第5話 周王

 俺が何も言えずにいると圭は言った。


「瑶瑶(ようよう)。落馬して頭を打って意識を失ったと聞いて、本王は心配でならなかった」


 原田正人も、趙小瑶も、俺だ。現実も夢もどちらも本当だ。

 この圭も、あの圭も同じだ。


「……誰に聞いたんだい」

「海蘭から帝都の太子殿下へ連絡があった」


 俺は答えた。


「ならば、海蘭から次の連絡はなかったのかね、坊や。俺には趙小瑶の記憶はない。俺は自分を四十男の原田正人だと思っている。君は誰だ?」


 圭は悲しげな顔をした。

 最後に会ったときの、あの恨みがましい顔より、よっぽど良い。


「……本王が誰かわからないと?」


 俺が唯一愛した人によく似ているどころか、その人じゃないか。

 それを言ってどうなる。

 この男が圭でも、圭ではなくても、もう終わっている。

 俺は首を振って答えた。


「わからないんだな、これが。いずれにせよ、この場所は泉北郡王の屋敷なんだろ。郡王には昼間会ってるんだが、君は郡王じゃない」


 そして、続けかけた言葉を飲み込んだ。「間男なんだろ、誰だよ、郡王には黙っててやるから、帰りな」って。


 圭は俺の目を見て言った。


「本王は、しゅう親王である」


 俺は昼間から思ってたことを聞いた。


「親王と郡王ってどう違うんだい?坊やも皇子なのかな?」


 圭は呆れ返ったと言いたげに俺を見た。


「本王は、第九皇子、しゅう王。かくしょう。せいにほん親王である。泉北郡王は、第八皇子。じゅさんほん郡王だ」


 郡王の弟なのか。

 俺は何にもわからないんだよ、と主張するしかない。


「ごめん、しゅう王ってどう書くの?」


 男は目を何回かパチパチさせてから答えた。


「周囲の周に王」

「了解。かくしょうは?」

「城郭の郭。表彰の彰」

「助かる」


 三十九の圭ならこういうとき、人を馬鹿にして鼻を鳴らしただろう。

 この若い郭彰は行儀よく頷くだけだ。

 俺は次の質問をする。


「にほんってのは?」

「いかい、と言ってわかるかな?」

「階級のことかな?」


 郭彰は頷いた。


「つまり、位階か」


 空中に字を書くのだが、この暗さじゃよくわからんか。俺は圭、いや郭彰の手首の大きな骨を持って動かした。

 周王は頷きながら続けた。


「宮中は上から下まで、九つの位階に分けられる」


 俺は頷いた。


「それぞれに正と、従があり、合計十八だ」


 俺は頷きながら聞いた。


「上が一で、下が九なのかな?それとも、反対かな?」

「九は三で三つに分けられる。ゆえに、口が三つで品。九品(きゅうひん)の法の頃よりの分け方である。本朝において、東宮以外の皇子は成人にあたり、諸王に封じられるが、最上位は従一品(じゅいっぽん)であり、その上の人臣の最上位を超えることはない。それは龍の子たる皇子であっても、臣下にすぎぬことを示すためである」


