Ⅲ ◆二千文字の幕間
アルフォンシーナ、俺、遊びに行ってくるよ。
いつものように元気よく、箒を手にしたテオがわたしの前を走って通り過ぎていく。何かテオに頼みたいことがあったような気がするけれど、わたしが想い出す前にテオは箒に乗って勢いよく丘から飛び立ってしまった。
棄子。新しい名を授かるまでは、それが呼び名だ。
庭の隅には果樹園がある。小さな風船を束ねたような葡萄が実り、りんごの樹には春になると真っ白な花が咲く。
わたしはりんごの樹の下に糸車を出して糸を紡ぐ。そこが一番心地よいのだ。家も、眼下に広がる邑も、森も雪冠の山脈も、すべてが見渡せる。
そよぐ草がさざ波の音を立てている。ぶんぶんと紡錘が回り糸が巻き取られていく。糸車は携帯可能な小型のものだ。この糸車で紡いだ糸で、わたしは様々なものを編んできた。
扱い方を教えてくれたのは人間だ。遠い北の貧しい漁村。氷まじりの風が吹く。そこでは家に篭る冬季のあいだ、男も女も誰もが編み物をする。
「これが糸車だ」
人間は魔法使いと魔女を疎んじているものだが、幼い魔女には親切だった。
「糸を紡ぐやり方も覚えておきなさい」
踏み台を踏んではずみ車を回転させて紡錘を廻す。ぶん、ぶん。蜂の音。小さな蝶が貝のような羽根をちらつかせて野菜畠の上を飛んでいる。
そうだ、種だ。
畠の周りにはお花を植えてある。花の種を買ってきてとテオに頼むのを忘れていた。珍しい花の種が入荷していると、街の雑貨店の主人がわたしに教えてくれたのだ。
明日また頼もう。
指先で均一の太さになるように糸を繰りながら、わたしは糸車を繰る。冬になる前にまずはテオの新しい手袋と帽子。いつもすぐに穴を開けてしまうから。それから襟巻も何本か。そして最後に余った糸屑を集めてわたしの手袋を編むのだ。
いつまで続くのか分からないこの暮らしの、それが毎年のこと。
わたしたちは師匠のマキシムに拾われた。テオを路上で見つけるまでは、わたしだけがマキシムの養い子だった。
蒼い蒼い空と海。灰色に少し青をまぜた夜明け。銀河が流れ去ってしまった暁の浜辺で、わたしは海を見ていた。
わたしは誰だったのだろう。棄子は記憶を抜かれてしまうから何も分からない。空腹のあまりにその辺に落ちている海藻をしゃぶって生きていた。
岩場に誰かが降りて来る。わたしのすぐ近くを通り過ぎていく。その人はちらりとわたしを振り返ったが、そのまま行ってしまった。
やがて、空と海の狭間に魔法使いが現れた。箒で力強く空を飛んでいる。さっきの人だとすぐに分かった。若い魔法使いは低く、高く、雲と波の間を疾走していたが、そのうち高く、高く、何処かを目指して昇り始めた。
落ちてしまう。
わたしは彼を眼で追いながら不安になってきた。
あんなに真っ直ぐ昇ったら、空の天井にぶつかって落ちてしまう。
眼玉が灼かれたように想い、わたしは眼を閉じた。朝の太陽が羽根を大きく広げ、海の上の冷たい霧を追い払い、夜の名残りを消し去ったのだ。
海鳥が啼いている。
静寂のなかで朝風が海辺の草を揺らしている。
座っているわたしの影に、真上から新しい影が重なった。わたしは振り仰いだ。あの若い魔法使いが箒に乗って、わたしを見下ろしていた。
「おいで」
彼はそう云った。わたしは彼を見上げていた。箒に乗ったその人を。
「おいで。昨日もその前も此処にいた。君は棄子だ」
わたしには何も応えられない。応えるべきことを何も持っていない。
「こんな処で眠っていては、高波にいつか攫われてしまう」
そんなに上昇しては、いつか天から墜落してしまう。
星の世界にあなたは行きたいのだろうか。わたしと同じように。
彼はわたしに訊いた。箒には乗れるかと。
分からない。乗ったことがあるのかどうかも。彼の箒にわたしは腰をかけてみた。
「君は魔女だ」
彼は前に乗ったわたしの手に手を重ねて、箒の柄に掴まらせた。冷たい手。
「漂着した貝殻を動かし、両手を使わずに星座を浜辺に描いて遊んでいた」
わたしは魔女。
箒は浮いた。地上から少しだけ高く。わたしは下着姿だった。ひざ丈の肌着の裾から素足をぶらつかせていた。わたしを棄てた者は服も沓もぜんぶ持って行ってしまったのだ。
後からマキシムに訊くと、あの衣はすぐに燃やしてしまったそうだ。
出自を辿る唯一の手掛かりだったかもしれない薄い衣。
マキシムは家に居る。午前中は自室に籠っている。そこでマキシムは執事のホルストさんが持ち込んでくる領内の様々な書類仕事を片付けているのだ。
二人乗りの箒。
初めて乗った箒が走り出す。海風に髪がなびく。もっと速く。わたしは悲鳴も上げずにマキシムの箒の上から風の彼方を見詰めていた。光の柱が海に差している。風も星も何処に消えてしまうのだろう。そんなわたしを見てマキシムは、「やはり魔女だ」と云った。
》中篇(下)
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