愛に死に、愛に生きる
玉響なつめ
(夫視点)
ほとり。
女の美しい
彼女は悲しそうで、それでいて慈愛に満ちた笑みを口元に浮かべていた。
我が儘で、癇癪持ちで、他の妃に嫌がらせをした結果、陛下の寵を失い、
かつては侯爵家のご令嬢でありながら、たかが子爵の妻となった高慢な娘。
だというのに、これは誰なのか?
「アラン様。わたくしが変わったというのであれば」
陛下からの打診に、否と言うことは許されなかった。
特に婚約者がいたわけではないし、生家はすでに兄が継いでいる。
「あの日、わたくしは愛を失ったのです。ですから――」
そんな友人が迎えた側室は五人。
身分と教養、それらを考慮に入れた、正妃候補。
妻となった女、ミラ=アンネ・ファルムド・ケラーリン侯爵令嬢もその一人だった。
陛下に憧れていたことは知っている。
俺はずっと陛下の隣にいたから。
彼女の目は、ずっとずっと陛下を追っていた。
だから、選ばれたときに華やかな笑みを浮かべて喜びに満ちていたその表情は、とても美しかったと記憶している。
「あの日、わたくしは死んだのです。愛を失ったミラは、何も持たぬ者へと生まれ変わる以外、なかったのですわ」
愛らしかった侯爵令嬢。
でも気づけば彼女は醜くなっていた。
他の四人の側室を蹴落とし、己が正妃の座を射止めるために。
ただただ、陛下の愛を求める余り、嫉妬に燃ゆる姿はあまりにも醜かった。
しかし実はそれこそが陛下の狙いであったと知ったら、彼女はどれだけ落胆するだろうか。
実情を知っているからこそ、俺に嫁がせるのではなくいっそ修道院に送ってやればよかったのにと陛下に恨み言を申し上げる。心の中でだけだが。
五人の側室、その中に一人だけ身分不相応な女性がいた。
本来ならば国王の傍に控える女性、しかも正妃になるには伯爵位以上のご令嬢と定められている。
だが陛下は『実力ある女性たちの中から最も愛せる女性を正妃に』と望み、それを議会に許可させたのだ。
そう、元より陛下はただ一人の女性を正妃にするためだけに、この行動をしたのだ。
他の妃たちよりも
つまりは、踏み台だ。
出来レースに過ぎない。だって国王が選ぶのは、他でもないその身分不相応な女性であるルルーシェという男爵令嬢なのだから!
それでも陛下は平等に妃たちに接していた。
だがそれこそが罠だ。
陛下がるルルーシェという少女を特別に想っていても、身分の問題は解決しない。
四人の妃は彼女をイジメ、あるいは他の妃を攻撃し、己を優位にしようと暗躍する。
それを陛下が『醜い』と断じて追放、最終的にはルルーシェ
公明正大。
物は言い様。
とにかく、そうして最初に断罪されたミラ=アンネ・ファルムド・ケラーリンは側室しての立場を失っただけでなく男爵位にある俺に下賜されたのだ。
(あれだけ愛を捧げられていたのに)
陛下は、残酷だ。
身分ではなく陛下を愛していた彼女の気持ちを、理解していただろうに。
愛した男がいるというのに、その男によって他の男の元へと嫁がされる彼女が哀れで鳴らなかった。
だから『愛さない』と俺は初夜に告げた。
彼女に嫌われるよう振る舞った。
陛下の正妃選びの
せめて生活だけは苦労させないようにと腕の良い料理人と、気立ての良い侍女をつけた。
夫などと呼びたくないだろう。
なるべく顔を合わせないで済むよう、配慮した。
驚くべきことに、結婚してからの彼女は常に静かだった。
令嬢として社交界で見た時は、いつも華やかに笑い女性たちとおしゃべりをしていたあの人が。
後宮にいた時は苛烈にいつだって他の妃の悪口を言って自分を持ち上げ、陛下への愛をまるで熱に浮かされたように語っていたあの人が。
『奥様は、いつだって静かで……まるで、司祭様のようです』
