第7話想像の外

 土曜日の朝が来た。

 休日の醍醐味、二度寝を我慢して支度をしている僕の耳に、軽快なインターホンの音が聞こえてくる。清香が来たのだろう。

 僕は手元のスマホに指を走らせて、彼女にメッセージを送った。


『あと五分待ってくれ』

『分かった』


 清香にしてはやけに聞き分けがいい。

 そう思いながら準備を進める。すると、突然僕の耳元を生温い風が通り過ぎた。


「ふーっ」

「うわあああ!」


 ぞわぞわという感触に、僕は飛び上がった。

 後ろを見ると、ニヤニヤと笑う清香の姿があった。手を後ろに組んで僕の驚く様を笑う彼女は、常よりも嬉しそうだ。


「どうだった? 美少女の吐息」

「朝から最悪の気分だよ。というかいつの間に家に入って来たんだ?」

「うーん? おばさんに挨拶したら、普通に通してくれたよ」

「我が家に不審者を通したのは母さんか……」


 隣家に住む星家と渡辺家の付き合いは長い。清香も幼い頃から用もないのに家に来ていたものだ。けれど、彼女が我が家に上がるとは小学生の頃以来だろうか。


「それで? 正人はいつになったらデートに出発できるわけ?」

「五分待ってくれってさっき伝えただろ。……というか清香」

「なに?」


 きょとんとした顔で俺の顔を見つめる清香。


「なんで教室であんな大声でデートなんて宣言したんだ? おかげで俺はクラス中の男子を敵に回したわけだが」

「──ああ、そのこと」


 答える清香の雰囲気が、一瞬で変わった。明るくて賑やか、太陽みたいな少女から、冷たく、醒めきった諦観を纏う絶対零度の女へ。


 剝き出しになった本性に、僕は息を吞む。その威圧感は、久しぶりの感覚だった。

 冷たくて抑揚のない声が僕の耳に入ってくる。


「ひとつは、クラスの伊勢崎への認識を改めさせるため。雲の上の不可侵の存在じゃなくて、休日はクラスメイトと遊ぶような普通の女の子だと思わせる。実際、効果はあったでしょ?」

「ああ、そうだな」


 伊勢崎さんを慕っている女子生徒たちが彼女に直接話しかけるのは、多分あの日が初めてだ。多分、清香の言葉によって伊勢崎さんを見る目が多少変わったのだろう。


「でも、あくまで憧れだったと思う。友情とはほど遠い」

「そんなに簡単には改善しない。まあ、今回だけじゃなく継続的に働きかければ少しは良くなると思う」

「僕を巻き込んだ理由は?」

「伊勢崎にお近づきになりたいやつらが、君に仲介を頼むように。まあこれは、望み薄。あったらラッキーくらい」

「僕はお試し感覚でクラスで孤立させられたのか?」


 僕が呆れて問いかけると、清香は鼻だけで笑った。


「そんなことが重要? 私は正人の伊勢崎さんの友達を作ってほしいという願いにこたえただけだよ」


 ああ、相変わらず、何かが決定的にズレている。きっと彼女は、人よりも多くのものが見えるから、人と違う価値基準ができているのだろう。


「まあ、今回のクラスなら、大したトラブルも起きないと思う。気持ち悪いほどの善人か、何もできないほどの臆病者しかいないから」


 人間への嫌悪感を滲ませた言葉。入学から一週間程度だが、清香は何の衒いもなく断言してみせた。相変わらず、人間観察には自信があるらしい。

 清香が見せるこの仄暗い本性は、滅多に他人に見せることがない。僕には見せているのは、多分幼馴染で今更隠しても無駄だからだ。


 ──だから、清香が伊勢崎さんに自分を曝け出したのは、良い変化だったのではないかと思う。


「それにしても、清香は僕が中学の間話しかけてこなかったこと、聞かないんだね」

「聞かなくても分かることをわざわざ聞く必要がある?」


 相変わらずにべもない。全部分かっているから聞かなくていい、なんて態度は、凡人の僕からすると少しだけ鼻に付く。

 でも、この件に関しては悪いのは僕だ。


「その……悪かったな。急に無視なんかして、僕が無駄に意地を張りすぎた」


 中学の頃、僕は清香と話すことを意図的に避けていた。伊勢崎さんのことを紹介しに行ったのは、本当に久しぶりの会話だったのだ。

 ある程度自分の中の感情が整理できたゆえにできたことだ。


「あれ、意外。てっきりうやむやにするのかと」


 先ほどとは違い、意外だという表情を見せる清香。


「僕にだって凡人なりの意地がある」


 色んなところで劣っている僕でも、譲れないものはある。


「別に、私はあの時何も感じていなかったよ。多分、私の認識のずれが原因だったんでしょ?」


 清香は僕から目を逸らすと、少しだけ遠くを見た。





 私は人よりも多くのことが見える。多くが分かる。人よりも多くのことを考えられる。だから、分かってしまった。

 人間はみんな馬鹿だ。愚かだ。

 私の上辺だけの演技に簡単に騙されて、すぐに好意を抱き始める。あまりにも似すぎて、量産品の人形が何かのようだ。

 だから、あいつらに価値などない。

 




