その初恋は苦くて痛い

トム

前編



――教えてあげよっか。





 ふと鼻先に何かがさわさわと触れている感覚で目が覚める。薄っすらと目を開いて見つめる先には赤い天井。そして周りには小さなダウンライトが幾つかオレンジ色の心許ない明かりを溢している。半身に重みを感じて視線をずらすと、明るい髪色にオレンジが反射しているが、それが金色だったとすぐに思い出した。


 ……あぁ、髪の毛が当たっているのか。


 ソイツは俺に寄りかかり、脇の下辺りに顔を埋めている。身体は寄り添うように密着し、片足を腰のあたりに乗り上げさせて、腕を回してしがみ付くようにして寝息を立てていた。おかげで長い髪が乱れ、広がった部分がちょうど俺の顔に掛かってきているのだ。



 ――鬱陶しいな。


 互いの素性を深くは知らない。何度かメッセージをやり取りしただけの間柄だ。勿論会ったのは今日が初めてだし、もう会うこともないだろう。そう考えていると、この纏わりついてくる感じが非常に不愉快だ。先ずはしがみつくように回された腕をゆっくりと解き、そのまま横にずれるように体を離すと、一糸纏わぬ姿で眠っているためか、彼女は一瞬身じろいで、腕を縮めて丸くなる。起こすのも面倒だと思い、落ちていたシーツを引き上げると、頭まで被るように覆ってやる。




 フロントに声を掛けて一泊分の金を払い、ホテルを後にする。シャワーを使いたかったが諦めた。そんなに大きな音を立てれば流石に起きるだろう、そうなれば後が面倒だ。わざわざサブの携帯を使い、新しく作ったアドレスでやり取りしたのに……。


「……削除っと」



 まだ夜も明けきらぬ午前4時、煌々と光るラブホ街の灯りの下、中身を綺麗さっぱり削除した携帯を胸ポケットに放り込むと、一つ大きな欠伸をしてから、タクシーを拾うため、大通りへと歩き始めた。




~*~*~*~*~*~*~



「昨日はどうだった?」


 事務所に入るなり、同僚が聞いてくる。一瞬何がと思うが、コイツは俺が昨日どこへ言ったのかを知っているんだと思い出した。


「……飯食ってそのまま直行コース。ありゃ駄目、にも出来ん」

「何で?!」

「いくら若いっつっても、メンヘラは無理」

「あいたぁ……そりゃ無理だな。でもスル事はしたんだろ?」

「あぁ、そっちはな。でもメンヘラでマグロは無しだわ」

「あらら、メンヘラチャンなのにマグロって……経験少ないとかか?」

「知らねぇ、一々聞かねぇし。お口は上手かったけどな」

「っかぁ、羨ましいねぇ。また今度、セッティングお願いします!」

「やだよめんどくせぇ。それに、お前にはサイト教えてやったろう?」

「いや、そこは――」


 朝っぱらから会社の事務所で何を話しているんだと頭をよぎるが、ここは男所帯の所謂ガテン系の会社だ。文句を言うどころか、誰も彼もが混ぜろ混ぜろと寄ってくる。そうして、所員全員が集まるまで駄弁っていると、最後に所長が来て、「行くぞ~」の一声で仕事が始まる。




 ――いつからだろう、恋愛をしなくなったのは……。




 昼の休憩になり、現場の近くにある昔ながらの定食屋に入る。入り口を入ると、左手にはずらりと小鉢や一品物のおかずが所狭しと並び、盆を手にとり好きな物を取りながら奥のレジに向って進んでいく。途中で店の人に白飯の中を頼み、レジ前で豚汁を貰って盆に載せた惣菜との合計金額を支払って、空いてる席へと腰を下ろす。昼の工事現場近くの定食屋、当然ながら空いてる席など少なく。結果、相席をして見ず知らずの連中と話すこともなく飯に集中する。


「……どうだ? もう現場には慣れたか?」

「……はぁ、なんとか?」

「ははは! そりゃそうだよな。15? 6だっけ? 中学卒業したばっかりだもんな、まだ体力もついてねぇよな」


 そんな声がすぐ隣の席から聴こえてきた。その声につい隣を見ると、そこにはどう見ても子供の顔をした、作業着姿の男が一人、きつそうな顔をしてうどんを啜っている。


 ……あぁそう言えば、今はまだ5月。中卒の新人か、まだ胃が追いついていないんだろうな、頑張れ。



 ガテン系の職人世界には、学力査定は殆どない。その為中学校からの就職依頼がたまに来る。依頼内容は当然就職の斡旋だが、内申代わりに直接先生が訪ねてきたりもあったりするのだ。ウチにも何度か来たことが有る。教師に連れられ、不貞腐れたやんちゃ坊主が事務所に入った途端、小さくなっておどおどする……。何しろ社長は見た目がほぼ鬼だ。事務員すらゴツい身体の兄ちゃん達、想像してたのとは全く違う状況に、彼らは即座にチワワのように震えていた。


 ……懐かしいな、俺もそう言えば同じだったな。まぁ、俺の場合は定時制高校の斡旋だったけど……。


 


 ――女の子のここ……見たい? 私のここ……見たい?




