第22話


 末吉はふらつく足で店を眺め歩いた。店の前には格子戸がはめ込まれており、そのうちには遊女と呼ばれる、着飾った若い娘が並んで座っていた。

 客引きの男たちの声を振り切りながら、末吉は一件一件歩いてみるつもりでいた。何件あろうとも、一晩中かかろうとも、全ての店を見渡しユキがいないことを確認したい。いないとはっきりするまでは帰れない。そんな思いだった。

 大人たちの間をすり抜け、遠巻きに店を除く。

ユキに面影が似ている子を見ては鼓動が早くなり、後ろに後ずさる。

 違う、いるはずがない。あれはユキじゃない。ユキはこんな所にいるような子じゃない。そう、何度も何度も自分に言い聞かせ、末吉は一河の街を彷徨った。


 どのくらい時間が過ぎただろうか? まだ陽も沈み切っていない時間から、随分時間は経ち、町をうろついていた男たちはどんどん店に流れて行った。それでもこの町から男の姿が消えることはない。

 格下の小店にまで覗き込み、良いカモが来たと無理矢理店に連れ込まれそうにもなった。酒に酔った男に絡まれ身の危険を感じたりもした。それでもなんとかそれらををかわし、逃げおおせることが出来た。

たぶん全部の店を見終わったと末吉は喜んだ。やっぱりユキはいない、いなかった、良かったと。もう帰ろう、帰って心配してくれた兄弟子に会えなかったと、いや、いなかったと教えよう。そう思い、先ほどよりも少しばかり足元も軽く船着き場に歩き出した。

 もうすぐ料金所の門が見える。結局、貯めた金を使うことはなかったが、それでも良い。そうしたら里の実家に持って行こう。今度こそ栗山の地に里帰りし、皆を安心させたい。土産を持って帰ろう。何がいいかな? 自分が作った曲物を見せて使ってもらうのも良いかな。と、そんなことを考えていた。


 時に神は悪戯をすることがある。少年のほんのわずかでささやかな望みを打ち砕くほどの悪戯を。悪戯と呼ぶには辛く苦しい試練を。


 料金所の門が視界に入り、少しだけ足も早くなりかけた時、ふと横にある店を見た。暗い街並みから見えるその店の明かりは美しく輝き、まぶしく見えた。

 そして今まさに、帰ろうとする客を店の中から笑顔で手を振り、声をかける遊女の姿を。


「じゃあまたな、梅岡」

「はい。また、きっとですよ。すぐに来てくれませんと、梅岡は中本様を忘れてしまいます」


「わかっている。日を置かずに来るよ。待っていておくれ」

「はい。梅岡はあなた様をお待ちしておりますね」


 名残惜しそうにする客の手を握り、笑顔で答える遊女。


「お気をつけてくださいね」


 そんなやり取りなど、ここに来るまでにも多くの店でたくさん見てきたはずなのに。なぜ? なぜこんなにも目が離せない? 末吉の足は縫いつけられたようにその場に縛り付けられ、その遊女から目が離せなかった。

 気が付けばその瞳からは涙がこぼれていた。止め方を知らぬように。

 どんなに着飾ろうと、化粧で顔を変えようと、かつての幼馴染を間違えることはなかった。いっそ、気が付かぬほどに薄情者で、その面影すらも忘れてしまえていればどれほど幸せだっただろうか。

 お互いに熱情を持たぬままに誓い合った将来。それがどれほどのものかなどわからないが、それでも大事にしたいと、添い遂げる相手だと思うほどには情を持っていた。

 その相手が今、目の前にいる。ひとしきり別れを惜しんだ後、客はその場を後にした。遊女は笑顔で手を振ると、何事もなかったように店の中に入っていく。その姿には随分と慣れた様子が伺えた。

 今の客だけではない。今までに一体何人の客……男たちと同じようなことを繰り返して来たのだろうか?

 末吉は突然走り出すと、裏手の草むらにしゃがみ込み胃の腑の物を吐き出した。まるで己の体の内側にひしめく、汚いものを吐き出すように。

 吐き出す物などもう何もない。ここに来てから水の一滴も飲んでいないのだから。それでも吐き気は収まらず、胃液を出すほどまでに嘔吐は続いた。


 しばらくして体が楽になると、気持ちも少しだけ落ち着いたように感じた。

 たどたどしい足つきで船着き場に戻ると、二河の町に戻るべく船を待った。

 何も考えられず、しゃがみ込んだまま呆然としたままで。


「坊主。どうだった? 幼馴染はいたか?」


 突然頭の上から声がして、末吉はゆっくりと見上げた。するとそこには、夕方船を降りた時に話しかけてきた男が立っていた。男は黙ったまま竹筒を末吉に差し出し「飲まず食わずなんだろう?」と言う。末吉は言われて初めて気が付いた。喉がカラカラだったことを。それに気が付いてしまえば竹筒の中身を飲まずにはいられずに、芯を抜くと一気にそれを飲み干した。

 

「少しは落ち着いたか? おめえ、死人のような顔してたぞ」


 名も知らぬ初見の少年を心配し、声をかけてくれた男の思いにも気を配れないほどに、末吉は何も聞きたくないと心を閉ざしかけていた。

 船を待ちながら地べたに座り込み、うなだれたように俯いている末吉の頭上に、男は独り言のように話し出す。


「その幼馴染に会えても、会えなくても、もう終いにしろ。おめえのためにも、その子のためにも。蒸し返さない方が良いこともある。

 どんな結果に終わったにしろ、その子を恨むな、その子の親を恨むな。そして何も知らず、何もできず、救えなかった自分を責めるな。いいな?