 好きです。付き合ってください。

 

 もう何回聞いたか分からない告白の言葉を聞いた。

 私はそれに、申し訳なさそうな表情を作って応じた。


「──ごめんね? 私はちょっと恋愛とかに興味ないっていうかさ。そういう余裕があんまりないんだよ、うん」

「その……星さんを拘束する気はないんだ! むしろ俺はその奔放なところに惹かれたっていうかさ!」

「いやあ、でもやっぱり付き合うってなったら色々気になっちゃうよ。うん、私が私らしくなくなっちゃう。だから、恋愛とかには興味がないんだ」

「そっか……うん、分かったよ」


 案外あっさりと引き下がった名前も知らない男子生徒は、そのままその場を立ち去った。

 彼の背中が見えなくなったのを確認してから、私は大きなため息をついた。


「はぁ……なんで皆わざわざ告白なんてするかな。どうせ断れるんだから、無理しなきゃいいのに」

「……相変わらずだな、清香」


 そんな独り言を聞いていた正人が、物陰から出てきた。そこに彼がいることが最初から分かっていた私は、動揺することなく言葉を紡いだ。


「相変わらず? 些細なことで一々変化するような凡人とは違うの。私は私。人を見下していることなんて変わりようもない」

「だろうな」


 正人は少し呆れたように言いながらも、私に近づいてきてくれた。それが少しだけ嬉しくなって、少しだけ言葉が弾む。


「それで、正人は今日も私に絵を見て欲しいんだっけ?」

「うん。毎度毎度悪いけど、お願いしたい」


 正人は絵を描くのが好きだ。しかし、彼には絵の才能があるとは言えない。技術がないとは言わない。ただ、描くものがいつも凡庸で、ありきたりだ。それでも諦めずに描き続ける姿勢自体は殊勝だ。

 ……けれど、私は正人の絵にかける情熱を他に注いだ方が良いのではないかとずっと思っていた。絵を諦めることが、彼の幸せのためになると思った。

 だから、間違った。


「うん、相変わらず上手いね」


 私の目の前にあるのは、キャンパスいっぱいに描かれた一枚の絵だった。題材は川辺。雄大な川の流れも、周囲の雑草の質感も、上手く描けている。

 ただ。


「でも、上手いだけ。構図もありきたりで、魅力を感じない。これなら写真でいい」

「……そっか」


 私の容赦ない物言いにも、正人は苦笑するだけだった。まあ、幼い頃から私の講評を聞いていたのだから当然だろう。

 いつもなら、気まずい雰囲気のまま解散して、明日からはまた何事もなかったように普通に話すようになっただろう。

 しかし、今日の私は少し踏み込みすぎた。


「正人は絵を描き続けることは向いていないと思う」

「……うん、僕もそう思うよ」

「正直、その熱意を他のところに向けた方が幸せになれると思う。苦しんでまで絵を描く必要なんてないんじゃない?」


 その一言は、正人の逆鱗に触れてしまった。

 彼の表情が変わる。不安定で、まるで大事なものを手放すことを拒否する幼子のようだった。


「──分かってるよ、そんなことっ! それでも……それでも僕はやらなくちゃダメだったんだよ! じゃないと僕はいつまでも普通のままだ!」

「凡人が正人をどう思うかなんて気にする必要ない。あなた自身を持てばいいだけ」


 私は、私にとってひどく当然な心理を口にした。人間は当然そうするべきだと思っていたし、正人にもそれができると思っていた。

 けれど、彼の反応は想像と違った。


「……特別なお前には分からないよ」


 正人は吐き捨てるように言うと、その場から去っていった。


「……もしかして、本気で怒らせた?」


 遅れて考えるが、しかし当時の私には大した危機感はなかった。正人にとって絵の才能を否定されることがどういう意味を持つのか、分かっていなかったのだ。

 後悔したのは、正人が私と目を合わせることすらしなくなった後。この真っ暗な世界の唯一の光が、私を見てくれなくなった後だ。



「清香の言葉が悪かったんじゃなくて、僕がつまらない嫉妬に囚われてしまったことが原因だった。気ままに絵を描いて、気分でコンテストに応募して、結果を出してしまう清香が妬ましかった。嫌いになった。だから、無視するなんて子供じみたことしてしまった。本当に、ごめん」

「だから、気にしてないよ」


 清香は、感情の読めない微笑を浮かべていた。


「それなら、いいけど……」


 あまり釈然としない気持ちのまま、会話は終わってしまった。

 ああ、やっぱり清香のことは分からない。物心つく前からの付き合いなのに、つかみどころのない彼女はいつも僕の想像の外だ。

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