躊躇いがちにそう侍女から報告され、ようやく俺は彼女と向き合った。
美しい所作で俺に向かってお辞儀をし微笑むその人が、俺の妻だという実感が持てなかった。
『おかえりなさませ、旦那様』
そう言われても、俺は答えることができなかった。
まるで熱を感じさせないその視線にどうして良いのかわからなかったのだ。
そして時間を作って彼女の様子を見守ってその生活の質素さに、自ら庭の花を手入れする姿に、想わず問うていたのだ。
「俺が今まで見て来た貴女は、そんな人ではなかったはずなのに。どうして変わったんだ?」
ああ。
俺はなんと愚かなのだろう。
彼女は俺の問いにも静かに答えた。
愛を失って、ミラという女が死んだのだと。
あの苛烈に国王陛下へ一途な愛を捧げていた女は、とうの昔に死んでしまっていたのだ。
心は、とっくの昔に。
(そうだな。そうだよな)
全身全霊で愛を囁き、届かぬ想いに胸を焦がし、そして冷たい目を向けられてまでどうしてそれを保てるのか。
命の全てを燃やした恋で、愛であったなら、失った今それを『死んだ』と表すことは間違いではないのだろう。
ミラ=アンネ・ファルムド・ケラーリンは死んだのだ。
そして俺の妻、ミラ=アンネ・カサルニィとなったのだ。
「俺は愚かだなあ」
彼女が静かに一礼して去って行った庭は、美しい。
手入れされた分だけ鮮やかに、華やかにその花を咲かせる花を見て俺は考える。
かつて兄が言っていた。
令嬢を花と喩えるならば、愛を持って手入れをしなければ美しい花を咲かせるのは難しいのだろうと。
子供時代は親の愛を得て、そして妻になってからは夫の愛を得て。
そうして花開かせた関係を築けたならば、きっとそれを幸せと呼ぶのだろう……なんて。
(あの頃はキザったらしいことを恥ずかしげもなく言うクソ兄貴だと思っていたが)
改めて彼女が手入れした花を見る。
種から丹誠込めて彼女が手入れしているという花が、風に揺れている。
(彼女は
これまで彼女を彼女たらしめていたものは失われた。
なら、その代わりを注がなければ。だって俺は彼女の夫なのだ。
愛しているかと問われたら、答えは出ない。
だが神に誓って彼女を妻として迎えた以上、大切にすると決めていた。
愛する男に
俺に愛されたいなんて願わないだろうと、どこかでそう思っていた。
(けど、俺は陛下の護衛だから基本的には社交もしなくていいし、稼ぎだって悪くないし、陛下がちゃんとしてりゃあ休みだってそれなりに取れるし、実家の方は兄貴がしっかりしてるから俺に厄介ごとは回ってこないし)
疲れた彼女がのんびりと生活するには、十分な条件だ。
もしかして陛下はそれを見越していたのだろうか? 愛せなかった代わりの、せめてもの償いとして。
(いやいや、その場合は俺の気持ちはどうなるんだってーの)
頭を軽く振って俺は妻の後を追う。
出遅れてしまったが、まだ始まってもいないなら許してもらえる範囲だと思いたい。
「ミラ!」
「……旦那様?」
俺が訪ねてくることなんて想定していなかったのか、彼女は目を丸くした。
その表情が思いの外あどけなくて、愛らしい。
「その……」
「はい、なんでしょうか」
「……俺と夫婦になってくれないか」
「もう夫婦ですが」
「あーいや、そうじゃなくて」
その時俺は気がついた。気がついてしまったのだ。
ずっと彼女のことを目で追っていた。
陛下の傍にいたから、必ず視界に入っていたとも言えるのだけれども。
でも俺は、陛下を一途に追う彼女を、ずっと愛していたのだなって。
「……愛し愛される夫婦になりたいんだ。そのために、これから挽回させてくれないか」
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