第2話


 リチャードが公爵邸に帰ると、妹が出迎えた。

「おかえりなさいませ、お兄様。お父様がお待ちでいらっしゃいます」

十九歳のアガサは、父がメカケに産ませた、リチャードにとっては異母妹である。もうひとり、二十歳のアリスもまた、別のメカケとの間に生まれた異母妹だ。アガサの生みの親はアルファに死に別れたオメガ女性、アリスの生みの親は男性のオメガで、アルファの子どもが欲しくて産ませてみたものの、どちらもバース鑑定の結果はベータだった。

 アガサとアリスが前世では双子で、異母妹ではなく同母の妹であったことを、リチャードは思い出さない。アガサとアリスもまた、ダブル・アルファである異母兄を敬愛こそすれ、前世でも兄であったことや生え抜きのパイロットであったなどという記憶は、いっさい無い。

 父の話など、縁談に決まっている。ため息をつきながら父の書斎へ向かうと、最高級のアガーウッドのデスクには見合いのための写真と釣り書きの山があった。

「リチャード。コリンズ叔父の奥方を覚えているか」

リチャードの叔父ではなくて父自身の叔父だから、リチャードから見たら大叔父だ。その連れ合いなんて、とっさには思い出せやしない。大叔父はアルファだから自身を一族の中でも重鎮だと思い上がって傲慢に振舞っているが、ランクCだったはずで、リチャードから見たら目上ではあっても敬うような才も能力もない。

「孫娘さんが今年、バース鑑定を受けてな・・・。セシル嬢というのだが」

見せられた写真は見合い写真のために盛装したものではなくて、貴族学校入学の記念か。真新しい制服で微笑んでいるのは前世で妻だったツェツィーリアだったが、前世の記憶が無いリチャードの目には、まだ乳臭いただの少女にしか見えない。

「まだ子どもじゃないですか。俺は少女趣味じゃありませんよ」

「子どもだろうとオメガはオメガだ。この子を娶れ」

「はあ!?」

父の横暴には、慣れていたつもりだった。それでも腹が立った。しかし、筆頭公爵家の総領息子として、ランクSのアルファとして、敷かれたレールの上を歩み、支配者層として人々の上に立って、世の中を牽引していく。エリート路線から外れた生き方など許されないし、する気も無い。




 「・・・生まれました。おめでとうございます」

 助産師の声に、ジョナサンはほっと息をついた。陣痛と分娩で体力を使い果たした身体は、鉛でできているかのように重く、疲労で意識が混濁している。

 十月十日前、獣のようにジョナサンに腰を打ちつけていたアルファの男は、今はもうジョナサンには見向きもしなかった。フレッドに金を渡すと、新生児の姿が見えず声も漏れないように魔力で保護した籠に入った生まれたての赤ん坊を持って、言った。

「では、今後は一切、くれぐれも我が家への接触は無しということで」

「もちろんだ」

アルファの男が出て行くと、フレッドは金貨の中から助産師に規定の額を数えて渡し、ジョナサンにもほんの数枚だけ、金を寄越した。

「次のヒートが来たら知らせろ」

と言い捨て、金だけ持って、さっさと出て行く。その背中を見送って、助産師はジョナサンに向き直った。

 「ジョナサン」

何度も世話になっている助産師は、青白い顔をしかめてお小言を垂れる。

「身体の負担を考えてください。もう、子宮が限界なんです。酷使し過ぎです。いくら妊娠・出産能力があるオメガであるとは言っても、男性の身体なんです。女性よりもダメージが大きいんですよ」

女性は、出産の時には大量の女性ホルモンが脳から分泌される。それによって、青竹をへし折るようなとか鼻から西瓜を出すようなとまで言われる分娩の痛みを程度の差こそあれ麻痺させているらしいが、オメガ男性はもともと女性ホルモンが微量しか無いし、分娩時の分泌量も少ないので、普通の女性よりもさらに産みの痛み苦しみが大きい。心身へのダメージを軽減するために、女性ホルモンを注射や点滴で補う方法もあるのだが、フレッドは金がもったいないと言って、一度たりとも使わせてくれたことがない。また、まっとうな医療機関であれば、万が一の時には帝王切開に切り替えるなど、設備も整っているが、ここにはそんなものは無い。