 ふむふむ。つまり、上が一で、下が九だ。


「そして、皇子には親王に封じられる者と、郡王に封じられる者がいる。一番下は従三品(じゅさんほん)の郡王だが、正二品(せいにほん)と従一品は親王である」

「つまり坊やは、第九皇子で周王に封じられた、正二品親王だってことだね」


 周王は頷いた。


「で、この屋敷の主人の泉北郡王は、第八皇子で坊やの兄ちゃんなんだが、皇子としては一番下の従三品の郡王でしかない、そうなんだね」


 坊やは頷いたが、抗議をした。


「坊やってのはやめてくれないかな」


 でも、俺に掴まれた手を振り払うわけではない。

 坊やにしか見えないから仕方がないんだが、こっちもからかうのはやめるか。


「何が良い?殿下?」


 郭彰は俯いて言った。ろうそくの光に照らされているからか、顔が紅くなっているように思う。


「……彰彰。ずっと、そう呼ばれてたから」

「なんか嫌だよ」

「……じゃあ、九殿下でいい」


 九ちゃんか。昔懐かしい「おばけのQ太郎」みたいだが、まあ、いいか。


「いくつだい」

「……十八」


 俺と圭が東京大学文科一類で出会ったのは、大学一年生。十八だ。


「趙小瑶も十八か」


 九ちゃんは頷いて変なことを言った。


「後宮で育った筒井筒だよ」


 ここはどこだ?つまり、「筒井筒」は「伊勢物語」からの引用だからだ。在原業平だぞ?意味としては、筒型の井戸でたけくらべをして大きくなった幼馴染の男女。


「筒井筒というのはだな、その」


 周王は説明しようとした。


「幼馴染ってことだろ」

「知ってるんじゃないか!」

「だが、九殿下のことは知らないってば」


 周王は頬を膨らませる。


「瑶瑶は趙府から太后宮に引き取られて、本王は皇后宮だし……一緒に育ったとは言わない。ただ、見かけるたびに、話す機会を作ったり、贈り物をしたり、必ず正夫人にと誓ったのに」


 俺はいくつもいくつも聞きたいことがあるが、話の筋が見えなくなりかねない。相槌がわりに聞いた。


「兄貴に横取りされたのかい?」


 哀れな男は俯いて首を横に振った。横取りされたわけではないらしい。


「正夫人にと誓ったのは、誓い合ったのかな」


 郭彰はまたゆっくりと首を横に振った。


「瑶瑶は、何も」


 順番に聞こう。


「趙小瑶は工部尚書の娘だろ?太后宮に引き取られたってどういうことだい?親父の趙さんは死んだのかい?」


 はあーっと周王はため息をついた。


「……趙尚書は存命だよ。長い話になるがいいかい?」

「構わん」

「まず、太后は先帝の皇后だったが、実子がおられず庶子だった陛下を擁立された」


 話が見えないが、頷いておいた。


「父帝陛下が即位された頃だが、太后の妹君が亡くなられ、その遺児の女児を引き取られた」


 太后の姪。それは誰だ。


「その姪君を貴妃に迎えるつもりかと思われたが、その話が正式に持ち上がる前に、姪君は工部の若手の役人を思し召しで、その方こそ、今の趙尚書。一人姫君を産み落として、それが瑶瑶だよ」

「趙小瑶の母方の大伯母が太后なんだな」


 周王はその通りと頷いた。


「父君は存命だが、母君がおられないのだよ。母君の没後に、瑶瑶は太后宮に引き取られた。まだ本王も八兄さまも成人前で皇后宮にいたので、その頃に知ったんだ」


 確か、海蘭は「太子と郡王が趙小瑶を巡って争い、太后がすでに正妻のいる太子よりも、正妻のいない郡王を選んだ」と言ったような気がする。


 太后には人数にカウントされなかったのか、周王は。

 九ちゃん、気の毒じゃない?

 俺はついつい、郭彰の肩を抱いてそっと叩いた。


「趙小瑶の事故を、太子のところで聞いて、いてもたってもいられなくなって、この顔を見に来たのかい?」


 郭彰は頷いた。


「……生きてることだけでも確認したくて……」


 趙小瑶はこの男のことをどう思っていたのだろうか。

 間男というよりも、体が自分よりも大きな、子犬。


「残念だったな。この体は生きてるが、別人の記憶しかない」


 忠犬周王号、いや忠犬九ちゃんは、自分の肩に乗せられた俺の右手をそっと、本当に壊れ物を扱うように左手で上から被せた。


「でもいい。生きてるんだから」

「俺はこう思ってる。胡蝶の夢。趙小瑶も今ある記憶の中も、同じ人間だと」

「孔子だな!」


 だから、「胡蝶の夢」は荘子だってば……。


 子犬は、大変ポジティブな子犬だった。俺の右手も左手もやっぱりそっと大きな手で握って、言うのだ。


「瑶瑶も良く本を読んだ。確かに生きてるんだから、趙小瑶に変わりないな!本王は、嬉しいぞ!」


 そして、立ち上がり、掛け布団にくるまっている俺に向かって礼をするのだが、これがまた不思議な礼だった。

 腰を曲げるのはそうなのだが、両手の指を重ね、前に輪っかを作るのだ。


「安渓県君、早く良くなられるように。また来る」


 俺はまたベッドに転がった。


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