第5話

「名前、教えてくれないか?」

「三橋ですよ。いつも会社に一緒に居るのに忘れてしまうのですか?」

「ごめん……今も通院しているんだけど相手の顔はわかるのにどうしてだか名前が出てこない事があるんだ」

「健忘症って治らないの?」

「人にもよるけど数年かかることもあればあるに突然思い出すこともあるらしい」

「尾花さんは地元の事は覚えている?」

「家族がいたことはわかる。けれどアルバムを見てその人が誰だかわからない時もあるよ」

「奥さんと子どもの事は?」

「覚えている。二人とも似たような顔をしていたからその記憶は時々思い出すんだ」

「向こうには帰らないんですか?」

「帰りたくない。逆に向こうから誰かが来そうで近づいてほしくないんだ」

「私といるのは怖くない?」

「温かくて気持ちが良いよ」

「……良かった。尾花さんとしている時に時々苦しそうな顔をするから気になっていた」

「いくらほしい?」

「三万でいい」

「すぐなくなるよ。もう少しあげようか?」

「いいです。そこまで困っていないし。私今日は帰りますね」

「終電間に合う?」

「はい。また、ここに来ても良いですか?」

「ああ」

「あと……これ煙草。いつも吸っているのこれでいいんですよね?」

「うん、ありがとう」


三橋は衣服を着てから八センチのヒールの靴を履き玄関先でまた会社で会おうというとそのまま家を出た。彼女がいなくなった部屋の中はそれほどに湿気で満たされてはいなくてベッドも散乱していない。うまい具合にセックスをしてくる相手だと感じ取れるが、僕は彼女の気持ちには答えられない。抱かれても相手から発する温度や温もりもあっという間に消えてしまうからだ。

普段会社にいる時でさえ業務のこと以外の内容には何を質問されても本音は言わずに生返事をするように受け答えをしているのだ。相手から見ればただの言いぐさのついた節操のない男だと思われるかもしれないが、僕はそういう自分が愛してやまない気質の人間であり欲しい時だけ欲しがる社会の中の下僕的傲慢な人間なのだ。


翌朝になり、気怠さが残る身体を起き上がらせて一杯の白湯を飲み、ベランダの窓を開けて換気をするとテレビをつけて歯を磨きながら今日の天気予報を見ていた。午後から雨が降る予定なので、とりあえず折り畳みの傘を持っていこうと玄関先の床に傘を置いて支度が整うと自宅を出た。

決算の書類を確認している際に箭内から先日訪れた小料理店に書類を届けて欲しいと言ってきた。

四谷に向かい店に着くとドアが閉まっていたのでインターホンを鳴らすと誰かが返事をしてきてこちらに向かう足音をが聞こえてきた。


「こんにちは。どうされました?」

「ああ神村かなむらさん。急に来てすみません、箭内から店主の橘さん宛てに渡す書類を届けに来たんです」

「そうでしたか。まだ店長が来ていないので私がその書類を預かっておきます」

「では、よろしくお願いします」

「あの……尾花さん、お昼はもう済ませましたか?」

「いや、これからですが?」

「良かったらうちで食べていきませんか?」

「でも他の方たちは中にいらっしゃいますよね。いいんですか?」

「簡単なものですが惣菜があるので食べていただきたいと思ったんです」

「じゃあ、まだ時間があるので……いただいても良いですか?」

「はい!どうぞ中に入っていください」


カウンター席に座りしばらく待っていると神村がお膳入れに煮物を中心とした定食を出してきてくれた。使われている野菜をよく見るとどこかで食べたことのある食材があるので彼女に尋ねてみると、新潟から配送した伝統野菜で作ったまかないだと話し、早速それらを食べてみると歯ごたえや味など地元を思い出すような感覚になった。僕は美味しいと告げると微笑んでくれてお代わりをしてもいいと言ってきて配慮してくれた。


「何だか懐かしいよ。こういう野菜を使った料理をよく食べていたんだ」

「震災で契約していた農家の人も被害があって何軒か断られたんのですか、今の方がお店に連絡してきてくれてウチなら良いよって言ってくださったんです」

「そうか。こうした伝統野菜のものもこちらで沢山提供していってほしいな」

「尾花さん食べるの早いですね。お代わりします?」

「ご飯を半分ほどください」

「……どうぞ。ふふっ本当に美味しそうに食べますよね」

「先日来たばかりですがここの味とても気に入っているんです。気品あるし皆さんも優しいですし。都内にそういう人たちってなかなかいないですよ」

「橘さん元々奈良にいらっしゃったんですがご身内に不幸があって上京してきた方なんです」

「そうでしたか。じゃあその時からここのお店もできたんですか?」

「ええ。だから二十五年くらいは経ちますね」

「都内も居酒屋が増えてきているしこのようなお店も少なくなっていますよね。もっとみんなに知ってもらいたいなぁ」

「そういっていただけるだけでも嬉しいです。もうお代わりはいいですか?」

「はい、結構お腹いっぱいになりました。午後から仕事はかどれますよ」

「機嫌よくて良かった」

「えっ?」

「この間来てくれた時、なんだかあまり元気がない感じがしたので気にしていたんです」

「初対面の人に良く言われます。大人しいとか控えめだとかって言われること多いんだよ」

「今日は顔色が良いですね」

「昼からこんなに贅沢なもの食べれたので幸せです」

「また、お昼にここに来ても良いですよ」

「いや、さすがに来るのは遠慮しないと……」

「来てください!」


彼女は少し気が立っているような雰囲気で声を大きくして僕に告げてきた。

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