ファウストの蟲毒

渡橋銀杏

第1話

なあ、悪魔よ。そこにいるのだろう。


お前ならばすべて、知っているのだろう。


私はどうすればよいかも、天国へとゆけるのか、それとも地獄へとゆけるのかも、否、死後の世界など存在しないのかもしれない。私はいったい、何を間違えたのだろう。ああ、悪魔よ。そこにいなくてもいい、いるとして話をさせてもらう。


私は自分で言うのも恥ずかしいが、そのころの私はいわゆる好青年であった。鼻筋はぴんと高く、誰にでも善行を働くことを喜びに感じていたような、模範的な人間であった。しかし、そんな私にも悩みの種があった。それは恋人であるタールバッハ。彼女の事であった。


彼女は美しく、また気遣いがあった。常に私を三歩ほど後ろから支えてくれるような存在であった。ああ、そうだ。私は確かにタールバッハを愛していたし、その気持ちは今も持っている。しかし、どうすればいい。その愛をどのようにタールバッハへと伝えればいいかもわからぬ。


タールバッハは結核を患っていた。そう、重度の命を脅かすほどの結核であった。英吉利イギリス仏蘭西フランスでも流行っているその結核だ。当時の私はそれは苦心した。もしも私がただの数学者などであれば、ここまで悩むことは無かっただろうが、私は医者だったのだ。それを知っているお前は、私の弱い心へと付け入った。まさに悪魔だな。


私は大学で医療を学んでいた。だが、その当時は結核の治療法などどれほど高名な医師でも知らぬ。当然だが、大学などで学べることもないために私はそのことがひどく苦しかった。病気で苦しむ恋人を救えぬのならば、なんのために私は医者を志しているのだろうと。衰弱しながらも私のことを気遣ってくれるタールバッハをどうにか救えないかと私はずっと悩んでいた。


その夜だったな。お前が現れたのは。私が蠟燭の明かりを頼りに勉学へと励んでいるところであった。急に大きな風が吹き、気が付けばお前がそこにいた。そう、本棚の手前くらいだったな。お前はまるで山羊とも、蜘蛛とも、蛙ともとれるような見た目をしていた。


しかし、それは美しい声で私へと迫ったのだ。私に魂を差し出させて、代わりに医学の知識。それもありとあらゆるものを与えると。いや、私はこれを提案と呼ぶことはしない。お前の前ですうすうと寝息を立てていたタールバッハのその寝顔を見ると、私に選択などでき無かった。


私には今も魂などの事はわからぬ。医は科学である、魂など気持ちの持ちようが肝要であることは重々に承知しているが、それでも偉大なる先人たちが残した研究と、現代を生きる我々の完成させた科学というものが医学であるとそう信じている。


ならば、私の魂などはどうでもよく、科学の発展に仕えるのなら、そして愛するタールバッハ。その寝顔が永遠のもので、いやいつかは永遠になるのだとしてもそれを先送りにできるというのならば、私は魂などいくらでも差し出すと、お前ならばわかっていたのだろう。悪魔なのだから、それくらいは当然だろうな。


あの時の感触は忘れもしないさ、まるで湯水のように知識が脳にあふれてゆく。悪魔なども当然ながら私は信じていなかったけれども、こんな現象は悪魔でも無ければできない。私は特に結核についての研究を行っていたが、他に目や鼻や内臓に至るまでそのすべての構造を理解し、どのような対処を取ればよいのかがすぐに分かった。もちろん、タールバッハを治すためにはどうすればいいのかということも。その薬の作り方というものも。


私はすぐにその材料となるものを集めた。大学を休み、タールバッハには一時の別れを告げて私は欧羅巴ヨーロッパ中を探し回った。それも、タールバッハのためだと思えば苦では無かった。そして、もしもタールバッハを、その病気を治すことができれば、結核に苦しむ人々を救うことができると、その喜びが私を突き動かしたのだ。それは、医者の魂だった。


結果は知っての通りだ。お前の授けた知識になんの間違いもなく、タールバッハは見事な回復を遂げた。タールバッハの喜ぶ顔、あれは何事にも代えがたいほどの幸福があった。もしもお前が私の魂を抜き去って空っぽにしたとしても、その幸福が私を満たしていくのだとそう感じることもできた。