 定食屋の後、仮説の飯場で休憩を取る。大体が職種ごと、会社ごとに集まってはいるが、大手が組むと、何年も同じ場所に同じ様な人間が集まるため、いつの間にか職種や会社など関係なく仲良くなる連中が幾つか出来上がっていく。……何しろほぼ脳筋の集まりだ、大抵はギャンブル好きか女好き、後は趣味の何かで盛り上がっている。そんな連中を横目に見ながら、昨夜の寝不足を取り戻そうと、奥で長椅子をベッド代わりに寝そべっていると、女好きの集まりから一人抜け出してくる奴がいる。ソイツも同じ様に隣の長椅子にひっくり返ると、大きな欠伸をして俺に話しかけてきた。


「丸さん、昨日の女、メンヘラマグロだったんだって? また面倒くさいのに当たったな」

「……あぁ、おかげでアドレス一つとサイト、当分使えねぇ」

「アハハ、だよな。そう言うやつは張ってる可能性高いもん。他の所も気をつけないと」

「そのためのサブだったのに。まぁ、捨て垢ならまだあるし、そろそろ寝かせてたのでも復活かね」

「アハハ! アンタまじ鬼畜。一体どれだけヤッてんだよ」

「……人数なんて覚えてない。そう言うゲンちゃんだって100から先は数えてないって言ってたじゃん」

「あ……。そこは覚えてるんだ」

「……プッ!」

「「アハハハハハ!」」



 ――女なんて、ヤるだけの道具にしかならねぇ。……信用なんて、絶対できないんだから。



~*~*~*~*~*~*~



「おつかれさん」

「おつかれ~」

「っした~」


 仕事を終え、事務所に戻って車に積んだ道具類を片付けると、既婚者や、若い連中はそそくさと逃げるように帰っていく。それらを見送り残った中堅の人間たちは、事務所に戻り日報などを書き終えると、奥の給湯室から缶ビールを持ってくる。


「あ、俺は今日いいや」

「お?! 何だまたデートか?」


 俺の事務机に缶を置こうとした10歳以上は年上の、同じ班長に断りを入れると、ニヤリと茶化すようにそんな事を言う。


「……いや、流石に今日は帰って寝たい」

「はぁ~! お前まだ30だろ?! 俺の若い頃なんか――」


 ……アンタ、一体何回目だよその話。


 若い頃自慢を始めた彼に「腰がやばいんだよ」と応え、俺がその話をスルーすると、そのまま隣に座った奴に話を持っていった。振られたソイツは事務仕事がまだ残っていたのか逃げ切れず、恨めしそうな視線を俺に寄越すので、片手ですまんと合図して、そのまま事務所を後にした。



 自宅までの短い道のりを、わざわざ新車で購入した高級セダンを走らせる。途中でコンビニに立ち寄って、適当に買った弁当と煙草を助手席に置き、お茶と珈琲を忘れたと、店に戻った。


「ありがとうございましたぁ」


 若い女性店員がこの時間まで? と少し訝しがりながら、気に留めても仕方ないと思い直し、車に戻るとそのまま自宅までアクセルを踏んだ。



◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 少し離れた駐車場に車を停め、マンションまで歩いていく。単身者向けの1LDKのため、駐輪場しか備えていない。オートロックの自動ドアを潜り、郵便受けをチラと覗くと入っているのはチラシばかり。纏めてコンビニ袋に放り込み、エレベーターで自室へ向かう。


 玄関ドアを開けてライトのスイッチを入れると、廊下のダウンライトがオレンジに灯る。廊下を進み左手のダイニングのドアを開けると、そのまま電気も点けずにテーブルに袋を置く。寝室で着替えを持ってダイニングの向かいのドアを開け、洗面室で服を脱ぎ、そのまま風呂場でシャワーを浴びた。



