若狭の情勢
亜美さんがたまりかねたのか、
「佐柿は、いや若狭はどうなっていたのですか?」
「それやるんか。長くてつまらんで」
「でも亜美さんの質問だから仕方ないよ。コトリ、出来るだけ手短にね」
若狭は若狭武田氏が守護だそうだけど、
「内紛いうか親子喧嘩が起こってもて、さらに国人衆が言うこと聞かんようになっとったぐらいに思うたらエエ」
室町時代と言えば守護大名って覚えたことはあるけど、これは室町幕府創設に手柄のあった家臣を将軍が任命していたぐらいだそう。守護に任命された国で守護の一族は天下り貴族ぐらいに思ったら良いとコトリさんはしてた。
天下りの貴族連中に対して地生えの豪族が国人になるらしい。室町時代も下るにつれて国人衆が力を付けて戦国時代に突入ぐらいかな。力を付けた国人衆は政治に口を挟んだり、守護のすげ替えまで力を持つようになっていったぐらいだそう。若狭ではとくに四老とされた、
粟屋越中守
熊谷直之
武藤上野介
逸見駿河守
がいたんだって。若狭の四大実力者ぐらいで良いと思う。時の守護の武田義統は父である信豊との抗争と、四老が言うことを聞かないのに困り果てて朝倉家に助力を頼んでいる。その結果として起こったのが一五六三年からの国吉城攻撃につながるそうだ。
「朝倉の介入は若狭に危機感をもたらしたでエエと思うねん。そりゃ大国やからな。最前線の粟屋越中守の奮戦はとくに若狭東部の国人衆の支持を集めたぐらいや」
この辺は国吉城が落ち、椿峠を突破されると滅ぼされるの危機感で良いと思う。これはあくまでも割り切った色分けとしてたけど、朝倉軍の介入により、四老のうち東若狭の粟屋越中守、熊谷直之が反朝倉派、西若狭の武藤上野介、逸見駿河守が親朝倉派になったぐらいに見たらわかりやすいって。ただ朝倉軍の介入も執拗で、
「粟屋越中守は佐柿の領主やけど、椿峠から関峠までも領地やったはずやねん。そやけど一五六三年から一五六七年の間に椿峠以東は朝倉の手に落ちたぐらいは言えると思う」
朝倉軍の介入が続く中で若狭の守護は武田義統が死んで息子の元明になったんだけど、一五六八年の時についに朝倉軍が若狭の中心部に侵入して小浜の後瀬山城を囲んで、降伏して来た武田元明を一乗谷に連れ去るとこまで行ったそう。ということはついに国吉城も、
「それも確認しとうて佐柿で話を聞いたんや」
朝倉軍はどうやら椿峠を迂回して若狭に侵入したで良さそうだって。それが坂尻からの越前坂。だけどそれがどこかははっきりしないとこがあるみたいだけど、
「地形を考えると坂尻からやから椿峠の海側の天王山のどこかを越えたとしか考えられん。おそらく朝倉軍が力業で切り開いたと見てる。朝倉が切り開いたから越前坂としたんとちゃうやろか」
椿峠を回避して佐柿方面に侵入しているのは事実だから他に考えようがないか。侵入した朝倉軍への追撃とかは、
「出来んかったと国吉城籠城記にはなっとるわ。粟屋越中守の手勢言うても地侍二百人に百姓六百人てな記録があるぐらいやから千人前後しかおらんかったで良さそうやねん。そんだけやったら、国吉城や椿峠を守るのは出来ても、城を出ての合戦となると無理やったんちゃうかな」
粟屋越中守ってそれだけしか軍勢はいなかったんだ。武田元明を一乗谷に連れ去った朝倉は、粟屋越中守や熊谷直之に武田元明の命令として降伏勧告をしてるけど拒否した記録もあるんだって、
「一五六八年と言うのがポイントの年でな、この年に信長が義昭担いで上洛に成功してるんよ」
ここまでもややこしいのだけど、ここからもっと複雑な話になって、守護の武田元明を朝倉に連れ去られた反朝倉派の粟屋越中守たちは、新将軍の義昭に頼ろうとしたみたいだって。
「義昭も戦国の怪人みたい奴やんか。乗ったとみたい」
将軍の命で武田元明を若狭に戻して若狭を正常化させるぐらいかな。これで新将軍の権威を高め、若狭を親将軍派にするぐらいの目的でも良いかもしれない。だけど義昭には権威はあっても、権威の裏付けをする軍事力が皆無だから、信長に相談ぐらいはしたはずぐらい。
信長と義昭の関係は上洛直後は良かったけど、後は悪くなるだけだったのは史実として良いはず。一五七〇年時点でも対立関係が深まっていて、そんな義昭が後ろ盾にしようとしたのが朝倉ぐらいの構図。朝倉が義昭に付く動きを見せれば信長と対立関係になるぐらいかな。
「朝倉は滅ぼすべき敵ぐらいに信長が考えを巡らした時に、若狭が見えて来たんやと思うねん」
朝倉を叩く、滅ぼすと言っても北近江には浅井がいて通れない。でも、ここで若狭を経由すれば一挙に朝倉に襲いかかれるぐらいの構想か。となると、
「いつからかはわからんが、若狭の国人衆への工作が行われとったはずや。その結果が今津から佐柿への道を開かせたんやろ」
いかにも戦国時代って展開だけど、若狭に信長が進めば朝倉だって、
「小細工はしとる」
信長と義昭の対立関係はあっても、信長の実力に義昭は勝てないから大義名分として将軍命令を出させるのか。信長の若狭介入の理由は、
「守護の武田元明を追放し若狭を壟断する武藤上野介を成敗して、若狭を正常化する」
あれっ、逸見駿河守は?
