第8話 東屋で朝食を

 残念ながら、なのか。

 ありがたいことに、なのか。

 周王は毎晩夜這いしてくるわけではないらしい。


 ああ、生理中だから?

 血の汚れってやつかねえ。

 落馬で倒れたときには来て、生理中には来ないって、失礼な話だ。

 俺は、圭のようにフンっと鼻を鳴らした。


 俺は鼓動と連動するかのようなずきんずきんとくる頭痛と、腹の奥を絞られるかのような腹痛に三日三晩苦しんだ。


 日中、一度紫薇が来るのだが、大した話もできずに帰っていく。

 周王の代わりに、泉北郡王が朝と夕にやってくる。


 ある夕方なんぞ、娘子は腰を揉むと楽になるとおっしゃってました、と海蘭に言われて揉ませていた。もう少し力を込めて欲しいが、心地悪いものではない。うつらうつらしていると、力加減が痛気持ち良い人に変わったなと思ったら、沈香の甘い香りがして、驚いた。


「びっくりした」


 俺が急に振り向いたので郡王が言うのだが、それは俺のセリフだろ?


「なんで殿下が揉むんです?」

「……夫人だもの」 


 俺の質問が悪かった。


「なんで、殿下はそんなに揉むのがうまいんです?」

「子どもの頃からよく揉んでたからなあ」


 皇子に体を揉ませるって誰なんだだよ。


「ねえ、ライチをおくれよ」

「薬を飲んだら、あげよう」


 郡王は、俺に薬を煎じて飲ませ、干したライチを与えて、俺の胃袋を掴んだ。


「こういう、グネッとした食感のものが好きなんだ」


 擬態語がおかしかったのか、郡王はくすくす笑った。


「何かないか探しておこう」


 俺はまんまと半分の年齢のガキに餌付けされたのであった。


 五日目に、ようやく生理は終わった。

 やれやれだ。

 その日の夕方になる前に王太医がまたやってきて、明日からは普段の生活をしていいと言った。


 若いってすごい。

 いくらでも眠れるし、めきめきと体調が回復するのがわかる。

 俺は、ここで趙小瑶として目覚めたときに、ぷるぷるもちもちの肌だと思ったが、そんなもんじゃない。

 つるっつる、ぷるっぷる、もっちもちの肌になっていく。小さなにきびがあったのだが、すっかり治ったし、痕なんかない。いつまでも触っていたいような肌だ。

 これが、若さってやつなのか。

 それとも、若い女というやつなのか。


 俺は四十年間生きてきて知らなかったことを知ったのである。


 そして、髪結いの水仙に整えられながら、俺は鏡でようやく「趙小瑶」の顔を見た。


 ほら、三角縁神獣鏡みたいな「銅鏡」って、鏡はどこに顔を写すんだ?って思ったことはないかい?

 あの文様は、鏡面の裏面だ。

 頭では知っていたことだが、銅鏡の鏡面はこんなにつるつるに磨きあげることができるとまでは知らなかったし、ちゃんと顔が映る。


 ただし、その顔は、残念だった。


 俺はせっかくなのでチャイボーグのような、キツネ顔やヘビ顔の美人を期待していたのだが、残念ながら、そこにいたのは垂れ目のタヌキだ。


 まあ、ほっぺたなんてふっくらもっちりとしていて可愛いは可愛いのだが、「村一番の美人」の方が正しい。


 そりゃ、後宮育ちだからか、化粧をしてくれる水仙の腕がいいからなのか、芋っぽさはないんだがねえ。

 どーこが絶世の美女だ。海蘭のお世辞に騙されちゃいけない。


 海蘭こそ、美人だ。

 まだ、若いというよりも幼いが、あれはキツネ顔の美人になるぞ。

 

 だが、この趙小瑶の顔は警戒されにくい顔だ。

 この女は、どんな女だったのだろう。この顔の通り、素朴な女だったのか。それとも、悪女だったのか。


 警戒されない顔を悪用する女もいる。


 卒業前から店舗でアルバイトとして働かせてもらっていた。あれは、今で言うところのインターンとか、OJTだったんだろう。おそらくもう二度と店舗には出ないからということで、店舗の窓口の後ろで事務処理なんかをしていた。


 その頃のことだ。

 

