悪戯者のエメラルド・キャット
船が出航してからというもの、私はずっとひとりで船室に閉じこもり、刀の手入れや鍛錬をして過ごしていた。
乗船する前こそ不安だったが、いざ海上に漕ぎ出してみれば当初懸念していたほどの船酔いは起こらず、せいぜい居心地が悪い程度だった。
思ったほど揺れぬし、思ったほど閉塞感も無い、船室は快適で空調も行き届いている、柔らかいベッドに備え付けの冷蔵庫までも完備されている。
三半規管に響く微妙な揺れ、地上では決して発生し得ない慢性的な違和感は確かに気分を害するが、しかしそれ以上に環境が良い。
よっぽど田舎のボロ宿の方が落ち着けないだろう、時間が経つにつれこの上下に揺さぶられる感覚にも慣れてきた。
こればかりは従軍経験が活きたと言えよう、兵士はいかなる環境においても任務を遂行する必要があり、軍ではそれに耐えられるよう鍛えられる。
寒さ、暑さ、悪臭、悪路、悪天候、ありとあらゆる状況に適応し行動が可能なように教育されている、それに比べればこれくらいどうって事ない。
私は今まで戦ってきた相手との立ち会いを、頭の中で済ませながら時間を潰し、気が付いた頃には窓の外はすっかり暗がりに支配されていた。
「……ついぶっ通しでやってしまったな」
ふと、刀を振る手を止めて時計を見る。
気が付かば夜飯を食べるのも忘れて鍛錬に打ち込んでいた、食習慣の乱れは心と体の乱れに繋がる、健康が脅かされれば命を落とす確率も上がる。
ここいらで切り上げるべきか。
「ふー……」
途切れた集中を引き戻し、ひと通り形稽古をなぞりながらクールダウンをはかってから、使った筋肉をほぐしたのち汗の始末を行う。
程よい筋肉痛、程よい疲労感、今なら気持ちよく食事が摂れるに違いない。
着物を羽織り直して刀紐を腰に括る、到底正しい着方とは呼べないが、ここにはあの口うるさい爺は居ない故気にする必要は無い。
別に道楽者という訳ではないが、目下私の興味は食事にあった。
確か乗船前の案内では食事の取り寄せが可能ということだったな、一応案内の用紙は受け取ったが如何せん私はこういった仕組みに疎い。
それに『自分で歩いて取りに行く足があるのに、他人に料理を運ばせるだなんて気が引ける』という気持ちがあるのも事実。
提供可能時刻こそ過ぎていないが、結局『わざわざ呼び鈴を鳴らして船員の手を煩わせる必要もないだろう』という結論に達した。
髪を結び終え準備を済ませた私は手を叩き、悩んでいた問題に決着を付けた。
「どれ、食堂にでも出向いてみるかの」
他人との接触は必要最低限に控える方針だが、何もそこまで敏感になることもあるまい、手持ちの食料の消費も抑えたいしここは外食で良いだろう。
そうと決まれば私は荷物の中から財布を取りだし、落とさぬようしっかり位置を確認しながら懐にしまい込み廊下に出た。
人が三人並んで通れるくらいの狭い通路は、床に敷かれた上品なカーペットによって彩られており、その上をいくつかの靴音が跳ねている。
中にはきっと私と同じく食堂に向かう者も居るだろう、道順が不安というわけではないが、自分の進行方向に人が歩いていると安心する。
正直言って分からないことだらけなのだ、ある程度は頭を働かせることで解決するが、細かいシステムや決まり事に関してはそれ程詳しくない。
他人に迷惑をかけるような事だけは起こすまいと内心ビクビクしてもいる。
廊下を進み、階段を上り、また廊下を進んで階段を上ると外気へと晒された、光なき水平線はまるで死が手招いているかのような佇まいだ。
`この景色を眺めながら飲む酒はさぞかし美味いだろうな`などと考える。
外の気温はそれなりだ、部屋を出る前にしっかり着込んできたおかげで震えずに済んだ。
しばらく歩くとラウンジに出る、そこは人でごった返しており、気を付けて歩かないと誰かにぶつかってしまいそうだった。
壁に設置された案内板の導に従いレストランに入る、扉を潜るとすぐに席へと案内された、私は言われるがままテーブルに着き、笑顔と共に渡されたメニュー表を開いた。
「……」
パラ、パラ、パラ。
慣れぬ手触りの紙を捲り、右へ左へと視線を動かしそこに書かれている料理名を流し読む、そして十分な時間を掛けて悩み抜き、ひとつ答えを出した。
「分からぬ」
何を書いているか分からない。
どういう料理か想像出来ない、味も分からない、なんだこれは一体どういう食べ物なのだ、どう発音したらよいのだ!
