第12話 灯台祭、初日
メルリア・ベルは、決して物事を楽観的に捉える人物ではない。どちらかといえば事を重く捉えがちで、念には念を入れる方だ。
しかし、現実とはそううまくはいかないものだ。物事とは、経験した上で得ることの方が多いのだから。
灯台祭、一日目――。
本日の営業を終えたみさきの家には、机に突っ伏して溶けている少女が一人、椅子の背もたれにだらしなく体重を預ける中年の男が一人、椅子どころか腰が抜けたように床に座り込む少女が一人。誰も彼も生気を失った瞳をしており、端から見たら地獄絵図と呼ぶに相応しい。とても他人に見せられるような姿ではなかった。
「お疲れ様。大変だったわね」
店の扉にクローズドの看板をかけたテレーゼが、生気の消えた人の形たちに向けて声をかける。その声かけには男が辛うじて手を上げたのみだ。三人には声を出す気力も残っていない。
灯台祭一日目の営業は忙しい、とは聞いていたが、この日はメルリアにとって激務というに他ならなかった。それは他の二人にしてみても同じ。灯台祭は忙しいと知ってはいた。知ってはいたが恐ろしく疲れた。グレアムに至っては、年のせいで日が沈んでからは体がついてこないほどであった。
客席は全席満席。あちらこちらから注文が入り、フィリスとグレアムが二人がかりでキッチンを回す。できあがった料理をメルリアが提供し、その間に注文を受け、料理が完成し、提供し、また注文を受け――彼女が足を止める時間はほとんど存在しなかった。テレーゼが会計や周囲の補佐をし、なんとか店を滞りなく回せたという状況である。
今日はなんとか無事に乗り切れた、そんな空気で満ち満ちていた。
「もしよかったら飲んで」
グラスの中で何かがぶつかるカランという涼しげな音。石のように崩れ落ちている三人の中で、真っ先に解凍が進んだのはグレアムだった。グレアムは目の前にあるグラスに手を伸ばし、ごくごくと飲み干す。フィリスは死んだ魚のような目でそれを見つめていた。薄く黄色い色のついたグラスの中には、二酸化炭素の気泡が上へ上へと上っている。にもかかわらず豪快に半分ほど飲み干したグレアムは、はぁーっと大きな声を上げた。
「ぅ美味いッ! テレーゼさんお手製で明日も頑張れる!」
「父さんは楽でいいわね」
エッジの効いた低い声でフィリスはそう言うと、テレーゼは口に手を当てて笑う。
「男の人って、割と単純だから」
フィリスに向けて一つウインクをすると、フィリスもようやくグラスに手を伸ばす。グレアムのように豪快に飲み込むことはせず、味わうように少しずつ口の中に含んでいった。
「メルリアちゃんも、よかったらどうぞ」
メルリアはその言葉に顔を上げ、なんとか椅子に座る。自分用に置かれたグラスに手を手に取ると、テレーゼに頭を下げた。
「ありがとうございます……」
レモンのすっきりとした香りが鼻を通り抜ける。
グラスに口を近づけると、パチリと弾けた炭酸が、メルリアの顔をほんの少し濡らした。ゆっくりと口に含むと、酸味と甘み、それから炭酸独自のピリピリとした感覚が口の中いっぱいに広がる。口の中からレモネードの炭酸が抜けると共に、メルリアの疲れもそれに溶けていくような感覚がした。
「美味しい……」
弱々しい声でメルリアは言う。疲れのせいで表情に感情はほとんど宿っていないが、心の底から美味しいと思えた。
「明日も頑張りましょうね……」
「おー!」
グレアムが威勢良く拳を突き出す。それに合わせ、フィリスとメルリアが弱々しく拳を突き出した。
――その晩、メルリアはベッドに横になるなり気絶するように眠った。
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