荒天のメロス

 発車してから約十分後、水戸駅北口に到着した。

 ここでも、俺の体内で計られたストップウォッチは、軽く三十分は経過している。


 駅周辺の雪は少しずつ溶け出してきていて滑りやすく、とても危ない。

 俺は傘を差すことも忘れて全速力で走る。

 国道51号線に沿って駆け抜け、滑っては転んでを繰り返しながら、弘道館こうどうかん付近に通う中学生、高校生とすれ違っていく。

「はぁ、はぁ」

 ゆるやかな上り坂を駆け上ったときには、既に息切れしていた。

 あまりの自分の壮絶そうぜつさに、道行く人は誰もが思わず立ち止まり、行き違っていく車は皆、必ず俺を見るや否や徐行してくる。

 それでも人の目なんて気にならなかった。幼馴染を救うため。最早それしか頭の中に入っていなかった。

 後悔の念が押し寄せ、再び涙がこみあげてくる。


 鉄橋を渡って桜川さくらがわを越えれば、自宅はもうすぐだ。

 突き当りの交差点を越えた先、その近くに俺の自宅が、そしてちょっと進んだところに紗彩さあやの住む高層マンションがそびえたっている。

 何度も転倒したせいで、身にまとっているぶ厚いコートもスラックスも、雪水にまみれていた。

 そのせいか、全身が強く痛む。身体の何処かしらを動かしている状態でないと、その痛みはたちまうずく。

 喉の奥から血の味がしてきた。運動部の生徒は、これを毎日のように味わっているのだろうか。

 もうその場でじっとすることもできず、常に体の一部をぶらぶらと動かしていた。

 信号が青に変わったのをようやく確認し、交差点を駆け出して自宅に着く。


 目線の奥に建つ高層マンションを見上げてみる。

 だが、相変わらずの悪天候なので視界が悪い。その上俺は元からの視力もあまり良くなかった。

 そんな俺に、人がいるかどうかの確認なんてできるわけがない。

 一分一秒も争う事態。とにかく助けたい一心で、迷うことなく俺はマンションに向かって走り出した。

 ロビーに入るとき、偶然にも運よく住民とすれ違ったので、すぐに室内に入ることができた。だけど正直ここで変に運を使い切りたくないのが本音だった。

 既に手遅れで、マンションの階下に血を流して倒れていたり、室内でリストカットしていたりなんて未来が、一番の不幸だから。できれば今のうちに運の悪さを味わっておきたい。

 紗彩の住む階は、十階。俺はあしの筋肉を酷使しながら全速力で駆け上っていく。

「エレベーターありますよ」と、管理人らしき人から声をかけられても、なお俺は階段で上ることにした。

 今の俺ならエレベーターよりも早く上れる自信があったからだ。


 紗彩が住む一〇一五室の目の前。

 ぜえぜえと息を切らしながら、俺は早速インターホンを鳴らした。

 返事は来ない。待てども待てども一人寂しくぽつねんと、時だけが過ぎる。

 時間もないので、俺はドアノブに手をかざし、開いているかどうか試みた。

「あれ……?」

 扉が静かに開く。すんなり部屋に入れたことが、逆に不気味さを覚えた。

 リビング、洗面所、浴室と部屋中を駆け回り、意を決して最後に紗彩の部屋を見てみたが、彼女の姿は見当たらなかった。

「鍵をかけてないまま、外に出たのか……?」

 その不穏な状況に、俺は頭を悩ませた。

 きょろきょろ当たりを見回していると、ベッドの上に四角くてかたい物体に目が留まった。

 紗彩のスマホだ。

 わざわざ携帯を置いて外出するのは、明らかにおかしい。

 俺は試しに、屋上まで上ってみることにした。

 きっと紗彩は、この悪天候な日、いや悪天候な日だからこそ、屋上から飛び降りようとしている。そう確信したからだ。

 そうと決まれば、俺はマッハの勢いで部屋を出て、再度階段を駆け上った。

 このマンションは十五階建て。今まで駅から全速力で駆け抜け、一気に十階まで駆け上った俺にとっては、最早五階程度、何の造作も無かった。

 もしかしたら、もう既に飛び降りているのかもしれない。

 そんな心の悪魔を必死に振り払いつつ、俺は屋上に辿り着いた。


 奥の方をらしてみると、制服を着た小柄で可愛らしい少女が、手すりにつかまってたたずんでいた。

 少女の身体は小刻みにふるえている。それは寒さからくる震えに見えなくもないが、別の理由で震えているのが十二分に伝わってくる。

 降りしきる雨は、まさに少女の心のやみを描いているかのようだった。


 俺は即座に、

「紗彩あああああ!!!!」

 と、腹の底から少女の名を叫呼きょうこしていた。

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