第230話 初めて呼んだ名前

でも、文句を言っても距離は近くならない。

エネアはまた中々の早さで這い寄ってきた。

そして、今度はマリアローゼの膝の上にぽふりと顔を埋めたまま、スカートをぎゅっと握りしめた。


「まあ、殿下。わたくしも運動が不得手ですけれど、お励みにならないと将来困りますのよ?」


優しく言いながら、むうっとした頬を指でふにふにと触る。

ゆっくりと、手を開かせてから、マリアローゼは敷物の反対側へと移動して座った。

離れるのが分かったのか、いつの間にか着いて来たエネアに、マリアローゼはすぐに捕まってしまう。


「すごいですわ、殿下。ローゼは感服致しましてよ」


「ろー?」


偶然かもしれないが、名前だと認識したのかもしれない、とマリアローゼは笑顔を見せた。


「そうですわ殿下。わたくしは、ローゼ」

「ロー…」

「ローゼ」

「ロー…じぇ」

「そう、ローゼでございますわ」

「…おーじぇ…ろーじぇ…ろー…」

「はい、殿下」


名前を呼ばれるたびに、マリアローゼははい、と返事をし続けて、気がつくとゼナイダが

微笑ましい光景ににこにこと見守っているのに気づいた。


「殿下はもうお話になられますのね」

「いえ、でもお嬢様の名を覚えたようですので、多分すぐにお話するようになりますわね」

「それは重畳でございます」


「……んー…ぅー…じぇ…」


いつの間にかエネアはこくん、こくん、と頭を揺らしてうとうとし始めていた。


「はい、殿下、ローゼはここにおりますよ」


小さな背中をぽんぽん、と優しく叩くと、スカートを握りしめたまま眠ってしまった。


「お部屋に戻られますか?」


マリアローゼが問いかけると、ゼナイダは頷いて微笑んだ。


「初夏とはいえ、まだお外でお眠りあそばすには幼うございますので」


言いながら敷物を片付けるゼナイダの為に、マリアローゼはよいしょ、立ち上がってからエネアを抱き上げた。

スカートが持ち上がってしまうが、この際仕方がない。

「まあまあ、大変」


急いで片付けたゼナイダが、やんわりとエネアの手を開き、スカートを離させると、マリアローゼからエネアを受け取って抱きなおした。

そこで、エネアの意識が浮上したのか、パタパタと手足を動かして泣き始める。


「ろーじぇ…ろーじぇ…」

「まあ…どう致しましょう……」


何か渡せるものをと探すが、相応しいものは持っていない。

泣き止むかどうかは分からないが、マリアローゼは髪のリボンをしゅるしゅると外して、

泣いているエネアに握らせた。


「ほら、殿下。ローゼのリボンを差し上げますわ」


体力が残っていれば、違うと暴れたかもしれないが、限界を超えて泣いたせいか、瞳は閉じかけている。

手の中に握れるものがある事とマリアローゼが目の前にいる事に安心したのか、

すうっと目を閉じて、またスヤスヤと眠り始めた。


「ああ、良かった……」

「申し訳ございません、お嬢様」


流石に困ったような顔で言うゼナイダに、マリアローゼは微笑んだ。


「いえ、わたくしが余計な事を致しました。さ、早くお戻りになって下さいませ」

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