記憶を辿り、奮い立つ決意

 ついさっきまで冷たい雨風にうたれていた俺にとって、シャワーから放たれる温水は、いつもより何倍にも心地良く、いのちの水と化していた。

 髪がひどくれていたこともあり、頭皮までじんわりと温かく染み渡っていくその感触は、軽く昇天しょうてんしそうになる。

 だけどもその心地良さは、うでひざに生々しく残る傷が温水に当たった刺激で、たちまち打ち消されてしまう。


「とりあえず、少しは元気になれたのかな……」

 俺はぼんやりとそうつぶやいた。

 高校に入学して以来、一体紗彩さあやの身に何が起こったのだろうか。俺の知らないところで何があったというのか。

 何が紗彩を奈落ならくの底に突き落としたのか。今日のついさっきまで音信不通状態になっていた俺にとっては、知るすべも見つからない。

 そんな俺一人じゃ答えなんか出るはずもない問いに、あれこれと考え始めてしまう。


 中学校までしか、紗彩との思い出が無い自分にとっては、あんな弱くなった姿なんて想像できなかった。いや、誰が想像できようか。

 俺はシャワーにうたれながら、紗彩の過去について悶々もんもんと考え続けた。


 確か紗彩は、小さい頃からピアノを習っていたな。

 その才能も、小学生の時点から満開の桜のごとく咲き誇っているかのように恵まれていた。

 コンテストに出場しては、ほぼ毎回入賞していた。

 当時、音楽に関しては紗彩は頭ひとつ飛びぬけていて、彼女の右に並ぶ者は誰一人いなかった。


 あれは中学三年の二月のこと。高校受験も佳境かきょうに向かっていく頃、入試を目前に控えた生徒達の緊張感は、かなりのものだった。中には体調をくずす子も、ちらほら出てくるようになった。

 それは俺も例外ではなかった。たかが高校受験、されど高校受験。可能な限り優秀な学校に合格できないと、難関大学への切符を得ることが格段に難しくなる。

 校長と教頭を筆頭ひっとうに教師たちは、そう俺達生徒に、まるで洗脳せんのうのように指導し続けていた。

 今思えば、公立中学でそんな教育的な学校、あり得ないと思う。

 その呪縛じゅばくさいなまれ続けたせいか、俺の体調は徐々じょじょにボロボロになっていった。

 自宅に閉じこもり、ひたすら勉強を続けていたある日の俺は、まるで無職の中年のようにボッサボサのかみに、着ているジャージは一週間以上洗濯せんたくせず、肩の部分にはフケが汚く散らばっていた。

 そういえばおふくろが部屋に入ってきた途端「くさっ!」と強烈な反応をしてたような。

 そんな中、太陽のような笑顔で、お前は現れてくれたっけな。

 部屋に入っても、俺の体臭も肩にかかっていたフケも全く気にすることなく、身体をガシッとつかんで、満面の笑みで自慢げに教えてくれた。


「第一志望の高校に合格できた!」と。

 肝心なその学校の名前がなかなか思い出せないが、音楽科という特別科のコースがあり、そのコースではピアノの実習も行われているみたいで、紗彩はその音楽科に合格したと報告してくれたのだ。 


「自分の好きなことに熱中しながら、学校生活が送れるなんて夢みたいだよ!」

 

 そうだった。

 俺はその言葉を聞いた瞬間、初めて気づかされたんだった。

 紗彩は他にも、そこそこ良い公立高校に受かったのに、そう言ってわざわざそこをってまで、行きたい学校に決めていたのだ。

 自分の好きなように、やりたい道に突き進んで良いんだ、と。

 それまで固定観念のように、自分の頭から一切離れなかった学歴コンプという名の悪魔あくま

 彼女が放つ光によって、初めてその悪魔がげ、消え滅んでいった。

 何を俺は……大人たちが自分たちに都合良く教えたことを鵜呑うのみにしてたんだ?

 優秀な学校に合格できないと、大学の可能性も減る? そんなの、学校の教諭が生徒の進学実績をより良くするだけの、

 統計的に見れば、確かにその傾向は高いかもしれないが、真実とは全く相反する。

 それまで俺は、偏差値73の水山みなやま第一高校に向けて入試対策をしまず取り組んできたが、一ランク下げて千波せんば高校へ頑張ることにシフトチェンジするようになった。


 パズルのピースがひとつひとつ合わさっていくように、ニューロンが少しずつ繋がっていく。

 自分の将来に無関心だった俺にとって、自分の将来のなりたい姿へ一直線に突き進む紗彩が、どれだけ眩しく見えただろうか。

 こんなにかけがえのない光を俺にくれたというのに、自分は十分見合うだけの恩返しができているのだろうか。

 うなずけるわけがない。

 今度は、俺が紗彩を助けてやらないと……!

 そう俺は決心し、ぎゅっとこぶしに力を入れた。

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