10話
ラムが栗毛の少女の姿で街をぶらついていた。深めに巻いたマフラーを指先で少し緩め、吐息が白んで消えていく。悴む手をポケットに戻して歩む。年を越し、すっかり降り積もった柔らかな衾雪に彼女の足跡が残った。
デイタに連れられて遊び尽くした後日、二人でいる写真がネットに投稿され世間を騒がせた。ラムは「学友であり、それ以上でもそれ以下でもありません」との回答を貫いた。
デイタに直接コンタクトを取ろうとした者もいたようだが、要領の得ない返答しかされず、しつこくすると逃げられたらしい。だからか、ある時を境にデイタへの取材はパッタリと途絶えた。
そうして
仕事に追われていた毎日。しかし自死を考え始めてからは、死後に迷惑をかけないよう仕事を減らしていた。余暇の過ごし方を考えることなどなかった為、何も思いつかず、けれど家に居たくもなく。結果として、宙ぶらりんな思考のまま歩みを進めていた。
誰もラムのことを知らないどこか遠くへ。そんな冗談のような思い付きさえ、体に埋め込まれた機械が許してくれない。
「どうしたら、いいのかなぁ……」
軽く見上げたラムの頬に綿雪が触れて滲んでいく。
何度囚われたかもわからない思考の渦。それがラムを底へと引き寄せて、身動きが取れない。
進退のない、現状を続けるだけの日々。
そんな日々に終止符を打とうとも思ったが、それも叶わず。不思議と、もう一度飛び下りようとは思わなかった。何故かと問われれば、ラム自身にもわからない。
当てもなく歩いていたラムの目に映ったのは赤いペンギンのようなマスコットキャラクター。
「あ、ドンピ……」
呆けたように眺めていると、自動ドアが開く。
「……!?」
出てきた二人の人物を見て、咄嗟に電柱の陰に隠れる。そろりとのぞき込むと、そこにいたのは黄色い袋を持ったデイタと、
「かわいい子……」
暖かそうなコートに身を包んだアリスだった。
目元は覆われているが、キュッと上がった口角が、彼女が笑顔なのだと知らしめる。顔の半分近くが隠されているにもかかわらず、見たものが穏やかな気持ちになってしまうような、柔らかな魅力を感じさせる異国の少女。
その少女の左手が、デイタの右手と繋がれていた。
「……」
ラムは振り返り、来た道を戻る。同じ大きさの足跡がすれ違った。それは同じところを行き来する進退のない日々が、雪に可視化されたようだった。
歩き去るその背中を、デイタが見つける。アリスに声をかけて袋を預けると、ラムへと駆け寄った。
デイタの足跡が、ラムの足跡を踏み荒らす。
肩を叩かれたラムが振り返ると、デイタの人差し指が頬にささった。ひんやりした指の感触が頬に沈む。
「……なに」
「仕返し」
悪戯に成功して、デイタが無邪気に笑う。なくなるくらいに目を細めて。
ラムはその顔を見ないために踵を返したはずなのに、視線を逸らせなかった。
「いっつもいいとこいんね。来て」
「わっ、ちょっと」
デイタはラムの手をぐいぐいと引く。そしてぽつんと黄色い袋を持って待っていたアリスの前にラムを押し出す。
「アリスー、こいつ俺よりこっち詳しいから案内してくれるって」
「デイタは?」
「後で迎えに来る」
「……そう」
アリスの声が少し弱まる。デイタに案内してもらうのを楽しみにしていたのだから。
「私、その子案内するなんて言ってないけど」
勝手に話を進められていたラムが待ったをかけた。人見知りなんてしていられない環境で育ったが、アリスには少し思うところがある。できればいきなり二人きりにはなりたくない。
「じゃ、仲良くなー」
しかしデイタは待たない。手を振って、ラムには到底追いつけない速さで走り去ってしまった。
「……」
(エスコートしてって言ったのに……)
「……」
(なんで私が。よりにもよって……)
二人の少女に沈黙が訪れる。お互いに心の中でデイタを呪っていた。
「……持とうか?」
ラムが気まずさから、とりあえず口を開く。
「えと、じゃあ半分お願い」
「うん」
アリスはお言葉に甘えようかとも思ったが、初対面の相手に荷物を持たせるのは図々しいかと躊躇う。結果、持ち手を片方ずつ掴むことに。
「やっぱ私が持つよ」
「ごめんね」
