第32話 壁の向こう
「バチッ、バチッ」
電気がショートするような電撃音が闇を走る。呆然と見つめるコンクリートの壁が溶ける。まるでロウソクのロウのようにドロリと溶けて流れて落ちる。
泣き出したくなるほど怖かった。走って逃げ出したかった。しかし牧野は好きな薔薇の甘い香りに誘われて、いつの間にか引き寄せられるように来てしまった。
もしかしたらトイレの中に、薔薇の花を飾っているのかもしれない。女性用トイレの中にも時々生花が飾られ、やさしい香りに満たされている時がある。
だから男性用トイレだって薔薇の花が飾られていても不思議ではない。夜遅く、誰もいないフロアの男性用トイレの中に、花の香りで誘われ入って行く。そんな異常行動をしている自分自身に疑問さえわかない。
鼻ではない、脳が直接甘い香りを感じている。甘い薔薇の香りが脳を溶かし、正常な思考が破壊されているのに気付きもしない。
トイレのドアを開き、震える一歩を踏み出した時から、甘い薔薇の香りに牧野は思考も意識も狂わされていた。
『ダメ、ダメだよ。絶対に入っちゃダメ』
必死に否定する心の叫びは、甘い香りに溶かされ消し去られていく。危険を知らせる本能だけが、陶然と進む体全体を痙攣のように震わせていた。
迷いさえなく一番奥の個室のドアを開く。濃密な薔薇の香りが体全体を包み縛る。漆黒の闇の中で青白い火花が走る。電撃音が空気を切り裂く。
思考も意識も溶けたまま呆然と立ち尽くす。目の前の白いコンクリート壁が、少しずつ溶けて流れ落ちる。そんな異常現象にさえ反応しない。
壁が溶けて、壁の向こうに見えるもの。無限の闇と凍えるような恐怖。小さなボールほどの穴が拡がっていく少しずつ。直径30cm、50cm、そして壁のほとんどが蕩けて流れ落ちる。
壁の向こうは女性用トイレのはずなのに、まるで別の空間につながってしまったようだ。漆黒の闇の中で何かが近づいてくる。
凍えそうな冷たい風が顔に当たる。甘い薔薇の香りはさらに強まり闇が妖しく蠢く。来る。何かが、恐怖を引き連れて・・・・・
闇の中に青白い小さな明りが点った。闇が何かを形作っていく。大きい影、2mはある。立っている、人ではない影。
『おいで・・・・・』
影が招く。耳に届く声ではなく、脳に直接響く声が招いている。甘い薔薇の香りとともに。
『おいで、全てを捨てて・・・・・』
壁の向こうは異なる世界、もう二度と戻れないのに、心が、体が、あちらの世界に惹かれる。靴を脱いだ。着ていた服を脱いだ。下着も、全てを捨てた、恐怖に操られた足が、現世と闇の世界の境界を跨いだ。
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