 銀行ってところは、少なくとも俺が店頭にいた頃のうちの銀行は、午後の三時にシャッターを閉じて、最後のお客さまを見送ったら、一円単位で金を確かめる。

 そんな中で度胸だけがあった横領のやり口だ。あの地味な女が?と誰もが驚いたっけ。

 東京といってもいろいろだもの。

 都内でも、二十三区の外の商業高校を出て、髪の毛も染めない真面目そうな、芋くさい村一番の美人が、都心に出てきた。二十歳そこそこで悪い遊びを覚えて、男に貢ごうとして破滅した、ありふれたつまらない話。


 ところで、王府には何人も女が働いているが、俺のすぐ近くまで来るのは、三人だ。まず甲高い声の、キツネ顔美人の海蘭。海蘭と交代しながら世話をしてくれるのが、タヌキ顔のちょっと鈍臭い木蓮。海蘭の方が幼いが気が利く。


 海蘭も木蓮も生い立ちが気の毒で、海蘭は帝都の近郊に生まれて、幼い頃に後宮に売られ、趙小瑶に拾われた。


 木蓮は南都生まれの南都っ子だ。一度学問を身につけようとする程度には裕福な家だったらしいのだが、落ちぶれた。妓楼で身を売るほどの芸がなく、春をひさぐしかない。それはあまりにも哀れと、王府の奉公人に売られたのだ。


 ところで、帝都と南都の違いがいまいちよくわからない。郡王か周王に聞く方が良さそうだ。


 三人目が髪結いの水仙で、二十代半ばというところか。一度結婚したらしいがうまくいかず、南都のお屋敷で髪結いとして身を立てているところ、王府に通いで雇われている。この人には嫌になら王府を去る自由がある。


 俺も含めて、女たちが着ている衣は、どことなく、奈良時代の衣装のようだ。特に今俺が着ている衣は、正倉院の「鳥毛立女屏風」の女たちの衣装みたいだ。

 肩から流す比礼(ひれ)は肩巾とも書いたかな。確かに、肩に長い布を一枚かけるのだが、こうして鏡の中を見ると、「天女の羽衣」のようだ。

 残念ながら着ているのは、タヌキ顔の村一番の美人だが。

 郡王の衣も束帯みたいだし、やはり日本ならば奈良時代から平安時代にいるんだろう。


 ところで、水仙が挿してくれた髪飾りが重たい。この女の華奢な首が折れるんじゃないかと思うほどだ。

 そもそも髪の毛というものはかなり重いんじゃなかろうか。その長い髪の毛を全部頭の上に乗せて、さらにそこにいろんな髪飾りをつけていくんだもの。


 鏡を見ながら髪の毛を解かされていく様子を見れば、ボサボサだったんだなと思う。


「ごめん。重い……外してくれないか」


 鏡の中の水仙の見事な手際を見ながら、俺は言った。

 水仙は、軽く控えめなものを選びながら答えた。


「娘子はまだ体が十全ではありませんでしたね」

「それにしても見事な手際だね。見とれてしまったよ」


 水仙は細い目を丸くした。


「趙小瑶に褒められたことはないのかい?」


 口ごもりながら、水仙は答えた。


「どちらの奥さまがたも、褒めたりはなさらないのです」

「なんでだろうね。上手だと思えば褒めればいいじゃないか」


 面倒だねえ。お嬢さまってもんは。

 俺は怠惰なのである。

 怠惰ゆえにこの程度の、コストのかからない会話をしておいて、色んなことを円滑にする。何かあるときに、マイナスから挽回するのはあまりにもコストがかかりすぎるんだよ。


 水仙は最後の最後に、額に蘭の花を押してくれたのだが、やはり、奈良時代っぽいなと思う。


 奈良時代から平安時代初期は、唐を倣った。


 飛鳥時代の推古天皇と聖徳太子時代の遣隋使に始まり、平安時代中期の頃の宇多天皇時代に菅原道真が中止を提言するまで、途中白村江の戦いなどで途絶えることはあったが、幾度も遣唐使を送り、学んだ。


 唐が弱体化し、遣唐使を送らなくってから花開くのが国風文化だ。


 その間、ええと何年間だっけ。俺は年代を覚えるのが苦手でねえ。


 虫殺しの乙巳の変だ。六百四十五年から始まる大化の改新。中大兄皇子なので、聖徳太子の遣隋使はもっと前。乙巳の変で死ぬ蘇我入鹿は、聖徳太子の息子の山背大兄王を殺しているので、推古天皇と聖徳太子時代は六百年くらいのことだと踏める。


