第8話

約束の水曜日。神村と渋谷駅で待ち合わせをした後三軒茶屋のフレンチ料理店に着くと彼女が早速ワインと品物を注文し乾杯をして季節の野菜を使った惣菜やソーセージの盛り合わせが並べられて二人で味わいながら会話を弾ませていった。


「尾花さん今忙しいですよね。もう確定申告の時期に入っているし残業もあたる頃ですよね?」

「ちょうど入った頃だよ。新規のクライアントも増えてきているし税理士の人たちも出入りしている。僕ら社員もしばらくは根詰め状態になりそうかな」

「そうなると、あまり会えないですよね。うちの店にも顔を出すのも難しくなるのか」

「平日だと昼間は外出も増えるからどうなるか難しいな。ただ、土日や祝日なら時間が合えば会えると思うよ。あらかじめ会う予定を合わせようか?」

「はい、これからそうしたいです」

「年上の僕でも相手にしてくれるのがなんだか嬉しいな。神村さんはそういうの抵抗ないの?」

「好きになった人には年齢はあまり気にしないです」

「好きな人、いるの?」

「はい。似たような境遇の人なんですが雰囲気が温かい人なんです」

「そうか。そういう人が傍にいてくれると頼もしくもなるよね」

「そうですよ、尾花さん」

「うん?」

「気づいていますよね、その人が誰だか……」

「変な言い方するけど、もしかして似たような境遇って僕の事?」

「はい。私、尾花さんの事ずっと気になっていたんです」

「震災や病の事とか?」

「ええ。支えてあげるにはどうすれば協力できるか色々考えています」

「それで、本当に幸せでいられると思うかい?」

「今からでも知っていけるならあなたの傍にいたいんです。私は……どう思いますか?」

「僕は君の事はまだ知らないことも沢山ある。ましてや男女の仲になるとかまだそこまで考えたことなんかない」

「急に問われてもすぐに答えは出ませんよね。すみません、話したことをなかったことにしてください……」

「考えても良いよ」

「えっ?」

「優しさで断るくらいなら僕ももっと考えるべきだと思った。お互いが会えない間その好きな人がどうしているのかとか気にかけているのは悪いことではない。神村さん、時間をくれませんか?」

「いいですよ。返事待っています」


味ひとさじの賞味期限。神村には同じ体験をした人間とはあまり関わって欲しくないと考えている。それなら自然災害で辛い思いをきたことのない他の男性と一緒になるべきだと願う方が彼女の幸せだと思ったからだ。

ある程度の実体験を理解し融合できる人を選んでほしいと僕は身体の中から払拭させて彼女の選択肢を導いていける人間でありたい。

ただ彼女からの告白を受けて自分の中に眠っていたもう一つの感情が渦を巻いて白煙化しながら湧き上がる。


僕は家族を裏切ろうとしているのかもしれないが、今の自分にとって改めて素直になり相手の情を受け入れても良いのではないかと安寧なる道理を歩もうとしているのだ。


食事を終えて店を出ると狭い路地に押し寄せるように人々が行き交っていた。駅の連絡通路を歩きながら先程の神村からの返事を告げようとすると、彼女は僕の腕を掴んできたのでどうしたのか尋ねてみると酔いが回ったのでホームに着くまでの間寄り添っていてくれと返答してきた。


「本当は告白してくれたことが凄く嬉しいんだ。でも、家族を亡くしたばかりの自分がどう立ち直っていったらいいのか怖くてたまらなくなる時が日に日に増していくんだ」

「人肌恋しく思う事ってないですか?」

「あるよ……無性にたまらなく女性を抱きたくて仕方なくなる時がある」

「私は、替わりになれますか?」

「僕はこういう人間だ。いつ消えていなくなるかもわからない男だ。それでもいいなら……神村さん手を握ってもいい?」

「いいですよ……」


僕は彼女の手を握り締めてつなぐと彼女も強く握り返してきた。この人の温もりはきちんと手の中に残り触れ合う熱が適温を保って離れる事を恐れない。神村は信頼を抱いてもいい人なのだから、おそれることもないのだ。この時女性は魚ではなく人間なんだと思い出す事ができるようになった。


「明日はまだ仕事が残っている。今度会うのは近くても来週の土曜日あたりになりそうだ」

「尾花さん自宅三鷹ですよね」

「そうだけど、どうした?」

「あまり自宅に帰りたくない気がする」

「家は反対方向だよね。まっすぐ帰った方が良いよ」

「追われている男性がいるんです」

「それは誰?」

「元彼です。スマートフォンも替えたのにしつこく連絡してくる。見張られている気がして怖いんです」

「誰かに相談はできない?橘さんか親族の人とかには伝えてあるの?」

「一応知っていはいます。けど今日は尾花さんの家に行きたい……私軽い人間って思われる?」

「いいや、そうは思っていないよ。じゃあ……今日だけ寄って行ってもいいよ」


ホームに着いた時には神村はうとうとと首がもたれて眠気に憑りつかれているように足元もおぼつかない調子だったので自宅に着くまで肩を抱きよせながら電車に乗り人の目線を気にしては彼女を介抱していた。

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