第三章◆『二人乗り』とは
Ⅲ 前篇(上)
珍しくベルナルディが家に泊まっている。いつもは日帰りだ。彼が帰ろうとしたところを、師匠をはじめ俺とシーナも、全力で引き止めたのだ。彼の今の様子で飛行するなど、とんでもない話だ。
ベルナルディの肩に手をおいて今朝も師匠のマキシムが彼を励ましている。この二人は旧友で学寮の同窓生だ。
新しい知らせは何も届かない。
シーナが薬を煎じた。俺はベルナルディに薬を入れた茶碗を手渡したが、彼が呑まないので、無理やり口許にあてて呑ませた。
心労と睡眠不足が続いているせいでベルナルディの顔色がひどく悪い。師匠は根気よくそんなベルナルディに慰めの言葉をかけていた。
心配はいらない、彼女は魔女だ。
魔女。
人間とも魔法使いとも異なる。魔女はまったく別種の存在だ。魔女は魔女。人間と親しく付き合わず、孤独を好み、古くは行動様式がもっと猫に近かった。
魔女の遺体を見た者がいるならばその者は三日のうちに死ぬ。そんな迷信まで魔法界にはある。在野の魔女は滅多に誰かと狎れ合うこともない。どこか動物的なのだ。
死期が近づくと、死を悟った魔女は静かに姿を消してしまう。したがって多くの魔女には墓がない。あってもその棺の中は空だ。
「まさかとは想うが」
憔悴しているベルナルディ・フォン・ホーエンツォレアンは呻き声を上げて頭を抱えた。云いたいことは分かる。まさかとは想うが。
まさかもう……。
ところで俺はテオ。魔法使いだ。ついこの間、ベルナルディと養子縁組をして名が変わった。テオフラストゥス・フォン・ホーエンツォレアン。兄のベルナルディに合わせて俺も子爵と呼ばれる爵位になった。爵位とは上から順に公侯伯子男爵で、位が上にいくほど人数が少ない。
この五爵だが、下位だからといって一概に地位が低いということもない。現にホーエンツォレアン家は子爵だが、領地も広大で、古い家柄ゆえに尊敬をもって遇され、事実上は伯爵家よりも先になる扱いだし、伯爵家だからといっても領地は手狭であったり、或いはすでに主がおらず跡取りもいないまま、名のみになった家もある。
地位が高いのは公爵家と侯爵家だ。双方ともに皇帝の親族や大貴族がなるものだ。さらに、選帝侯ともなると時代ごとに誰を皇帝にするかを選ぶ職に就いているため、下手したら公爵家よりも扱いが重い。
選帝侯の「侯」は諸侯の意味で侯爵に限定していないのだけど、たまたまマキシムは侯爵なので、選帝侯の侯爵だ。
「嫌だよ。今のままでいいよ」
最初は抵抗していたのだが、師匠も、俺の親友のブラシウスも姉弟子のアルフォンシーナもその他知り合いの魔法使いも、皆が皆、口を揃えて、
「深く考えるようなことじゃない」
と勧めるので、一度くらいそうなってもいいかと、ホーエンツォレアン家に入ることにしたんだ。ベルナルディのことは昔から知っていて嫌いじゃないしさ。
「マキシムの為にそうしてあげなさい」
最後まで迷っていた俺の背中を押したのは、ルクレツィアさんだった。ルクレツィアさんはベルナルディの恋人だ。聖女か女神みたいにきれいな魔女で、はじめて引き合わされた時はあまりに美人なので圧倒されてしまった。
真珠から生まれた月の精。そんな感じの超絶美人のルクレツィアさんは切々と俺を説いた。
「貴族の子弟とお付き合いするには、やはり家名は大切よ。あなたの世界が広がっていくにあたり、誰かと知り合うたびに、養い親のマキシムのことも人の口の端に上るのよ。それよりはベルナルディの弟だと最初から名乗った方がいいのではないこと」
マキシムを護ることになる。それが養子縁組に踏み切る決め手になったのだ。
元々はシーナの嫁入りが先のはずだったのだが、想いがけず俺の交際範囲が上流階級にまで素早く広がってしまった為に、急ぎ、名門貴族ホーエンツォレアン家の養子になることになってしまった。
それには、いろいろと煩雑な手続きがあった。指先から血を取って水晶の器の中に入れたりもした。書類関係はなるべく一度で済むようにベルナルディが司法書士を領地のお屋敷に呼んでおいてくれたが、血を納める儀式だけは直接、魔都に行かなければならなかった。それには立会人としてルクレツィアさんも付き添ってくれた。
