司馬遼太郎のウソ

 待つことしばしで郷土史研究家の人のクルマが来てくれて、


「亜美さんはクルマに乗せてもらったらイイよ」


 タンデムのケツは辛いはずだもの。そして家に着いたら、リビングと言うより応接間だなこれ。ユリたちも上がらせてもらって、


「国吉城籠城記の話ですよね・・・」


 熱弁を揮ってくれた。さすがは郷土史研究家だ。へぇ、国吉城って朝倉の攻撃を受けてたんだ。それも一五六三年から毎年のようにだって。コトリさんの関心は一五六八年の時のものみたいだけど、


「たしかに朝倉軍は気山に入り込み小浜まで攻め込んでます」

「その時に越えたんが越前坂となっとるけど」

「それは・・・」


 かなり突っ込んだ話みたいだ。亜美さんの課題の足しにはなりそうだけど、ちょっとディープ過ぎるかも。二時間ぐらい話し込んでから、


「ありがとう」

「どういたしまして。ほっちのお嬢ちゃんの勉強の足しになってくれたら嬉しいです」


 バイクに乗る時に、


「コトリ、腹減った」

「ユッキーは、走る腹時計か」


 でも山登りもしたからユリも減ってきた。佐柿の隣と言うか、今は佐柿も美浜町だけど、そこの道の駅に行くみたいだ。


「駅って名前は付いとるけど、道の駅やのうてタダのドライブインらしいわ」

「鯖食べたい」

「あったらエエけどな」


 美浜駅を過ぎたあたりにあった。たしかに少し民芸風のドライブインだ。駐車場も広々していて、停まっているトラックが小さく見えるぐらい。レストランに入ってメニューを見たんだけど、