歩き辛いだけなのでラムが袋を持ち、転んでしまわないようアリスの手を取る。ほっそりとしていて、一度手を離せば消えてしまいそうな儚い手。容姿で誰かを羨んだことのないラムが嫉妬してしまいそうになる。それは手の美しさにか、それともアリスの手だからか。
「とりあえず、座れるとこで話そっか」
店の前で立ち話もなんだからとラム。
「そうだね。わたしこの辺りのこと知らなくて、案内させちゃうけど」
「いいよ、アリスちゃんが気にすることじゃない」
気にするべきはボサボサ頭の少年だ。
「ありがとう。もしかして、ラムちゃん?」
アリスが遠慮がちに聞く。確信を持って。
「そうだけど……」
この国だとラムを知らないものの方が少ない。だが今のラムは芸能活動をしている時の姿ではない。声まで違うのになぜわかったのだろう、と疑問を抱く。
「やっぱり! デイタから聞いてるよ。「あっちにもすごいやつがいた」って」
「ふーん、あいつが……」
ラムの知らないところで、デイタがラムのことを話していた。その事実がなんだかむず痒く感じる。その感情を表情や声色に出さないよう努めた。
「……他になんか言ってた?」
しかし気になってしまう。あいつは私のことどう思っているのかと。然して気にしてもいない感じを装う。
「危なっかしいって。あとは、食べ方がリスみたいって言ってたかな」
「そう……」
癖を把握されているのは少し気恥しく、危なっかしいという評価はデイタから見て良いのか悪いのか分からない。ラムの感情が、動き方も分からずに戸惑っていた。
「ねえ、人のいないところに行きたい」
ラムの反応を窺っていたアリスが唐突に提案する。何か心境の変化があったのだろう。
「いいけど、どうして?」
ラムにはわざわざ
「本当のラムちゃんに触れてみたい」
その言葉にラムはドキッとする。
「……どういうこと?」
アリスが何を思ってそんなことを言ったのか。それをはっきりさせたい。デイタから変身能力についても聞いていたということなのか。それとも他に何か意図があるのか。
「今のラムちゃんが嘘だって言いたいわけじゃないんだけど、なにか力を使ってるでしょ?」
「あいつから聞いた?」
「どんな力を持ってるのかは言ってなかったよ」
じゃあ一体何を根拠に言っているのか。ラムにはわからない。
アリスは、ラムとは違う世界の捉え方をしているのではないか。視覚を有していないことで、大半の人とは大きく異なる環世界を生きているのだから。
ラムにはできない方法で、力に関する何かを知覚していても不思議じゃない。そう思わせる異質な雰囲気を感じていた。気味が悪いというより絵本の中から出てきたような、違う世界の住人のような印象を受ける。
「そっか、まぁ当たってる。二人になれるところ行こっか」
「やった」
ラムはアリスに底知れない何かを感じながらも、
嬉しそうに微笑むアリスがラムに身を寄せ、繋いだ手をラムの上着のポケットに突っ込んだ。
驚いて目をぱちぱちさせるラムと、視線を合わせるように少し顔を上げるアリス。
「寒いね!」
寒さで赤らんだ頬を膨らませて笑うアリスを見て、胸が撃ち抜かれるような衝撃を錯覚していた。
(こんなの、好きにならない方がおかしいって)
ラムは微笑ましいような、苦しいような。忙しく揺れる感情がもどかしくて手に力が入る。ポケットの中に二人分の熱が籠っていくのを感じていた。
◇
ロープウェイに乗ってやってきたのは展望台。
移動中、デイタとアリスが買ったお菓子を食べた。何を食べても「おいしいね!」と興奮気味に言うアリスに、ラムがお菓子の名前などを都度説明しながら。質問が多すぎて、ラムはロープウェイに乗った時間をあっという間に感じていた。
雪が降っている所為か他に人はいない。夜になれば、街の明かりが美しい夜景を作り出す。そうなれば厳しい寒さの中でも、眺めに来る人は僅かながらにいるだろう。
「高いところだから、手すりより前に行かないでね」
「はーい」
アリスが手すりに積もった雪を袖で払うと、小さな
黒い髪の少女へと姿を変えたラムも手すりに寄り掛かる。
すらっと背の高いラムと、小柄なアリスの身長差が縮まっていた。
アリスが手を伸ばし、ラムの頬に触れる。
「肌きれい」
「……冷たい」
鬱陶しそうに零すラム。アリスはペタペタと触ると、満足したのか手を引っ込める。
「ラムちゃんの力って、人以外にもなれるの?」