……しまった、甘く見ていた。
エレゴーラでの暮らしに支障がなかったので、まさかこんな所で躓くことになるとは思いもよらなかった、よもや書いてある料理名が分からぬとは。
ええい、こうなれば一か八か賭けに転じるしかあるまいよ、どんな物が出てくるか事前に分からない方が楽しみがあってよいかもしれない!
テーブルに備え付けられているブザーに手を伸ばし、覚悟の注文を行おうとしたその時。
「——ねぇアンタ、ひょっとしてメニューが分からないんじゃない?」
声の方を向くとそこには、出発前の港で何やら係員と言い争っていた黒髪の女が座っていた。
「大丈夫、そういう人結構いるのよね、それに見たところ明らかにこの辺の人じゃないし、お高くとまってる連中の食べる横文字だらけ〜な料理名なんて普通分かんなくて当然よ」
彼女はこちらの返答を待たずにぺちゃくちゃと言葉を並び立て、『あたしに任せなさい』と言って私の手からメニュー表を奪い取っていった。
「辛いの好き?甘いのは?苦いのはどうかな、あなた味は濃い派?薄い派ー?」
捲し立てるように喋り散らかしたあと、彼女は私の目を見てそう尋ねた。
「……あ、あぁ、薄い方が好みじゃな、それと辛いのはちと気分ではない、どちらかというとさっぱりとしたモノを口にしたいと思っておる」
呆気に取られ思わず反応が遅れたが、どうやら彼女が私の代わりに料理を選んでくれるようなので、ひとまず今食べたい物について教える。
「ほーうほう、そうですかそうですかぁ、じゃあ一個取っておきのヤツ知ってるよ、アナタも絶対これなら気に入るはず、あたしが保証するわ!」
言葉を挟む間も無く、彼女は『ちょっとー店員さーん』と人を呼びつけると、美しい緑色のネイルが施された指でメニュー表を叩きこう告げた。
「とびっきり高品質なやつをお願いね!」
「はい、かしこまりました」
店の者は深いお辞儀を私たちへと返し、粗雑さの欠けらも無い足さばきで素早く厨房の方に消えていくのだった。
「……かたじけない」
事態が一段落し、悩みを解決してくれた見知らぬ女人に向けて頭を下げる。
「あぁいーのいーの、困った時はお互い様でしょー?人に良い事をすれば自分にも返ってくる、在り来りだけれどあたしの信条なの、そーいうことよ」
「なんとお礼をしてよいか」
返せるものなど何も持っておらぬし……。
「うわー今時いるんだこういう人ー、あたしとっくに絶滅しちゃったかと思ってた、さっきも言ったけどアレは単に私が見てられなかっただけだから、あなたが気に病むことは無いわ。
苦手なのよねー人から感謝されたりお礼を言ったり言われたり、むず痒いったらありゃしない、だから頭なんて下げなくていーのよ。
あんまり良い人すぎると馬鹿を見る事になるわよ?」
「……しかし」
やはり納得できることではない、せめて受けた恩ぐらいは返さないと、それが人間の正しい生き方であり、他者に対する当然の敬意だ。
「強情ねぇ……本当に珍しいわ今どきに……」
彼女は困ったように頭をかき、あっちゃこっちゃに視線を動かしたあと突然両手をパンッと合わせて言った。
「じゃあお料理!私と一緒に食べてくれない?どう?それでさっきの分はチャラってことで、私のお願いを聞いてくれないかしら?」
「そんなことでよいのか?」
拍子抜けというふうに見つめ返すと、彼女は眉をあげて答えた。
「あら、大切なことよ、ご飯ってのは一緒に食べる人数が多ければ多いほど美味しいものなんだから、それにあなたからは面白い話が沢山聞けそうだし、悪くない条件なんじゃないかしら?」
これ以上意地を張るとかえって無礼になってしまうだろう、微妙に煮え切らない思いはあるものの、かといって他に何を返してやれる訳でもなし。
今の私は楽しい旅行中ではない、多少意地になってしまった所は反省するとしてここは大人しく彼女の要求を受け入れるとしよう。
「お言葉に甘えさせて頂くとする」
了承を。
「ホントに?やったーお喋り相手ゲット〜、いやぁ実はひとりで寂しかったのよねーずっと、期せずしてこんな可愛い子とお話出来るなんてツイてるわ」
彼女は自分の席を立ち上がると、私の向かいの席を引いてそこに座った。
「あ、そうそう名前、これからご飯を食べるんですもの、名前くらいは名乗っておかなくちゃね
私の名前はロイ=エスメラルダ=ハートウッド、現在失業中のカジノディーラーよ」
よろしくねと差し出された手を握り、私も彼女に習って自己紹介をした。
「キリシエ=ジュウザ、あてもなく彷徨う流浪人じゃ」
その時、私が口にしたのは。
「キリシエ……?随分と変わった響きね」
名前を尋ねられ、口をついで出たそれは。
「はは、この辺の者には口馴染みがせんであろうな」
今は亡き我が師の名であるのだった——。
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