 もう一つ、長引いた黄巣の乱の後に唐は弱体化していた。それで菅原道真は遣唐使の中止を提言する。その約百年後に花開くのが国風文化だ。最盛期が一条天皇時代で、清少納言の「枕草子」、紫式部の「源氏物語」の時代だろ。


 ええと、「源氏物語千年紀」なんてやってたよな、ちょうど二千年ごろの話。だから「源氏物語」が千年ごろ。その前だから九百年前後が遣唐使の中止だ。


 つまり、日本では聖徳太子時代から菅原道真までの約四百年間、これが隋唐時代の中に入る。

 このときの都は長安。だが、中国は広大で、副都制を取ることが多い。隋唐時代ならば、陪都は商業都市の洛陽だ。


 帝都、南都というのは、首都と陪都じゃないかな?



 村一番の美人から、メイクをしてもらって小さめの通り一番の美人くらいにランクアップしたが、やっぱり海蘭の隣では少し垂れ目気味の、美人というよりも愛嬌のある顔だった。


 夜に海蘭が体を拭いてくれるときにも思うのだが、この女の体はむっちりとしているが、太いわけではなさそうだ。ただ、あまりにも筋肉がなさすぎる。


 残念だよ、全く。



 朝食は、南殿とこの北殿の間にある東屋で食べるのがこの夫婦の習慣らしい。

 長い時間をかけて整えてもらった俺が腹ぺこで東屋に到着すると、郡王も来たところだった。

 生理が終わって活力が戻ってきたからだろうか。

 郡王のアンバランスなところに生まれるセクシーさに俺はクラクラしそうで、思わず生唾を飲んだ。


 少し寒いのだが、火鉢の上にスープが入った土鍋が置かれている。郡王はちらっと土鍋を見て、微笑んだ。

 てっきり、俺が食欲の塊のように思いやがったな。いいさ、いいさ。


「調子はどうだ」


 俺はタヌキ顔でにっこりと笑って答えた。


「ここ数日間の不調が嘘のようだね」

 そして真正面から向き直って、続けた。

「二人っきりで話ができないかい」


 郡王が合図をして、北殿に仕える者は北殿側に、南殿に仕える者は南殿側に下がった。

 俺は、真っ白な蒸しパンを手に取りながら言った。


「これは何かつけて食べるのかな。俺はね、すっかり趙小瑶の記憶がないんだ」

「記憶を失ったという話は聞いた」


 そう答えながら、郡王は自分も蒸しパンを手に取り、半分に割って中を見せた。


「王府では、中に野菜を入れてる。そのまま食べれば良い」

「ほう」


 俺はかぶりついて、またにっこりと笑った。このタヌキ顔は笑ってる方がかわいいだろうと計算して。味は薄いと思ったが、なあに。すき腹にまずい物なしだ。

 さっき海蘭がよそってくれたスープは、とろみがあって、生姜の味がして、うまいし、体が温まる。


 郡王の喉仏が上下して、やばいな、勃起しかねないぞと思ったが、そもそもなかった。

 その代わり股の間がまた変な感触になって、ようやく気づいた。

 これが、濡れるというやつか。


「以前、俺が郡王が使ったお匙から飲みたがらなかったのには理由があるから聞いてくれないか」


 郡王は嫌なことを思い出させられたと言いたげな顔をしつつも頷いた。


「俺の記憶の中じゃ、三年間も疫病が流行していたんだ。感染経路の一つが唾。誰かの使ったお匙をそのまま口に入れる習慣は、俺にはないし、本当に辛くてたまらない」


 郡王は少し考えながら頷いた。


「だが、体が動くようになる前、生姜の味のするものを口移しに飲ませてくれた人がいた」


 郡王はまた頷いた。


「殿下だったと聞いたが、あの生姜は体に染み渡った」

「それは、良かった」

「だからな、なんというか。お匙のときはわけがわからない状態だったから、ということだ。許しておくれ」


 郡王はスープを飲みながら頷いた。


「俺たちは夫婦ってことになってて、一蓮托生なのかい?」


 郡王は蒸しパンを食べながら大きく頷いた。


「何がなんだかわからんが、郡王がしくじったら俺も罰を受ける。そして、俺が何かしでかしたら、郡王にも及ぶ。そうだろ?」


 郡王は蒸しパンを食べ終えて、指で口の周りを払ってまた頷いた。


「俺にはよくわからないことが多くて、聞きたいことがあるんだ」


 郡王は俺が蒸しパンを食べ終えるのを待って「南殿へ」と言った。





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