また、私はそれと同時に名誉を得た。欧羅巴ヨーロッパで流行していた結核を治す薬。それを私が開発したのだから私はそれにふさわしい名声を得た。常に感謝の手紙が欧羅巴中からひっきりなしに届き、皇帝陛下から勲章を授かるまでの栄誉を受けた。しかし、その帰り。私はあの女に出会ってしまった。お前が悪魔だというのならば、それは魔女であった。魔性の女であった。


ハーヴェイ。そうだ、ジャネット・ハーヴェイ。それは今までにタールバッハしか知らぬ私から心を奪うには十分すぎるほどの魅力を備えていた。するすると満たされた私の心、そこに手が何本も伸びて来るのだ。その手が激しく私の心を揺さぶり、ひどく体が熱くなる。紅く熟れた唇が私を誘惑した、いくらタールバッハの顔を、その笑顔を思い浮かべても私はハーヴェイの手招きにあらがうことはできなかった。


ハーヴェイの女陰ほとからあふれ出る蜜が、甘く私をまるで天国にでもいるかのような気持ちにさせた。頭がくらくらすると、まるで麻薬の様に甘美かんびであった。ハーヴェイの目が私を吸い込んでいくようだった。ハーヴェイとの接吻せっぷんは、私を離してはくれなかった。私は何度もハーヴェイを求めた。ハーヴェイもかつては私の持つ名誉や勲章を愛していたが、何度も体を重ねていくうちにハーヴェイも私を愛するようになった。


しかし、私にはまだ魂が残っていた。いつもハーヴェイと体を交わした後にタールバッハの顔をみると、ひどく自分が愚かに思えた。タールバッハは私のことを疑うことなどなく愛している。だが、ひとたびハーヴェイの味を知ってしまえばタールバッハに対して情欲じょうよくを向けることはできなかった。


私はタールバッハの結核が治ったと同時に婚約し、子供が好きだった彼女とともに温かい家庭を築いていくはずだった。しかし、もうタールバッハと子をなすことは叶わない。そのことをタールバッハはひどく気に病んだ。彼女からすれば、侯爵夫人や女優などが列席するパーティーなどに私が行ってしまえば、自分の持つ魅力などは全く敵うものではなく、彼女は自分の醜さを呪っていった。


ついには自分の顔をナイフで傷つけようとしたときには、これが悪魔かと、お前のことを心底恐ろしくなった。そこまでなることを理解していたのだろう。それに文句を言っても仕方がない。


私には医療の知識がある。その私が下した決断は一つであった。タールバッハをより魅力的にするしか、その方法は無かった。私はついにメスを取り、まずはタールバッハの目を開いた。その目をハーヴェイに近づけようと、手術した。しかし、それでも私は情欲が湧いてこなかった。次に鼻を高く、そして顎を細くした。それでも私はハーヴェイ以外には欲情できなかった。ついには私の好きであったタールバッハは無く、そこにはハーヴェイを模した贋作がんさくがあるのみだった。私は、そんなタールバッハを愛してやることはできなかった。


そしてついに、タールバッハはいなくなってしまった。手紙には私への謝罪と、新たな恋人と幸せになってほしいと綴られていた。その手紙を読む、そのことはひどく痛かった。私の心をぐさぐさと刃で貫かれているように痛かった。だが、タールバッハのいう通りにハーヴェイと結ばれることも考えられなかった。


そう考えれば、私にはまだ魂や人間の心を残してくれているのかと、思った。お前はどうだ。もしも、お前が既に魂を奪っているというのならば、この痛みはなんだ。もしもお前が奪っていないのならばすぐに奪ってくれ。この痛みから私を解放してくれ。私を地獄へでもどこへでも連れて行ってくれ。


ああ、現れたか。久しいな。前の通りに本棚の前に現れるとは、どういうこだわりかは知らん。だが、私を助けてくれ。頼む、この愚かな私に罰を、せめて罰を与えてくれ。許さないでくれ、タールバッハの手で、その手で私の手を絞めてくれるのが何よりもの望みだが、そうでなくともいい。私を助けてくれ。


悪魔。そう、お前は悪魔だ。なら、私を殺して魂を回収するのが仕事なはずだ。私を殺せ。そうだ、それでいい。この書物に埋もれて死ねるのならそれがいい。ありがとう、悪魔よ。愛してる、タールバッハ。

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ファウストの蟲毒 渡橋銀杏 @watahashi

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