 ざあぁぁ。


 頭から熱いシャワーを被り、全身に纏わりつくドロリとした、疲れや汗を流していく。


 ……クソ、何なんだよ。どうしてずっと……。




 風呂から上がり、飯を食って冷蔵庫に入れた缶ビールを煽って苦い顔をする。喉越しのせいじゃない、それはとっくに忘れたはずの遠い記憶の所為――。





 小学生の頃、両親が離婚した。俺が6年で妹はまだ2年生……。母に付いて行った俺達は、それまで暮らした地域を離れ、校区も違う場所へと引っ越した。母はすぐに就職し、俺と妹も転校し妹はすぐ馴染めたが、俺には無理だった。


 小学6年生ともなれば当然だが個性が出来る。それまで作った友人達にしてもそう。それまで蓄積した全てをゼロには出来ない、校区が違っていたとは言え、小学生が自転車で30分も走れば地域に戻れる。そのせいで、こちらでの友人づくりに失敗し、それを離婚のせいだと責任転嫁してしまった。結果として小学校では浮いてしまい、喧嘩までしてしまう始末。


 そんなひねた坊主が、3校もの小学生を統合した中学に入学するとどうなるか……。


「――お前が新入生の丸岡まるおか?」


 入学してまもなく、2年に校舎裏へと連行され、当時の中学の番長と呼ばれるグループ前に引きずり出される。周りには見たこともないような所謂ヤンキーが勢ぞろいしており、リーゼントにソリコミは当然。長い学ランや変に膨らんだズボンを履いた連中が、ニヤニヤしながら取り囲む。横には女子生徒も何人か見え、地面に摺るように長いスカートで、パーマの当たった髪でコソコソ笑いあって居た。


「俺の弟、健太ってんだ。こないだ、鼻折れたって泣いてきてなぁ!」


 一人の2年が前に出てきてそんな事を言いながら、言い終わる前には頭突きが綺麗にヒットした。その後はお決まりの通りで、周りの連中と一緒にボコされる。頭を抱え、腹を守るように屈むと、引きずり倒され、意識がなくなるまで殴られた。



「――ねぇ、大丈夫?」


 校舎が真っ赤に染まり、校舎裏が日陰になって真っ暗になりそうな頃、ふと聴こえた声に腫れ上がった目を薄く開ける。そこに見えたのは明るいオレンジの髪、いや、夕焼け空に反射した明るい栗色の髪だった。



~*~*~*~*~*~*~



「上がって」


 何とか立ち上がり、彼女に言われるがまま手を引かれていった先には、二階建ての文化住宅が有った。一番奥の家の鍵を開けると、彼女はそのまま俺をその家に招き入れる。玄関口で躊躇していると、「親は夜仕事だから大丈夫。それより、手当しないといけないから早く入って」と言われ、顔の疼きに耐えられず、その言葉に従う。部屋に上がるとそのまま洗面台に連れて行かれ、蛇口をひねるとそこへタオルを突っ込む。ある程度水を張った洗面台に、「痛むだろうけど先ずは汚れを落とさないと」と言う。内心嫌だと叫んだが、このままだと酷くなると思い、息を止めてそこへ顔を突っ込んだ。



◇  ◆  ◇



 何度か意識を失いかけたが、意地でそこは耐え、最終的には服も全て脱がされ、お湯で濡らしたタオルで拭いてもらった。パンツを脱ぐことは無かったが、流石に体の前は自分で拭いた。



 ――結城乃愛ゆうきのあ


 彼女は自分の名をそう教えてくれる。顔の彫りが深く、少し日本人離れしているなと思っていると、「私、父がカナダ人なんだよ」と教えてもらった。今年中3に上がったばかりの14歳、髪は元々地毛で明るいんだと言う。別に俺達のようなヤンチャではなく、どちらかと言えばクラスでは浮いた存在だと、笑っている。


 1980年代当時、ハーフはまだ珍しい人だった。特に白人系の綺麗な顔立ちは、背の高さは別として足にしても、細く長い。中学3年生ともなれば、しっかりと女性的な体つきで個人差はあれど、その体格はどこから見ても、大人の女性のそれだった。俺の通う中学は男子は学ラン、女子はセーラー服。彼女はその肢体のせいで、胸部分は持ち上がり、腰部分は広がって、丈は普通でもまるでフレアスカートの様になっている。腕を上げれば腹部が見え、見るからに窮屈そうにしていた。


「……ねぇ、さっきからチラチラ見てるけど、目つき厭らしいよ」


 救急箱を片付けながら、彼女がくすくす笑ってそんな事を言ってきたが、その頃の俺は、悲しいかな第2次成長期を迎えていなかった。


「え? なんか窮屈そうな服を着てるなぁと思って」

「……へ? あ、あぁ……アハハハハ! うん、そうね、そうだね。アハハハ」


 中学入学早々不良グループに目をつけられ、喧嘩をしてボコられるような俺だが、当時はまだ小学校を卒業したばかり。身長だって140ちょい、精通なんてまだしていない。それに女性の体は母や妹を見て知っている。性的な事を経験したことのない俺にとって、彼女の肢体はまだその程度だった。