ふとアリスに聞かれて、ラムは反応に困る。
「無理じゃない? 考えたことなかったけど」
誰に言われた訳でもないが、別人に変身できる力として認識していた。必要性に駆られなかったこともあって、人間以外になるという発想すらなかった。
「えー、わかんないじゃん。やってみてよ」
「試すのはいいけど、たぶん無理だよ」
そういってラムが手すりから離れ駄目で元々と、変身を試みる。その体がノイズに包まれた。
機械が雪に落ちるが二人は気づかない。
やがてノイズが消えると、そこには凛とした夜色の猫がいた。
「にゃあ」(いけたわ……)
自分のしたことながら驚き、呆然と呟いたつもりだった。しかし喉から発されたのは無愛想な鳴き声。
これではアリスと話せない。そう思いラムが人の姿へ戻ろうとすると、
「やっぱり!」
鳴き声に反応したアリスが柵から跳び下りて、声のした方へ手を伸ばす。
(触らせてあげた方がいいよね……)
わくわくしたアリスを見て変身を止めた。しゃがみ込んだ彼女に近づき、位置を探って彷徨う手に頬ずりした。
アリスが一瞬硬直したかと思うと「わあ……」と感嘆の声を漏らし、優しく撫でながら輪郭をなぞる。そうして猫になったラムの形を把握していく。
(ん、これ……ちょっと……)
猫の体とはいえ、人間としての意識がある。あちこち触られてはくすぐったい。
アリスの手が下にまわる。
「んみゃ……」(や……)
お腹を撫でられたラムが思わず体を捩った。尻尾がゆらゆらと左右に揺れている。
「あ、ごめんね」
夢中になっていたアリスが手を離す。
「可愛くてつい……」
悪気はなかったのだと謝り、あごを指先で撫でる。
「なー」(あー)
得も言われぬ心地良さにラムの意識が溶けていく。目を細めて、のどをゴロゴロと鳴らす。人の体では感じられない快楽に溺れそうになっていた。
「……うにゃ!?」(……っ!?)
しかし、すんでのところで持ち直すことができた。雑念を振り払うように体をブルブルとする。
「みゃーお……」(今の、やばかった……)
ほっと一息つく。
そんなラムの感情の起伏を、アリスが面白そうに感じ取っていた。
「どんなふうに、やばかったの?」
悪戯っぽくアリスが言った。
心臓を掴まれたようにドキッとしたラムは後ろに跳ぶ。尻尾の先端をお腹の方まで丸めていた。猫の姿のラムは人語を話せない。思考を読んだような発言に警戒する。
そして黒猫の体をノイズが包み、黒髪の美少女が現れる。
「もしかして、思ってること、わかるの?」
ラムが神妙な面持ちで問う。
心が読めるのだとしたら、向き合うのは気分の良いものじゃない。誰しも知られたくないことはあるし、思考の全てが筒抜けだと想定しながら話すのはストレスがかかる。ましてやラムは詐欺師紛いの後ろめたいことをしている。警戒するのも仕方がなかった。
アリスはデイタと交流のある少女だ。デイタやラムのように、特異な力を持っているかもしれない。
「ううん、わかるのは心の中じゃなくて、猫の言葉のほう」
しかしアリスが放った言葉は、ラムの予想とは違っていた。
「……猫の?」
ラムが首を傾げる。
「猫っていうか、生き物だね。あと私の言葉も伝えられるよ」
「すご……」
人と動物で言葉による意思の疎通ができるのだとすれば、どれだけの可能性が広がるのだろうか。今は人間にとって馴染みのない動物と共存することも叶うのだろうか。それとも、実は現状とあまり変わらないのだろうか。ラムには大きすぎる規模の話だった。
「でしょ」
アリスがふふんと胸を張る。ついでのように付け足したが後者の力のほうがよっぽど貴重だ。人は言葉を介さずとも、動物を観察することによって仕草や鳴き声などから凡その感情や意思を汲み取ることができる。しかし人間の言葉をそのまま動物に理解させることは難しい。
「『おいで』」
アリスの声が大気に浸透していく。近くであれ遠くであれ、声の届く範囲内であれば距離を問わず一定の音量で響いた。
周囲が騒めき、多くの気配が集まってくる。
猫、鹿、狸、狐、熊、鳩、烏、鷹等の多種多様な動物が姿を見せた。
捕食・被食関係にある動物ですら、今はアリスの声を優先して大人しくしていた。ただ言葉が通じているという次元ではない。何らかの強制力が働いているのか、動物たちの自主的な判断によるものか。そのほどは定かではないが、自然界を生きているものたちがアリスを上位者として認識していることは確かだった。