「焼鯖定食」

「海鮮丼」


 そのあたりになるからユリも亜美さんもそうしたけど、


「へしこ茶漬けも食べなくっちゃ」

「おろし蕎麦も欠かせんな」


 やっぱりやるか。飲むのも食べるのもあの二人は底なしみたいなものだからね。それそうとへしこってなんだ。


「シンプルには鯖の糠漬けや」

「伝統的な保存食よ。鯖街道でも運ばれたのじゃないかなぁ」


 鯖の漬物みたいなイメージで良さそう。鯖沢庵じゃないだろうけど、糠を洗えば刺身になり、そのまま焼いても美味しいとか。その中でも一番のお勧めは、


「お茶漬けよ♪」


 土産物屋も兼ねてるから、ヘシコだけでなく、蕎麦やゼリー、羽二重持ちに蜂蜜と買い漁り、


「宅配宜しく」


 でたぁ。これも見慣れた光景だ。


「へしこソフトって行けるじゃない」

「へしこのサブレもアクセントやな」

「サブレじゃなくてサバレだよ」


 ここで亜美さんが、


「尻啖え孫市のフィクションじゃない部分ってどこなのですか」

「金ヶ崎の退き口やったら、信長が敦賀に攻め込んで、浅井の離反で京都まで撤退するとこだけや」


 こりゃまた大胆な。


「そやけどそこにさえフィクションがある」

「どうして、あそこまでしたんだろう」

「まさか知らんかったは無いと思うけんど」


 司馬遼太郎の作品は歴史小説だけど、まさか史実も変えてるとか。


「そのまさかや」

「それなのに日付の帳尻を合わせてるから故意にしか見えない」


 問題は信長の敦賀までの進路みたいだけど、


「元亀元年二月二十五日に岐阜を出発しとるのはエエねん」


 そこから垂井、寝物語の里、そして常楽寺だったはず。とくに寝物語の里では田楽一座のエピソードが入るから良く覚えてる。。


「そやけどな史実は赤坂に泊って、その翌日には常楽寺や」


 一日早かったのか。でもそれぐらいは、


「信長は二月二十七日に常楽寺に着いて、三月三日に相撲興行をやっとるのは史実や」


 そこからもゆるゆると欺瞞行動を、


「三月五日には京に入っとる」


 なんだって! 尻啖え孫市なら孫市率いる鉄砲部隊が鉄砲興行もやってるじゃない。


「あんなもんやっとるか」

「勝家の意見が正しいよ。振り向いて一斉射撃されたら信長はイチコロだもの」


 言われてみれば。でもだよ家康が来てからようやく京に動いたとなってたけど、


「三月五日に信長が到着する前に家康は京におる」


 信長公記の三月五日のところには上洛して信長が半井驢庵の屋敷に泊った事と、


『三州より家康公御在洛』


 こうなってるらしいから既に京都にいたか、信長と一緒に常楽寺から京都に来たかのどちらかになるはず。じゃあ、じゃあ、ゆるゆるしてたのは司馬遼太郎のウソだとか。


「ゆるゆるしとったんは事実や。三月五日に京に着いて、能興行をやったんが四月十四日や。ゆるゆるはしとったけど、おったんは常楽寺やのうて京や」

「でもそこはまだ良いよね」

「ああ脚色の許容範囲や」


 信長が京を出発したのが四月二十日なのか。


「これは尻啖え孫市でもそうや。脚色の帳尻を合わせたぐらいは言えるやろ」

「信長はどこから敦賀を目指した?」


 北国街道を北上して、木之本から柳ケ瀬を通って敦賀だ。


「信じられないぐらいの大ウソよ」

「信長はそんなとこ通ってへん」


 なんだって! じゃあ、どこを、


「昨日の信長公記の解説聞いてへんかったんか」


 尻啖え孫市読まされてたじゃない。


「読みながら聞いとかんかい」


 あんな『なんとか候』が耳に残る方がおかしいでしょ、


「まあエエは、信長は京都から坂本に出て、その夜は和邇に泊っとる」

「今なら琵琶湖大橋の少し北側で湖東じゃなくて湖西だよ」


 常楽寺に戻ってないじゃない。


「二十一日の夜は高島郡の田中城で二十二日は熊川や」


 熊川ってどこだ。


「信長は高島田中城から今津に出て、そこから九里半街道で若狭に入ったってことや。熊川はこれから行くから楽しみにしとき」

「付け加えとくと二十三日の夜が佐柿で、二十五日に敦賀に攻め込んでるよ」


 尻啖え孫市の信長の進路はまるっきりウソじゃない。


「ちょっと考えたらわかることや。北国街道なんか進んだらどうなるかや」


 どうなるって言われても、


「北国街道は浅井の本故地の小谷城の目の前を通るんやで。それも実数はわからんにしても大軍や。こんなもんが通ったらどうなるかや」


 どうなるって言われても敦賀に攻め込むのでしょ。


「そやから信長は通ってへん。そやけどもし目の前にそんなもんが通ったら浅井は全軍呼び寄せて小谷城で臨戦態勢や」

「ユリさん、戦国時代なの。朝倉に攻め寄せると言いながら小谷城を攻めることぐらい誰でも予想するのよ。そういう反応になるのが普通だから、信長だって通らないってこと」


 なんて殺伐とした時代だ。まさに油断も隙もあったもんじゃない。それはともかく、ここまでのウソをなぜ司馬遼太郎は、


「わからんのよ。作品の展開上でそうしたかったぐらいしか思いつかへんねん」

「でもさぁ、それにしてもじゃない」


 そりゃ、鉄砲芸のエピソードは楽しかったけど、それが書きたいがために史実を捻じ曲げるのはやりすぎだろ。


「エエ方に取ったら、司馬遼太郎の思い違いや」

「晩年のイメージが強すぎたのもあるかも」


 晩年と言うか、全盛期の司馬遼太郎が作品準備のために集めた資料は凄まじかったらしい。実家の書斎は集められた資料で図書館並みの充実ぶりだとなってるぐらいだもの。だけど尻啖え孫市を執筆していた頃は、


「直木賞を取ったんが梟の城やし」

「その頃の代表作は大坂侍とか、風の武士とか、風神の門とか」


 読んだこと無いけど、


「忍者小説や」


 それでヒットを飛ばしていたから、忍豪作家とも呼ばれたぐらいだったそう。それって忍者が主役だから歴史小説じゃなくて時代小説になるんじゃない。


「尻啖え孫市を書いてる頃が歴史小説家への転換期に見えるんよね」


 司馬遼太郎にしたら時代小説を書いてるつもりだから、うろ覚えとか、思い違いで書いてしまったぐらいって、どうなのよ。

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