同じように成り行きを見守る。誰よりも近くで起こる全てを目にするのだ。何かをする必要はない。それが一番正しいのだ。


 頭で出ている答え。従うべき正しい道理。


 それを強烈に否定する『何か』があることに、自分でも気づいていた。

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