「……なんで笑うんだ?」

「アハハハ……え? あぁ、ゴメンね。そう言えば君ってまだ小学校を卒業したところだもんね」


 蛍光灯の下で笑う彼女の顔はとても綺麗で、性はわからない俺でも、頬が赤くなるのを感じていた。


「……帰る。手当、ありがとう」

「え、あぁうん、それは全然いいけど……今夜は熱が出るだろうから、明日は寝てたほうが良いよ。送っていこうか?」

「いや、いい。家まで遠くないし」

「……でももう真っ暗だよ、見える?」

「見えるから大丈夫、じゃぁ」

「……うん」


 足元を確認しながら玄関先で靴を履いていると、不意に彼女がすぐ傍にまで近づいた。慌てて振り向くと、彼女は俺を真っ直ぐ見て告げてきた。


「……良かったらさ、友達になってくれる?」


 その言葉はいきなりだった。いきなり過ぎて心の深い部分を鷲掴みされたような気がする。包帯でグルグル巻きにされていなければ、相当なバカっ面を晒していたと思う。


「な! びっくりしたぁ。急に間近でそんな事言うなよ」

「……え?! あ、ご、ごめん!」


「……いよ」

「え?」

「良いよって言ったんだよ。入学早々、こんな事をしてたら周りからどうせまた浮くしな」



 恥ずかしかったのも有った。面と向かって友だちになろうなんて、言われたことがなかったから。しかも年上の、綺麗な女の子に……。だから、慌てて答えたので声が少し上ずってしまった。取り繕うように自分も浮くなんて話をしてしまい、お見合い状態で固まる。数秒ほど立った時、どうにもおかしさが込み上げてつい、その場で声を上げて笑ってしまった。


 ……二人同時に。



~*~*~*~*~*~*~



「……手、離さないでよ」

「わかってるって」

「絶対だよ!」

「ちゃんと掴んでるって!」


「ねぇ? ちゃんと……きゃぁ!」


 数メートル進んだ辺りで手を離した途端、フラフラと進んだ彼女の自転車は、呆気なくハンドルをカクンと曲げてすっ転ぶ。辛うじて自転車から飛び降りた彼女は、少し離れた俺を見つけて、ギャアギャアと騒ぎながら詰め寄ってくる。


「嘘つきぃ! 離してるじゃんか!」

「アハハハハ! ごめんごめん、でもホントに乗れないんだな自転車」


 ――あの日から数ヶ月が過ぎていた。


 季節は春から既に夏となり、学生にとって楽しみの長期休みが目前となっていた。


 そんな中、今日は家から少し離れた場所にある、河川敷まで俺の自転車に二人乗りで遊びに来ていた。土手から広場になった川傍に降り、最初は川べりで遊んでいた。しばらくして彼女が自転車を見ながら話しかけてきたのが「私、自転車運転したこと無いんだよね」だった。それから数十回と押しては止まりを繰り返し、いい加減大丈夫だと思って手を離したのだが……結果は数メートル止まり。日はまだ高い場所に有るが、流石に疲れが出て来た。Tシャツは既に汗が染み、タオルを首にかけているがそのタオルさえも汗を吸ってじっとりしている。


「ふぅ~、アチィ。タオルも絞れそうだ」

「……ふん! そこの川にでも飛び込めばいいじゃん!」

「いや、流石にジーパンだと無理だよ」

「脱げばいいじゃない」

「パンツ一丁にはなりたくねぇ!」

「……いいじゃん、まだお子ちゃまだし」

「はぁ?!」

「……私だって汗かいてるよ! なのに……」

「???」

「ばか! ばぁか!」


 ……彼女の言わんとする事には気がついている。学校でも浮いては居たが、友人がゼロではなくなっていた。そんな連中に下ネタ話を散々聞かされる事もある。ただ、俺には妹が居て、つい最近まで一緒に風呂に入っていたのだ。その為、女子の裸には免疫のような物がある。そりゃ勿論、妹と彼女の体つきには雲泥の差は認めるが、第2次成長期がまだ来ていない俺にとって、綺麗とは思ってもそれ以上の感情は下腹部には訪れない。


「何怒ってんだよ、なんだ? エロい目で見てほしいのか」

「……っ! っさい! ばか! もういい! 帰る!」

「あぁ?! っておい! 冗談だって! ちょっとぉ」


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