 モグリの医者ならぬモグリの助産師であるこの産院は、費用こそ格安であるものの、医療設備と言えるほどのものは、ほとんど無い。

 この助産施設で、ジョナサンは今回を含め三回、分娩した。させられた。非合法な手段を使ってでもアルファの子どもを欲しがる上流階級の、闇の代理母として、オメガであるジョナサンの身体は利用されている。父のフレッドが契約してきたどこの誰なのかも知らないアルファにその身体を差し出し、凌辱されて身籠らされ、十月十日その腹で育んだ我が子は、顔も名前も知らないまま、どこかへ連れ去られていく。もちろん、ジョナサンの身体に精を注いだアルファの家で、出生届も戸籍も完璧に改ざんして配偶者との間に生まれた実子として大切に育ててもらえているのだろうけれど、報酬のほとんどはフレッドの懐に入れられ、ジョナサンに渡されるのなんて微々たる額だ。

 助産師がフレッドを欺いて多めに請求し、こっそりと渡してくれる差額。それのために、このモグリの助産施設を利用している。病床の母を医者に診せるために、自分の血肉を削って稼いだ金をあのクソ親父から少しでも多くとる。父親は暴力をふるうクソ野郎で、母やジョナサンを苦しめるだけの存在である。仕事もせずに酒や賭け事に溺れ、妻子に暴力をふるう、クズのクソ野郎だ。老いてさらにその粗暴な性格に拍車がかかり、ささいなことでキレて激昂して暴れまわる。

 ジェフリーをはじめ、ベータの弟妹はすべて、はやくから見習いや住み込みの仕事を得て家を出ていったけれど、オメガのジョナサンはバース鑑定でオメガであることが判明した時点でフレッドに首輪を嵌められた。フレッドに逆らうことなどできなかったし、若い頃に昼夜を問わず働きづめに働いていた母は、今は身体をこわして寝たきりである。ジョナサンは母が心配なので、鬼のような父親のいる生家から出ていくことができない。フレッドが契約してくる闇の代理母として身体を利用されながら、母の介護をしている。

 子どもの頃から、どんなにひもじくても自分は我慢して、弟妹に優先的に食べさせてやっていた、痩せっぽちのガリガリの身体は、規定の年齢に達してバース鑑定を受けても、鑑定不可だったほどに発育不良だった。風が吹いたら飛ばされてしまいそうだった。

 バース鑑定再検査でオメガであることが判明してから、父はジョナサンに売春をさせた。ヒートの時の男性オメガのナカは、普通の女性の百倍もイイ、などと言われているので、ベータの売春婦や男娼の何倍の値段でも、ジョナサンを買いたいという男が引きも切らず現れた。ネックガードの鍵はフレッドが持っているので噛まれることはなかったが、フレッドに殴られて傷だらけのジョナサンの身体に歪んだ欲望を燃え上がらせる加虐性癖の男というのも世間にはいて、ヒートの時以外も客を取らされた。妊娠したこともあったが、中絶させられ、また売春をさせられる日々。都市伝説としてオメガは、子どもを身籠り生み出すために生命力が強いと言われている。下等生物のように切っても死なないなどという偏見を信じて面白がって加虐的な性行為を強いてくる男たちの中には、実際に刃物を当てて来るバカもいたし、タバコの火を押し付けてくる鬼畜野郎もいた。そういうクズどものオモチャにされて、犯され、貪られ、殴られ、蹴られ、凌辱されるだけの、男性オメガの人生。それが変わったのは、二十代になってすぐの頃だったか。