「寝返ったんやろ」
信長の若狭での敵は武藤上野介として軍勢を送り込んだって訳か。
「それだけやない気がする。若狭の正常化のためには朝倉が抱えとる守護の武田元明を若狭に連れ戻さんとあかんやろ」
えっ、それって、
「ある種の欺瞞作戦やが、朝倉にしたら信長はまず武藤上野介を征伐してから、朝倉との武田元明返還交渉があると見てもた気がする」
いきなり朝倉との全面戦争はないぐらいか。あったとしても今回は若狭の確保で、その次の段階で朝倉と決戦ぐらいかな。結果としては朝倉は乗せられたことになりそう。
「そこやねんけど、さらに朝倉がそう信じる動きを信長は見せたはずや」
なんだそれ、
「武藤上野介の石山城は高浜の山の方にあるんやけど、信長の先発隊は攻めたはずや」
な、なんだって! 敦賀だけでじゃなくて、若狭でも合戦があったの?
「考えてみれば自然やんか。大義名分を果たすのもあるし、後方のうるさい敵を排除しとく方が都合エエと思わへんか」
熊川宿から佐柿へのルートは信長軍にとっても生命線になるから、先発の別動隊が小浜から高浜方面の制圧をした方が良さそうよね。ん、ん、ん、それって、小浜や高浜だけじゃなく、
「当然や、佐柿にも留守部隊置いてるで。補給拠点やし。信長にしても粟屋越中守は初対面やからな。裏切らんように目を光らせとく意味もあったやろ」
そうなると金ヶ崎の退き口とは佐柿の後方部隊との合流を目指したものだったとか。
「そうしか考えられへんやん。浅井の離反で信長が困ったのはそうやろうけど、絶体絶命の窮地とまで考えてへんかったんちゃうか。少なくとも信長にしたら金ヶ崎から佐柿まで四里退くだけやからな」
朝倉の追撃の杜撰さを指摘する人も多いけど、
「言い過ぎと思うで、朝倉軍かって木の芽峠から敦賀に下りて来んとなんも出来へんやん。その頃には金ヶ崎とかにおった後方部隊は佐柿に逃げ込んどるから、せいぜい相手できるんは木の芽峠まで進んどった部隊ぐらいやろ」
加えて、
「回り込もうと思うても、街道逃げる方が早いで。包囲かってそうや、もう田植えのシーズンや」
そんな追撃状況が朝倉家記にあった、
『人数崩れけれども宗徒の者ども恙なし』
脱落した雑兵ぐらいは討ち取れても、大将クラスは逃げられてしまったぐらいかも。ここで亜美さんが、
「信長軍が退いた後の粟屋越中守は?」
これについては、
「金ヶ崎の退き口の後に何があったか覚えてるか?」
亜美さんは少し考えて、
「もしかして姉川の合戦とか」
「そうや。あれも戦史に残る大決戦やが、あれが六月二十八日やから二か月後の話になる。金ヶ崎の退き口で敦賀まで来た義景は、八千ともされる大軍を北近江に送り込んどる。つまりやが若狭は放置の決定をしたでエエはずや」
姉川の朝倉軍って、そんなに早く動いていたのか。義景もやるじゃない。
「ああそうや。信長は早期に北近江にリベンジに來ると判断したことになる。援軍としたら余裕で間に合っとるし、浅井朝倉連合軍は奮戦しとる。でも勝ったんは信長や。そこからも朝倉は対信長に目いっぱいになって若狭やっとる余裕はなくなってもたんや」
なるほど。浅井朝倉連合が不利になって行けば、粟屋越中守も信長派でいても不思議無いか。でも義景の最後はガタガタになっていたはずだけど、
「戦争はな、勝たなあかんねん。勝ってこそ士気も上がるし、求心力も出てくる。そやけど大敗なんてやらかしたら、一遍に士気も求心力も落ちる。長篠で負けた勝頼もそうやったろ」
シビアだけどそれが戦国時代か、
「金ヶ崎前の若狭の情勢は知っといたらおもろいけど、高校生にはまだ早いかもしれんわ」
つうかコトリさんのムックが高校生には早すぎるでしょうが。
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