アリスが何やら話しかけると、動物たちも答えるように声を出した。微笑みを浮かべ、動物たちに触れる。
多様な動物たちが一人の少女の周りに集まって身を寄せている。それはまるで絵物語の一ページのような、幻想的な光景だった。
ラムの知る世界から浮かび上がり、離れていくような。現実と非現実の狭間に立っているかのような、浮遊感にも近い感覚。
「ラムちゃんも来る?」
アリスの声で、ラムが現実に引き戻される。
「いや、いい」
とりあえず、遠慮する。反射的に断ることがほとんど癖になっていた。両親の顔色を窺う日々が、ラムに自己の主張を苦手にさせたから。
「えー」
アリスは不承不承ながら、
「ラムちゃんが来ないなら帰しちゃうよ」
と言うと、動物たちにお願いをする。すると動物たちは素直に自然へ戻っていった。足音や羽ばたく音が遠ざかっていく。急に静けさを増した展望台は寥々として、先程までと別の場所のようだった。
「ふー。座れるところってある?」
動物たちが全員帰ったのを確認して、アリスが体を伸ばす。
「ベンチあるよ」
ラムがアリスの手を取って案内し、雪を払ってからベンチに腰を下ろすよう促す。
「ありがとう」
アリスが座り、次いでラムも腰を落ち着かせる。
「そういえば、アリスちゃんってハーフなの?」
ラムが自国ではなかなか見ない顔立ちのアリスに問う。
「違うよ。お父さんもお母さんも同じ国の人」
「なんてとこ?」
「リコーリオ」
「へー、聞いたことない……ってか検索引っかかんないんだけど。りこーりお、で合ってるよね?」
ラムは話しながら情報端末を操作するが、リコーリオという単語だけでは見つからない。
「あってるけど、検索ってなに?」
アリスの言葉に、ラムが情報端末を落としてしまいそうになる。
「『検索ってなに』ってなに?」
思わず聞き返してしまう。この時代に生きていて検索という単語を知らないことなどあるだろうか。むしろ知らないようにする方がよっぽど難しい。
「えっと……有名、なのかな? ごめんね。あんまりこっちのこと知らなくて」
「有名とかそういう話じゃ……一応、調べるみたいな意味だけど」
ラムが諦めたように教える。
「ああ、地図持ってるんだ!」
なるほど、と合点がいって声を張るアリス。
「まあそんなとこ」
ラムが適当に相槌を打つ。これ以上この話をすると、説明が終わる頃には日付が変わってしまう。
そうして話していると、ラムは似た感覚を思い出していた。それはデイタが病院のことを知らないなどと言っていた時のこと。宇宙人とでも話しているかのような噛み合わなさを感じていた。今ラムが抱いているのもまさにその感覚だ。
「もしかしてさ、あいつの育ちもその、リコーリオってとこだったりする?」
たしかデイタが言うには地元はこの辺り。あまりにも常識がないので幼い頃に他国へ渡ったのだろうと思っていた。二人が店から出てきた時の仲睦まじい様子も踏まえると同じ国で育ったのだろうと予想する。
「うん。五年くらい前かな。それからずっと一緒」
五年。その歳月がラムにはとても重く聞こえた。ラムがデイタに合ってからは、精々半年程度しか経過していない。
「仲、いいんだね」
何気なく口を衝いた言葉。改めて声に出すことで、事実として再認識させられる。
「大好きなんだー、デイタのこと」
返された素直すぎる言葉に、ラムの心臓がキュッと締め付けられる。同時に、他者に心を惜しみなく晒せるアリスを羨ましく思う。ラムには怖くて、できそうにない。
「そういうの、なんかいいね。アリスちゃん可愛いから、あいつにはもったいない気もするけど」
冗談めかす。気持ちを出さぬよう平静を装って。
「そんなことないよ。一緒にいて楽しいし、優しいし、頼りになるし、かっこいいし」
指折り数えながらアリスが言う度に、ラムは焦燥感にも似た複雑な思いが込みあがる。この場から走って逃げてしまいたい。
しかし、困ったように笑いながら発したアリスの言葉が、ラムをその場に引き留めた。
「ラムちゃんはデイタのどんなとこ、好きになったの?」
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