薫る薔薇に盲目の愛を

不来方しい

第1話 蓮とかずと

──どうして点数が下がってるのよ!


──このままだと医者にはなれないぞ。


──塾にも行かせて家庭教師もつけてるっていうのに!




 悪しき声が脳内にこびりついたまま動けなくなった。

 手と足の感覚が失われ、耳が遠くなり、目の前が真っ暗になった。

 母親の叫び声が聞こえたが、どうでも良かった。

 階段上から転げ落ちる直前、考えていたのは「楽になりたい」。

 残念ながら思いは届かず、目が覚めたときは正常にあったはずの感覚が失われていた。








「はい、じゃあヘッドホン外していいよ」

 宮野蓮は手探りだけでヘッドホンを取り、手を空中にさまよわせた。

「耳の調子はどう? 痛みとかある?」

「ないです」

「ちょっとずつだけど、調子は良くなってきたみたいね」

 当たり障りのない言葉を口にした女性は、機材を片づけてさっさと病室を出ていった。

 名門である高校へトップで入学したはいいものの、四月に階段から落ちて意識を失い、花の高校生活は病室からスタートとなった。

 一人部屋で入院をしている蓮は、毎日退屈な日々を送っていた。本当に本当に、何もないのだ。

 カーテンも閉めきっている。さらに目には包帯が巻かれ、何も見えない。包帯を取っても何も見えない。

 階段から落ちて意識が回復したときは、視力と聴力が失われていた。静かな環境で過ごしているおかげか、聴力はほぼ回復したが、目はまったく見えない状態だった。

 光を当てると悪化してしまうため、基本的にカーテンを開けたり許可なく部屋から出ることさえ許されていない。ときどきかけてくれるクラシックは退屈を緩和させてくれる。だが病院の指示か親の趣味か判らないが、蓮にとってあまり興味のないジャンルだった。

 目を瞑りかけたとき、病室のドアが開く音がした。

「蓮君、寝室のカーテン開けてもいい?」

「え、は、はい……どうぞ」

 ベッドの備え付けのカーテンが開けられると、ふわりと薔薇の香りする。

「調子はどう? 様子を見に来たんだけど」

 蓮が唯一楽しみにしている時間だった。生まれて十数年しか生きていないが、これほどまで気持ちが揺さぶられたときはなかった。

 爽やかな声で名前を呼び、まるで友達かのように朗らかに笑う。蓮にとって、初めて出会う人種だった。

 他の先生に敬語で話しているので、おそらく若い。それほど年は離れていないようにも聞こえる。顔は判らないので、声で判断するしかなかった。

「かずと先生」

「はい、かずとですよ。声を聞いて判ってくれたんだ?」

「もちろんです」

 正確には声と鼻だ。彼はいつも薔薇の香りを漂わせている。花には興味はなかったが、育ててみたい気持ちになった。

「耳はほぼ完治みたいだね。でも退院しても、いきなり大きな音のするところへ行ってはだめだよ」

「ライブハウスとかですか?」

「そうだね。映画館も、蓮君はライブハウスに行ったりするの?」

「行ったことないです」

「じゃあどんな音楽が好き?」

「…………げ、」

「げ?」

「ゲーム音楽……とか」

「え、そうなの?」

 かずとは意外だとばかりに、疑問を投げた。

「蓮君のお母さんから、クラシックが好きだって聞いたんだけど」

 毎日決まった時間にかかる音楽は、母親の要望だった。しかも蓮自身の気持ちは置いてけぼりだ。

 蓮は反射的に拳をつくる。

「そっかそっか。蓮君はゲームが好きなんだね」

「好きっていうか、やったことないです。ゲーム実況とかで聞いて、好きになりました」

「俺も子供の頃もよくゲーム音楽聞いてたなあ。懐かしい。家にあったら、持ってきてかけようか」

「いいんですか? クラシックじゃないとだめとか、決まりがあるんだと思ってました」

「そんな決まりはないよ。大きな音を出さなければいいだけで。明日、あったら持ってくるよ」

「ありがとうございます」

 持ってきてくれることも嬉しいが、明日も彼はいるのだと気持ちが高ぶる。

「じゃあ、そろそろ行くね。また明日」

 『また』と行ってくれる彼がとても嬉しくて仕方なかった。

 見えない中で手を振ってみると、彼は笑った気がした。

 彼も振ってくれたら嬉しい、と蓮は胸が苦しくなった。


 毎食のご飯はいつも皿一つだ。ご飯の上におかずが乗っているもので、スプーン一つで食べられる。食べづらく骨を取らなければならない魚などはないため、目の見えない蓮にとっては有り難かった。

 聞こえなかった耳は完治していて、今では扉の音で誰なのか判断できるようになっていた。

 自信満々に入ってくるのは母親、一定のスピードで開けてくるのは医者、ゆっくりと優しい開け方なのがかずと。

 蓮はがっくりと肩を落とした。扉の音が壊れんばかりに開いたからだ。

「蓮、目の調子はどう?」

 開けていいかの一言もなく、カーテンが開いた。

「いつもと変わらない」

 蓮は身体を起こさずに、感情を乗せないまま答える。

「先生から聞いたんだけど、クラシックはあまり好きじゃいの? どうして言わなかったのよ!」

 母は急に声を荒げ、蓮は身体を縮こませる。

 言わなかった、のではない。言ってもどうにもならないからだ。

「いつもいつもそうやって答えようとしない! いっつも自分の殻に閉じこもって、そんなんじゃ社会に出たときどうするのよ!」

 耳がおかしくなっていく。

 罵声は遠退いていき、またしばらく入院だと包帯の中で強くまぶたを閉じた。

 気のせいか、薔薇の香りがした気がした。

「廊下まで声が聞こえましたので、ちょっと早いですが来ちゃいました」

 まぶたの筋肉が緩み、代わりに裏側が熱くなった。かずとの声だ。薔薇の香りは本物だった。

「あらやだ。そんなに声が大きかったかしら?」

 母は笑う。自覚がないとなると厄介で、息子の自分が何を言ってもどうにもならない。

「一体何があったんですか?」

「この子ったら、クラシックが好きじゃないと言うのよ。今まで一度も言ったことがなかったのに」

「そうなんですか」

「だから英語のリスニングのCDを持ってきましたので、こちらをかけて頂きたくて」

「お母さん、ちょっと待ってもらえますか」

 かずとは穏やかに言う。

「蓮君はゲーム音楽が好きなんだよね」

 蓮は答えられなかった。そんなこと口に出せば、かずとまで怒鳴られるに違いない。

 かずとは蓮の手に重ね、もう一度同じ質問をした。

「ぼ、僕は…………」

「うん」

「……ゲーム音楽が、いい」

 ついに口答えをしてしまった。

 目が見えない分、母の顔を想像するしかないが、怖くて怖くてたまらない。

「俺もゲーム音楽が好きで、よく話してたんですよ」

「この子が? ゲーム?」

「蓮君くらいの年齢なら、勉強よりゲームが好きでもおかしくないです」

 珍しくも、かずとの語尾が少々強めだ。

「まずは蓮君が好きなもので、心穏やかに過ごしてもらいましょう。蓮君は学業の疲れでストレスが溜まっています。息抜きは誰でも必要なものですよ」

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