歴史小説と時代小説

 鯖の話で盛り上がってから部屋で酒盛り、もとい話の続き。


「ユリはこれを読んどいて」


 尻啖え孫市だ。


「亜美さんはこれを頑張って一緒に読んでみよか」


 なんだその漢字の行列みたいな文章は。それって漢文とか、


「漢文ちゃうで。ひらがなも入っとる日本語文や」

「候文なのがちょっと読み慣れていないだけ」


 信長公記巻三となってるけど信長の本だよね。太田和泉綴之って名前の人が書いたのか、


「そこはそう読まん。太田和泉これを綴るや。一般的には太田牛一として知られとる」


 知らない人だ。


「ごく簡単には信長の近習として早くから仕え、武勇も優れとったみたいやけど、主に書記とか文官として働いた人や」


 信長と近いところで過ごした人が、信長の死後に信長の一代記を書いたのが信長公記って関係ね。


「ああそうや。そやけど太田牛一はマメな人やったみたいで、書記の仕事をしながら、信長の記録を書き留めとったみたいやねん」

「だから内容がかなり正確なのよ。だから信長研究で欠かせない資料と思えば良いわ」


 太閤記みたいなものかな。


「だいぶちゃうな。あれは小瀬甫庵が書いた物やし、甫庵は信長記も書いとるが、どっちも歴史研究の役には立たん」

「でも歴史への影響は巨大だけどね」


 なにを言ってるのかわかんないけど、


「歴史はな、作られるんよ」


 はぁ、歴史は過去の事実でしょうか、


「そうはならんとこがあるのが歴史やし、それをムックするのが歴史の面白さや」


 わかりにくいな。


「歴史はな・・・」


 これは亜美さんに聞かせてるのだろうけど、だからユリにもわかりやすい。歴史って歴史書みたいな記録を史実として覚える面はあるけど、すべてのことが記録されてる訳じゃないのはなんとなくわかる。コトリさんに言わせると歯抜けの断片的なものしかないそう。


「それでも昔かって歴史小説は書かれてるんよ。古いものなら平家物語とか保元物語、平治物語とかが有名や」


 軍記物語ってやつだな。そういう本を書こうと思ったら、一にも二にも資料集めになるのが現在だけど昔はそうはいかなかったのか。


「あのな筆写本の時代やぞ。参考文献一つ集めようとするだけで、本を持っとる奴を探し出して許可もうて、これを書き写さんと自分のものに出来ん」


 だから史実の検証が出来る範囲が小さくなってしまうのは仕方がないところがあるそう。


「極端な話で言うと、自分が見聞きしたものだけで歴史書を書いてるようなもんや」


 こういう手法は現在の歴史小説に近いそう。そりゃ、大昔に較べると押さえられる史実は増えてるけど、どうしたって歯抜けの部分があるから、


「外せん史実と史実の間にフィクションを挟み込むんよ」


 そのフィクション部分が小説としての面白みになるのが歴史小説なのか。


「小瀬甫庵の本は売れたんや。ちょうど木版印刷が普及し始めとったから広く読まれとるねん。内容も小説としては優れとるとしてエエやろ。そやけど甫庵の本は売れ過ぎた」


 売れて悪いことなんかないじゃない。


「売れ過ぎて甫庵の小説が史実やとして広まり定着してもた事が多いんや」


 それに対して太田牛一の信長公記は、


「小説の面白さで甫庵に劣る。そやからほとんで読まれんかってん。でもな、歴史研究が進むと信長公記の正確性が高く評価され出したぐらいや。ここは単純に信長公記に書いてあることが史実としてもエエ」

「言うまでもないけど信長公記とて無謬じゃないし、すべての史実が記録されている訳じゃないけど、まず信長公記を確認してから考える重要資料と思えば良いわ」


 コトリさんの今回のムックは金ヶ崎の退き口だけど、


「そや。尻啖え孫市の前半の山場やんか。そやから金ヶ崎城に行ったんよ」


 なるほど。信長の退却ルートをツーリングして、亜美さんの課題に役立てようか。ところで歴史小説と似たジャンルに時代小説があるけど、


「あれはね、時代と言う背景を借りて架空の人物を活躍させる小説よ」

「忍法帖とか、捕物帖とか。わかりやすいもんやったら、テレビドラマであった水戸黄門とか、必殺仕置人とか、暴れん坊将軍もそうや」


 ああいう感じか。だからユラが持ち出した司馬遼太郎の作品が手強くなるのよね。


「尻啖え孫市は珍しく金ヶ崎の退き口にスポットあてた作品やから、高校生やったら飛びついてもおかしゅうない」

「その上に司馬遼太郎のお墨付もあるものね」

「そうや、さらに言えば読み物としてもおもろい」


 ユリも読み始めてるけどたしかに読みやすくて面白い。登場人物が活き活きしてる感じがするもの。


「そやけどな問題も多いねん」

「司馬遼太郎も気づいてるよね」

「誤解やったら作品リストから抹消したいぐらいやろ。そやけどホンマにそう信じ込んどった可能性もある気がするねん」


 そういえば、尻啖え孫市で司馬遼太郎が実際に見聞したはずの金崎宮の描写に違和感があったけど、


「あれも単純に誤解もあるだろうけど」

「あそこも仕掛けやった可能性があるやんか」


 どういうこと、


「フィクション小説でポイントになるのんは、フィクションの話にいかにリアリティを持たせるかやねん」

「極端な話をするとゴジラだって現実にいるような錯覚を起こさせるってことよ」


 ゴジラは小説じゃないけどわかる気がする。いわゆるSFものでも名作とされるのは、フィクションだと知ってるはずなのに、妙に現実感があるものよね。


「ああそうや。読んでるそばから嘘八百、いくらフィクションでも無理があり過ぎるとしか感じへん本なんか売れた試しはないと思うで」

「だと思う。フィクションの真の名作は、こんなものあり得るかの荒唐無稽の設定を読者に信じ込ませてしまったものよ」


 亜美さんは候文に苦戦してるようだけど、


「すぐに慣れるわ。これは学校の勉強ちゃうから、正確性より、大意を取る事が大事や」

「そこだけど、『おおせつけらるべし』って読むの。これはそういう風に読むって決まり事みたいなものだから。覚えるしかないよ」


 それでも必要な個所は四ページぐらいしかないんだ。読みにくいのは別として随分短いな。


「そやから小説としては売り物にならんかってんやろ」


 なるほど。一方でユリが読んでる尻啖え孫市はまるまる一冊あってしかも分厚いじゃない。


「ユリ、それぐらい一時間もあれば丸暗記できるでしょ」


 出来るか!

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