 どこから持ち込まれた話なのか、ジョナサンは知る由も無い。代理母として子どもを産めば、売春しなくていいとフレッドに言われた。ある程度健康でなければ健康な子どもが産めないからと、生まれて初めてまっとうな食事を食べさせてもらってゆっくりと身体を休め、医者の診察を受けた後、ヒートを迎えると、目隠しをされてどこかへ連れて行かれた。目隠しをされたまま、どこの誰なのかもわからない乱暴な男に、数日にわたって身体を抉られ、揺さぶられ続けた。脱水状態と疲労で意識を失うまで犯され続け、意識がもどった時には病院にいた。意識が無いままどのくらいの時間が過ぎたのかもわからない。意識がもどってからも、しばらくは起き上がることもできなかった。やっと起き上がれるようになったと思ったら、食べ物の匂いが気持ち悪くて食べられなかったり、嘔吐してしまったりという状態になり、このまま死ぬのだろうかと思った。それでも、殴られることも売春させられることもなく、母と二人でオンボロの借家に引きこもっているうちに、次第に腹が膨れてきた。細い身体の腹部だけがぽっこりと膨らんで、餓鬼のようだと思った。世間から隠れるような、妊娠生活を送った。悪阻はつらかったけれど、空腹と暴力に耐えながら身体を売らされていた日々よりはましだった。陣痛ははてしなく、出産はつらかったし、どれだけ高額の報酬が入ったのか知らないけれど、ジョナサンの手にはわずかしか渡されない。それでも、毎日毎日違う男に身体を貫かれる日々にくらべれば、まだましだった。

 そうやって身体を酷使され、胎を利用されて、二十代は終わった。まるで、裕福なアルファのための子ども製造機のように。しかしさすがにもう、疲れた。女性のオメガがベータの女性に比べてはるかに安産で、妊娠中のトラブルなどまったく無く、多胎児ですら通常分娩で苦も無く産むのに対し、男性のオメガはたいてい妊娠悪阻が酷いし難産だし、分娩で命を失う率も高い。いくら子どもが産めるとはいっても、基本の身体の作りが男なのだから仕方ない。自分の身体がボロボロであることは、ジョナサン自身、助産師に言われなくてもわかっている。

 二回目の時だったか、ひと際横暴で横柄なアルファの相手の仕事の都合に合わせて、ヒート誘発剤を使われて無理矢理にヒートにさせられて、妊娠させられた。ヒート誘発剤は副作用が酷く、今は禁止薬物になっているが、依然として裏社会では流通している。その後、ヒートの周期が乱れたし、今回の妊娠は以前よりも悪阻がひどかった。生まれた子どもの状態もあまりよくなかったのではないだろうか。・・・もちろん、どこに連れていかれたのかもわからないし、二度と会うこともないのだろうけれど。

 ヒートが来なくなったら、それに、きちんと健康な子どもを産むことができないのなら、代理母はできなくなるだろう。そうしたら父はまた、売春をさせるのだろうか。何度も妊娠・出産をさせられて襤褸キレのようなこんな身体でも、買いたがるもの好きな男がいるのだろうか。ヒート誘発剤を使われれば、どんなに嫌でも、この身体はアルファを求めてフェロモンを出し、勝手に濡れてオスを誘う。嫌なのに、死にたいほど嫌なのに、本能は心を踏み躙る。

 いったいなんのために生まれてきたのだろう。

 ジョナサンの地獄は、いつまで続くのだろう。

 父が死ぬまで? 母が死ぬまでは、なんとか生きて、母の世話をしなくては。

 その前に、自分のほうが先に死ぬだろうか。




 *****


 夢を見る。

 垂直尾翼に白銀のペガサスを描いた、僚機。その操縦桿を握っている相棒は、秘密の恋人だ。

 彼となら、どんな敵にも絶対に負けない。どんな悪天候のどんな空域のどんなドッグ・ファイトでも、彼となら生還できた。敵機を屠って帰還した後のキスは甘くて、骨が軋むほど抱き合う熱さが嬉しかった。

 あれは、誰だ。

 あの夢は、なんだ。


 *****




 助産施設の外には、幼馴染みのアルバートが待っていた。

「大丈夫か?」

ジョナサンがオメガであると判明してからも態度を変えず、ずっと親身によりそってくれるのは、アルバートと弟のジェフリーだけだ。平民学校で仲が良かった友人たちの何人かは近寄ってこなくなり、何人かは下卑た目線を向けてくるようになった。その中でも露骨だった奴に、レイプされかけたことがあった。確か、初めてのヒートを迎えた時だ。隙間風が入るボロ家からはジョナサンのオメガフェロモンがだだ漏れて、たまたま近くにいたそいつに嗅ぎつけられてしまった。ドアを壊して押し入ってきたけれど間一髪のところで、アルバートが助けてくれた。

