Ⅴ ◆二千文字の幕間
『それ』に気づいたのは、いつだったのか。
マキシムの背に時折、薄い色の光が揺れていることがあったのだ。眼を閉じた時に瞼の裏に視るような、太陽光の残像のような影だ。彼は気づいているのだろうか。
直接マキシムに訊いた。
「ああ」
マキシムは昏い顔で頷いた。そして同じ寮生であるわたしを眺めた。入寮の儀式からひと月も経っていないので同級生を認識していなくともそれは構わないのだが、マキシムの眼はわたしを見ているようで見ていないのが気になった。視力が悪いのだろうか。
冠を手にしている箒乗りの眼が悪いなど、ありえないことだ。しかしそのせいで視力が落ちているということも考えられる。
「失礼。名は」
「コルビューロ・デュ・ルッジェーロ」
マキシムはぼそりと呟いた。
「君が視たものは幽霊だ」
「幽霊」
「諦めてそのうちに消える」
諦めるとは何を。
意外にもマキシムは、そこで少し微笑んだ。悪かった、と云ったのだ。
「入寮してすぐに遠征試合が続いて、寮生の名をまだ全員憶えていない」
「いいんだ。そうだ、優勝おめでとう」
君の名を知らない者は学校中を探してもいないだろう。
列柱回廊の向こうから彼を呼ぶ声がした。
「マキシム」
「コルビューロ。では」
中庭を横切って立ち去る彼の背に、わたしはやはり、名状しがたい何かを目撃した。
弟のパキケファロに、このことを絵入りの手紙にしてやろう。弟のパキケファロはまだ幼いが文字は大人と変わりなく読めるし、ふしぎな話が大好きだから。
「挨拶程度の言葉しか交わしたことがないだと」
親友のベルナルディが咎めるような声をあげた。
「闘技場に行くのは箒競技を観に行くためじゃない。もちろん君の試合はちゃんと観るが」
鏡の前で何度もベルナルディはクラバットを結び直していた。
「あの人に逢えるからだ。もちろんあちらはこちらのことなど眼にも留めてはいないだろうが姿を見るだけでいい。頼むぞマキシム。お近づきになるには君が頼りだ」
ベルナルディが熱を上げているそのヘタイラが、傷だらけになって立っていた。
愕いて駈け寄ると、伸ばした腕の中に魔女は倒れてきた。
「マキシム」
「ルクレツィア」
「助けて、マキシム」
『耀けるルクレツィア』。学生たちの憧れのヘタイラ。闘技場の表彰台で彼女から冠を授けてもらったこともある。舞踏会では踊りを申し込む男たちが列をなし、常に貴人に囲まれているアスパシア。美しいそのまなざしが何かを云いたげに、音楽の向こうからこちらを見ている。
そのヘタイラが裂かれた鳥のようになってひと気のない冬の宮殿の隅に投げ出されていた。その手には折れた魔法杖を持っている。
抗い、最後まで闘ったのだ。力尽きてはいても魔女はまだ魔法杖を強く握りしめていた。
「呼び止められたの」
血の気の失せた指を無理やりほどき魔法杖を取り上げると、がくがくと震えながらルクレツィアは支える腕にしがみ付いてきた。
「二人いたの、交互に……」
「医者を呼ぼう」
「駄目」
魔都の朝焼け。雲があかく燃えていた。列柱の影が筋状に廊下に延び、空には鳥の影。夜明けの冷たい風が吹く。
「来ないで」
悲鳴を上げて顔を覆い、魔女は気を失った。空気が揺れて庭の樹々が一斉に片方に傾く。薄暗い廊下の突き当りから冷気の塊がこちらに向かってやって来る。魔犬のような何か。
魔法杖を揮った。放った光は突然襲い掛かってきた何かに当たり、四散したが、手応えがあった。
轟々と風が吹いている。
腕が伸びてきた。可視化はしていなくとも腕だと分かった。薄影がルクレツィアを攫おうとする。魔法杖でそれも跳ね除けた。
「この人に触れるな」
花嫁を渡せ。
地の底から響くような声だった。
「去れ」
魔法で押し返した。薄影は愕いていた。やがて何かを得心したように嗤った。
そうか、お前はザヴィエン家の生き残りの
壁が砕け、庭の水盤の水が飛び散った。
月満ちるまでその魔女を大切にせよ。
立ち去る声は嗤いながら高らかに告げた。
柱から柱へと渡っていく箒の影。
気を付けることだ。堕胎を試みれば母体も死ぬ。その女の胎で芽吹くものは
恢復した魔女を連れて魔都に戻ったのは一年後だった。空が青かった。ルクレツィアが俯いて声をふるわせた。マキシム、無理よ。
「貴方は全て知っているわ。何があったのかを」
「知っている。君は勇敢な魔女だ」
「こんなことは良くないわ」
「ベルナルディの許に行くんだ、ルクレツィア」
「彼はいい人よ。だからこそ」
「だからこそ、行くんだ」
振り返る女の眼が訴えていた。マキシム。
駄目だ。
こちらも眼で応えた。駄目だ。全てを忘れて君はあの男の許に行くんだ。わたしの親友に君を預ける。
ベルナルディが大きく手を振って魔女の名を呼んでいる。光の中で。
「ルクレツィア!」
素晴らしい勝利へ祝福を。
白い花冠。闘技場の大歓声も君の前では全てが消えた。愛しいディオティマ。
ベルナルディなら君を倖せにしてくれるだろう。
》中篇(下)
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