あっちです
ナナシマイ
1
雨上がり特有のもわんとした気怠い空気の匂いから解放されるようにホームへ流れ出て、しかし今度はまた別の、ベルトコンベアに乗って検品される商品みたいに諾々とした気怠さをまといながら階段を下りる。そうして改札に切符を通してふっと詰めていた息を吐いた先に、手首が落ちているのを見つけた。
初めは利用者の多いこの駅が見せた錯覚かと思い目をこすってみたがそうではない。間違いなく人間の手首だ。
向かうべくはあっちだというふうに突き出された人差し指からは妙な圧力を感じる。僕は好奇心に負けてそちらへ目を向けてみるがそれらしいものは見当たらない。当然だろう。こんなところに落ちている手首がなにを指し示すというのか。そもそもどうして手首が落ちているのだ。なぜ誰も騒がない。
――どん、と後ろから改札を出てきた人にぶつかられて「すみません」と軽く謝りながらさすがにここで立ち止まるのは邪魔だったなと足を向けたのは落ちている手首が指し示す方向であった。
自分が進んでいる方向に気づいたときにはもう足を止めるにはきまりが悪いように思えて、なかば意地になりながら足を動かす。どうせ時間には余裕がある。多少寄り道をしたところで予定に影響はなく、日ごろの運動不足解消とでも考えればよいだけだ。もう少しで駅の外へ出る階段の手前で二つ目の手首を見つけた。どうやらこのまま地下道をゆくらしい。
まっすぐに方向を指す手の指は僕を買い物にでも誘っているかのように人通りを進ませ、地下道に直結している商業施設の中へと招き入れた。
エスカレーターを上ったところで待ち構えていた手首に思わず微笑みかけてから、すっとなに食わぬ顔を装いフロアに立ち入る。
さすがに建物内では一つ一つの距離が短い。トルソーの台座、レジ横にある保存の効く甘味のカゴ、消化器のノズルの上。近づく間もなく方向を変えていく。
この手首たちは僕以外の誰にも見えていないようだ。そんなことあるものかと笑い飛ばしたくなるが事実僕は普段なら足を踏み入れることなどないレディース服を扱う店の並ぶ空間にいて、そして人差し指を伸ばす手首を追いかける僕を不審な目で見る者は一人もいない。プレゼントでも買いに来たのだろうと店員からはにこやかな笑みを向けられる。
ぐるりとワンフロアを回ったあと、手首は僕を外へ導いた。
久しぶりの直射日光にさっそく汗がじわりと滲む。暑い。けれども指立てた手首はテカることすらせずひそりと佇んでいる。
そういえば、この手首は誰のものなのだろうか。少なくともこれまで落ちていた手首はすべて同じようだった。するりとなめらかな肌は女のもののように見えるが、大きめで、若干骨ばっているのが判断をつけにくくしている。中性的な手首だ。だが先ほどはレディース服のフロアへ案内されたわけであるし、僕の中での印象もどちらかといえば女性のほうに近い。
相変わらず人目のあるところを進んでいくが、僕はとうとう堪えきれなくなって今までパーソナルスペースの広い人間と同じかそれ以上に取っていた手首との距離を縮めてみた。そうして検分するのだ。さて、断面はどうなっているのだろうと。
それが紛い物であるとは微塵も疑っていなかったが、不可解なことに、断面はもやがかかっているかのように認識できなかった。鼓動する肉の色はかろうじてわかるがそれだけで、手首の内側に見える細い筋がすぱんと途切れたその先は見えなくなっている。
すでにこれだけおかしなことが起こっているのだ。今さら手首の断面が見えないくらいで動揺することもあるまい。僕は先へ進むことにした。
駅から離れるとさすがに人は疎らになってくる。とはいえその時にはすでに人目なんか気にならなくなっていたものだから僕は平気で地べたに這いずり回ってコンタクトレンズを探すふりをしながら手首の皮膚に触れた。
それが本当に人間のものか判別しかねるかすかな温みと、見た目ほどきめ細かくはないらしいさらさらした表面。多少押した程度ではびくともせず、指差す方向が変わってしまうことを恐れることもない安定感がちょうどよい。僕の人差し指でくにぃと押すこの圧力は最初に感じた「あっちです」という気配へのほんのお返しだ。
歩行者用信号の機械の上。室外機からの風が当たる地面。天真爛漫でちょっぴりわがままなお嬢さんに連れ出されるなら、こんな蒸し暑い日の都会を歩くのだって悪くない。そう、悪くないのだ。
調子に乗ってきて無口な人差し指をするりと撫でる。僕の手は汗ばんでいたからするりという感じではなかったかもしれない。とにかく親指と人差し指の付け根あたりまで手を進めても逆走だとは怒られなかったのでそのまま舌を寄せて舐めて、
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