 アルバートはベータだ。オメガのフェロモンは感知できず、惹かれることはない。しかし、ヒートもフェロモンも関係無く、男性オメガとヤってみたいという男は、ベータにもたくさんいる。アルバートは絶対に、ジョナサンに対しておかしな欲望など見せず、誠実に純粋にジョナサンに寄り添ってくれる。

 ジョナサンは自分なんかの面倒をみさせるのは申し訳ないと思っていて、アルバートがしあわせになってほしいと強く望んで、何度も何度も言った。だからアルバートは優しい女性と結婚して所帯を持ったけれど、こうしてしょっちゅう様子を見に来てくれる。

 アルバートとジェフリーがいなかったら、ジョナサンはとっくに死んでいただろう。

「メシは俺が作るから、ジョナサンは身体を休めろ」

「お前の味付けじゃあ、母さんがびっくりして目をまわしてしまう」

「あ、言ったな」

アルバートは豪快なオトコ飯しか作れないから、母のための食事は任せられない。

 「ただいまもどりました」

「お邪魔しまあす」

ジョナサンが帰宅すると、母の様子が、ちょっとおかしかった。いつもだったらアルバートの訪問には、うすい布団の中からでもやつれた顔にわずかながらも笑みを浮かべるのに、今日は脅えたようにきょときょとと視線を泳がせているのだが、疲れ切っているジョナサンは気づかない。

「母さん。具合はどう? お腹すいただろ?」

「あ、・・・大丈夫だよ・・・」

「来週には病院に連れて行くから」

ジョナサンは母に声をかけながら、買ってきた食材を片付ける。

「元気になったら、トミーたちに会いに行こうよ」

弟妹はみな、フレッドを嫌って、ジェフリー以外は意図的に遠方に住んでいる。ジョナサンと母が簡単に会いになんて、行ける場所ではないし、本当に行けるなんて思っていない。少しでも母を元気づけようと思って言った、それだけだった。

「出かけるような金をお前に渡したことなんかねえぞ!」

奥の部屋からいきなりフレッドが姿を現した。

「なんかおかしいと思っていたんだ! あのクソ女! 騙しやがってェ!」

モグリの助産師は、フレッドには世間の一般的な金額を請求し、実際には特別に安い料金しか取らずに、差額をこっそりジョナサンに持たせてくれていた。

 しかし、それがフレッドにバレてしまった。少し前から、勘づいていたらしい。

 フレッドの骨ばった大きな拳がジョナサンの顔にめり込み、わずか数時間前に出産を終えたばかりの身体が、腹を蹴られて人形のように吹っ飛ばされた。

「ジョニー!」

母とアルバートの叫び声が聞こえた直後、引き千切られるように、意識を失った。




 お見合いは、最高級の香料を扱う商会の上階にある特別個室で行われた。アディンセル公爵家が出資している中でも規模が大きいこの商会は、新大陸で発見されたまったく新しい香料で作った香水を献上して王妃にいたく気に入られ、今、日の出の勢いである。香料の取引のための密室で、リチャードは今、香料ではないけれど香料のようにたいせつにされている令嬢と引き合わされていた。

 商会の建物は七代前の国王の奨励によって当時量産された、帝国の建築様式を模した建物の中でも最高傑作のひとつと言われていて、国の内外を問わず高く評価されている。平民は立ち入ることすらできない、文化財のような贅を尽くした空間は、優雅に香りを選ぶ貴族の奥方や令嬢を愉しませる場所だ。ここなら、まだ発現していない未成年とお見合いをしたとゲスな目で見られることも無いし、相手の少女もお友達に見つかってしまうことは無いだろう。

 濃い茶色のつややかな髪が印象的な少女は、傍目にも緊張している様子がありありと見て取れた。リチャードは目を合わせずに、しかし冷静に、セシルを観察する。孫といっても正確には、大叔父の老妻の妹の息子の嫁の弟の娘、であるらしい。バカにしているのかと思う。大叔父のコリンズとセシルの父親のアボットがリチャードの父親であるアディンセル公爵に媚び諂ってヘコヘコしている様子が不快で、リチャードは眉間に皺をよせる。そうすると、セシルは戸惑ったように目を伏せる。自分の存在がリチャードに疎まれていると感じているらしい。疎んじているのはクソジジイどもで、セシルではないのだけれど、わざわざそれを言ってやるのも面倒くさい。

