『第六行仏威儀』第三十一段①〔法(たった今)が仏(たった今に住む人)を説く〕
『正法眼蔵』原文〕
たとひ「烈焔」にくらしといふとも、
「亙天」におほはれば、われその分あり、他この分あり。
亙天のおほふところ、すでにこれ烈焔なり。
這箇シャコをきらうて用那頭ヨウナトウは作麼生ソモサンなるのみなり。
よろこぶべし、この皮袋子ヒタイス、むまれたるところは
去聖方遠コショウホウオンなり、いけるいまは去聖時遠コショウジオンなりといへども、
亙天の化導ケドウなほきこゆるにあへり。
いはゆるほとけ法をとく事は、きくところなりといへども、
法ほとけをとくことは、いくかさなりの不知をかわづらひこし。
〔『正法眼蔵』私訳〕
たとえ「烈しい火焔」(火焔のように燃え上がるたった今の鮮烈な様子)
の光明が見えなくても、「満天」(般若)に覆われているから、
自分にもその光明があり、他人にもその光明がある。
(たとひ「烈焔」にくらしといふとも、
「亙天」におほはれば、われその分あり、他この分あり。)
〔たとえ般若の光明が見えなくても、
一切は般若に覆われているから自他ともにその光明があるのだ。〕
満天(般若)がおほふところは、すでにみな烈しい火焔である。
(亙天のおほふところ、すでにこれ烈焔なり。)
こちらの烈しい火焔を嫌って、
あちらの満天を取って一体どうするというのだ。
(這箇をきらうて用那頭は作麼生なるのみなり。)
〔烈焔(火焔のように燃え上がるたった今の鮮烈な様子)と
亙天(般若)は別ものではない。〕
喜ぶといい、この身体が生まれた所は釈尊の聖地からはるかに遠く、
生きている今は釈尊在世の時からはるかに遠いけれども、
この亙天烈焔の教えを聞くことができたのである。
(よろこぶべし、この皮袋子、むまれたるところは去聖方遠なり、
いけるいまは去聖時遠なりといへども、亙天の化導なほきこゆるにあへり。)
いわゆる仏(たった今に住む人)が法(たった今)を説くことは、
よく聞くところであるけれども、
法(たった今)が仏(たった今に住む人)を説くことは、
幾重にも分からなかったので苦労して来た。
(いはゆるほとけ法をとく事は、きくところなりといへども、
法ほとけをとくことは、いくかさなりの不知をかわづらひこし。)
〔しかし今この言葉に出会って、
「法(たった今)がほとけ(たった今に住む人)を説く」ということ
を親しく聞くことができたことは本当に喜ばしいことである。〕
第三十一段②〔抄私訳〕〔法(たった今)が仏(たった今に住む人)を説く〕
合掌
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