 元々、おめえごとき小僧がどうにかできるような事じゃねえんだよ。

 知ったところでおめえにも、周りの者にもその子を救うことなんか出来ねえんだ。誰が悪いんじゃない。誰も悪くねえ。

 おめえが悪いわけでも、ましてやその子が悪いわけでもねえ。その子に悪いところなんて微塵もねえんだから。

 どんなに苦しくても辛くても、せめておめえだけはわかってやれ。

 それが、今のおめえにできることだ」


 男は運河を見つめたまま話し続けていた。

 この街に落ちて来る少女らの身の上を、親に売られ借金の方に差し出され、幼い少女の彼女らにそれに抗う方法などないことを。

 そして、年季のために客を取り借金を払う。これは仕事なのだ。運河の向こうで日々流れている、他の者の生活となんら変わりがないことなのだ。

 誰よりも他人を喜ばすことのできる、立派な仕事なのだと言う。


 末吉に男の言葉の半分も届いてはいなかったが、ユキも自分も悪くないことだけはわかった。自分のような子供ではどうする事もできないのだとも。

 助け出せない自分も、親に売られたユキも、何一つ悪くは無いのだと。

 少しだけ心が軽くなった気がして、思いだしてはまた沈む。


 あの店で客を取る幼馴染は悪くない。悪くないと理解は出来ても、昔とは違うと思ってしまう。

 年季のために何人、何十人と客と言う名の男を相手にし、その身体は? 心は? 汚れていないと言えるのか? 本当に? 

 あの日、栗山の里で一緒に手を繋ぎ蛍を見たあの時の幼馴染だと、そう胸を張って言えるのか? 

 辛く苦しいのは幼馴染なのに。自分よりも本当に苦しいのは彼女の方なのに。

 その幼馴染を笑顔で迎えることが……、出来ないと思ってしまった。

 例え体は汚されても、心が変わらなければそれでいい。そんな建前が言えるほど彼は大人ではない。女を未だ知らぬその身体は、女を求め、幼馴染を求め通う者の気持ちも体の疼きも知らない。


 恨むなと言った……。幼馴染を恨んでなんていない。

 責めるなとも言った……。何の罪もない幼馴染を汚いと思い、あまつさえ吐くほどまでに嫌悪感を覚えた自分に罪がないわけがないのに。

 終いにしろと言う……。そうできたなら、どんなに楽になれるだろうか。

 全て忘れて何もなかったと、何も見なかったことにできたなら、どんなにいいだろうか。


 末吉は朧な足取りで元来た道を歩いた。本人の記憶は曖昧で、途中崖から転げ落ちたり、強盗に襲われそうになったりした。宿に泊まるような気が利く頭は持ち合わせてはおらず、来る時と同じように人様の納屋などで雨露をしのいだ。

 途中の茶店で甘味や握り飯を買い、口に運んでいるときは覚えているが、他は記憶が曖昧で、よく覚えてはいなかった。

 常に自問自答を繰り返し、答えの出ることのない迷宮に迷い込んだように答えはまた振り出しに戻ってしまう。

 身体は傷だらけになり、心も擦り切れ、考える思考はとうに消え失せた。

それでも足は動く。ゆっくりと、ゆっくりと、まっすぐに進む。

 そして気が付けば山岡の町にたどり着き、ボロボロのなりで曲物の作業場の近くまで来ていた。


 約束の日数はとうに過ぎていた。今更どの面下げて戻れると言うのか。

 もう、自分のことなど見捨てられたに違いない。頭を下げ許しを乞うても、怒鳴られて終わるのが関の山だと考えていた。

「栗山に帰ろう」そう思い戻ろうとしたその時、名を呼ばれた気がして足を止めた。


「末吉」


「末吉」


 自分の名を呼ぶ声は背中越しに大きくなってくる。振り向く勇気がないままに、その声の主を思い出す。聞き覚えのある、その声を。


「末吉……。お帰り。無事に帰って来られて良かった。良かったな、お帰り」


 背中越しに聞こえる声の主は、末吉の肩にポンと手を置いた。

 ボロボロの服越しに伝わる彼の手の温もりが優しくて、末吉は堪えていたものが一気に噴き出した。立つこともままならぬほどに疲れた足は、崩れるように地べたにへたり込み声を上げて泣いた。

 その泣き声がいつしか小さな嗚咽に変わるまで、彼はそばにいてその肩を、背をさすり続けてくれた。


 待っているから必ず戻って来いと言ってくれた人。先輩弟子の芳一は、末吉の苦しさを受け取めてくれるようにそばにいてくれていた。


「よう、帰ってきた。待っとったぞ。みんな、お前が元気に戻るのを待っとったんだ」


 芳一の言葉に末吉は、恵まれた自分の運命に感謝し、そして思い出す。

 かつて、ふたりの未来を誓い合った少女のことを。


 蛍のように、雪のように清らで愛らしい少女を。


「  ユキ  」


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