 「おっ、お二人で、薔薇でも見ていらっしゃいな。ここの空中庭園は、薔薇がとてもすばらしいのよ?」

コリンズ夫人が、必死の様相を押し隠したむりやりの笑顔で勧めてくる。仕方がないので、形だけ誘ってやって、リチャードはセシルを連れてマジックシールドで蓋われた空中庭園に出てみた。薔薇はたしかに綺麗だったが、薔薇の芳醇な香りをさしおいても、セシルからオメガ特有の気配は感じられなかった。オメガのフェロモンではなくなにかきな臭いというか胡散臭いものばかりが感じられて、リチャードを苛立たせる。

 と、絶妙のタイミングで、マジックメッセージが来た。

「失礼」

セシルに断って、距離をとる。

 メッセージは副官のハロルドからだった。仕事の内容的にどうしてもリチャードの指示を仰がなければならないものがあって、階下まで来ているらしい。本来なら言語道断だが、今は渡りに船だった。セシルに言って、階段を駆け下りる。

「ハロルド。再来週のバーベキューを茶会に変更しておいてくれ。若い士官の中でも品のいい奴に声をかけておけ」

「え、今からですか?」

「俺の名前でボタニック・ガーデンのテラスを押さえろ。妹にサポートさせるから、あ、トニーとかアンディとか、下品なのは来させるなよ? フィルとレイモンドを絶対に呼んでおいてくれ」

トニーとアンディは、見た目も言動も女性受けしない奴らだ。フィルとレイモンドは、見た目は地味だけれど機転が利くしちょっとしたスキルがあって、リチャードが目をかけている。

 若い士官や士官候補生が集まってあまり堅苦しくない茶会をやるから、貴族学校のお友達と一緒においで、と言ってやると、セシルは嬉しそうに顔を輝かせた。




 目を開けると、白い天井が見えた。

 ―――病院・・・?―――

「ジョニー。気がついた?」

 ―――アルバート・・・?―――

 出産から数時間しか経ってない腹をフレッドに蹴られた。アルバートがいたから、ジョナサンはただちに病院に運ばれたのだった。そうは言っても出産で開いたのが戻りきっていない上にもともと貧弱な骨盤は激しい衝撃に耐えられず、ヒビが入っているらしいし、内臓も損傷しているらしい。殴られた顔も、痛みからしてそうとう酷いことになっているだろう。アルバートが警備兵を呼んでくれたし、病院に運んでくれた。アルバートがいなかったら、死んでいたかもしれない。

 ―――いつもありがとう・・・―――

 礼を言いたいけれど、声が出ない。

「親父さんは、警備兵に連れて行ってもらった。今度こそは、身元引受なんて絶対に絶対にしないでくださいねって、俺、小母さんに頼んだよ。これ以上、代理母なんてさせられたら、ジョニーが死んじゃいますよって」

 そんなお願いをちゃんと聞いてくれるのなら、苦労はしない。どんなに殴られても、母はあのクソのような親父から離れられないのだ。

 その時、控えめにドアがノックされた。

「アルバートさん。兄さんは?」

そろり、と顔をのぞかせたのはジェフリーだった。

「小母さんはジェフが世話してくれるよ。ジョニー。心配しないで、ゆっくりお休み」

ジェフリーは泣きそうに顔を歪めている。

「もっと早く兄さんと母さんを引き取れればよかった。アルバートさん、すみません」

ジェフリーは死に物狂いで働いて働いて働いて、最近ついに独身寮ではなく家族寮への入居が認められたのだ。そこに母とジョナサンを引き取って、父から引き離すことを目標に、ずっとがんばってきたのだ。兄は自分のことなどよりもアルバートの嫁さんみたいなやさしくて可愛い女を見つけて早く結婚しろと言うが、ジェフリーは兄を救うことしか考えていない。幸い、ジェフリーの事情を理解してくれるいい雇い主に恵まれて、健康管理と自己責任で、残業も好きなだけやっていいということにしてくれたり、雇い主の奥さんが栄養満点、ボリューム満点の食事をさし入れてくれたり、少しだけ特別扱いをしてくれている。

「ジェフはがんばったよ。すごくがんばってる。えらいえらい」

アルバートはそう言って、ジェフリーの頭をポンポンした。ジェフリーは本当だったらジョナサンにそうしてほしかったのだろうと、わかっているから。

 アルバートとジェフリーが廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。

「クロフォードさんのご家族の方でしょうか?」

看護主任だった。糸のように細い目の、表情の読めない中年女は、クロフォードさんのお身体のことでお話が、と言って、応接室に誘導した。

 応接室で待っていた男性は、病院長のアボットと名乗って名刺を差し出してきた。病院長なんてエライ人が、平民の身内になんの用があるというのか。元来おっとりとお人好しなアルバートと、父に似て図体は大きいのにどうにも小心者の風情できょろきょろと目がおちつかないジェフリーは、ジョナサンのカルテを見ながら話す病院長の邪な目の動きには全く気づかない。

「救急医からの報告で、ちょっと疑問点がありまして。腹部を蹴られたにしては、ちょっと怪我の状況が異常で。なにか心当たりはありませんか?」

「それは・・・」

医療従事者には守秘義務がある。しゃべっても、ジョナサンに不利になるようなことはないだろうと、アルバートは決断して、ほんの数時間前に正規の医療機関ではない場所で出産を終えたばかりだったことや、父親に暴力で支配され、何度も違法な代理母をさせられていたことについてしゃべってしまった。表面的には眉間に皺を寄せていたましげな表情を作りながら、代理母をさせられていた男性オメガである、というそのことに、アボットの目が異様な光り方をしたことには、アルバートもジェフリーも気づかなかった。




 週末の茶会に、セシルは貴族学校の仲の良い同級生数人をともなって参加した。

 ハロルドとアガサがセッティングしたのは、ボタニック・ガーデンのテラス席で、セシルたちが来た時には、フィルやレイモンドをはじめとした、若くてお育ちのいい士官や候補生たちが迎えた。

「すばらしい美人揃いですね! ボタニック・ガーデンの花々も霞んでしまいます」

憎めないお調子者のレイモンドに騒がれて、うら若い令嬢たちの緊張もほぐれる。

 ハロルドの采配で、茶会と言っても肩の力の抜けた、和やかな雰囲気だ。もちろんそれは口うるさい年増の貴婦人たちがいないからで、本来なら淑女らしい立ち居振る舞いをしなければならないセシルたちは、最初こそ緊張していたものの、すぐに笑顔になった。

 アガサに呼ばれて、フィルはリチャードのそばに行った。平民出身でベータの自分を可愛がってくれるリチャードに、フィルは盲目的になついて尊崇している。そんなフィルに、リチャードは声をひそめて訊いた。

「あの中にオメガの子はいるか?」

フィルは士官候補生の少年だが、アルファやオメガを正確に嗅ぎ分けることができるスキル持ちだ。それもヒートじゃなくても、さらにはまだバース性が発現していない子どもでもだ。バース性の専門家が聞いたら目を剥いてひっくりかえるだろう。世間一般では、バース鑑定の年齢に達して鑑定を受けるまで、わからないものであるはずなのだから。

 フィルはゆっくりと会場を一回りして、しっかりと嗅ぎ分けてきた。年頃の男の子に年頃の女の子の匂いを嗅いで来いなんて、不届きなことをやらせている、という認識は、リチャードには無い。

「オメガはいないです。アルファの子が一人いますね」

やっぱり、そうか、と呟いて、リチャードはアガサを呼び寄せ、なにか耳打ちする。

「コリンズの大叔父さんって、たしかアボット病院の、理事ですよね」

バース鑑定の偽造を、やろうと思えばできなくはないだろう。

 アガサはとびっきりの笑顔でセシルに近づいていった。

「何年か後には、セシル嬢は私のお姉様になるのですよね!」

アガサに言われて、セシルは頬を染める。友人たちにはやし立てられ、乞われるままにアガサと連絡先を交換したり、おしゃべりに興じている。

 さて問題のクソジジイどもをどうしてやろうか。声には出さず、リチャードはつぶやいた。


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