「おめでとう」
全てが済んだ後、ルクレツィアさんは俺にお祝いとして新しい外套を贈ってくれた。
「これで子爵ね。あなたが望むならアルフォンシーナとも結婚できるわよ。ホーエンツォレアン家の新子爵さま」
ええっ。
動揺してあかくなっている俺にルクレツィアさんは「うふふ」と優しく微笑んだ。まったく素晴らしい美人なんだ。素敵な人だ。そのルクレツィアさんが行方不明になってしまったのだ。忽然と。
置き手紙も遺さないあたりが魔女らしいといえば魔女らしいのだが、ベルナルディは夜も眠れないほど心配して、「こちらに立ち寄ってはいないか」と俺たちの家にも探しにやって来たというわけだ。養子縁組をしても俺は今までどおり師匠とシーナと辺境の邑で変わりなく暮らしている。
俺はシーナの処に行った。
「今日になってもまだ消息不明だ。どうしよう」
「大丈夫よ」
魔法杖をひょいひょいと操って洗って乾かした敷布を取り込みながら、シーナは請け合った。
「ルクレツィアは魔女だもの。死んでいるのだとしても、誰にも見つからないように深海か雪山のクレバスの中にでも落ちて、きれいに身を片付けているはずよ」
そういうことじゃないんだけど。
そこへ鴉が手紙を持ってやって来た。シーナが悪漢に誘拐されて以降、家の周囲の五箇所にマキシムは硝子の小さな風車を建てた。水晶の羽根を広げた向日葵みたいなそれがある限り、悪心あるものは入って来れないようになっている。
鴉の嘴から受け取った巻紙を開いて中身を読んだ俺はおそるおそるシーナの顔を窺った。
「また一人増えるんだけど。シーナ」
「何人来ようが関係ないわ。ベルナルディには一人で客室を使ってもらうわ。あなたたちは家に入れないから」
シーナは庭の隅を指し示した。畳んで紐をかけた大量の毛布と防水布が積んである。
「あれを森の中に持って行ってね。天幕を張って野宿。そういうの好きでしょ。それで、全員で何人になったの」
「パキケファロが参加することになって全員で十五人」
パキケファロ・デュ・ルッジェーロは俺とブラシウスが魔都でガリレオ滑降をやった時に立会人をやってくれた巻き毛の若者だ。天使を少し年長にしたような風貌で、優等生らしく少しお堅いが、いい奴だ。
「ねえ、シーナ」
「邑人から腰痛の軟膏を頼まれていて、わたし忙しいの。食欲のないベルナルディのためのお粥も作らないと。不眠が続いている彼がぐっすり眠れるように新しい薬草のお茶も用意するわ」
壁に立てかけてある箒を手に取ると、シーナはさっと飛び立って森に行ってしまった。
森の中で野宿か。まあいいよ、最初から自分たちで全てやるつもりだったから。
「師匠、俺ちょっと買い物に行ってくる」
「テオ」
師匠と顔を見合わせて俺を呼び止めたのはベルナルディだ。ベルナルディはお小遣いを入れた財布を俺にくれた。
「足りなければ云いなさい」
「十分だよ。ありがとう」
礼を云ったが、少しだけ胸が痛んだ。今までならそれは師匠か、師匠の執事のホルストさんの役割だったのだ。ホーエンツォレアン家の子になった俺にお小遣いをくれるのは、もう師匠ではなく、俺の兄になったベルナルディなのだ。こうやって少しずつ師匠と距離が開いていくのかもしれない。
箒に乗って街に行った。
「ようテオ、元気か」
「お前たちも来いよ」
やけくそだ、魔法使いが十五人いるなら、人間が百人増えても同じだ。片っ端から友だちに声を掛けてやった。
「行く行く。家に外泊してもいいか訊いてみる」
「やっぱりここは焼肉だろう。焚火で丸焼きをやろうぜ。肉はうちの店から買ってくれよ新子爵」
「魔法使いの貴族の子か。ネロロやお前みたいな魔法使いしか俺たちは知らないけど、やっぱりお高くとまっているのかな」
「大丈夫さ」俺は気楽に云った。
「初見はちょっとだけお行儀がいいけど、俺たちと変わらないよ」
登記上はもう貴族の俺だってこんなもんだよ。
肉の塊をはじめ、瓶入り飲料や缶詰、必要な調理器具なんかは後から届けてもらうことにして、手配を終えた俺は箒に乗って石畳を蹴り、街の屋根の上に上がった。折り重なったみどりの丘陵の向こうには一本の線路が糸のように見えている。ちょうど午後の汽車が街から出立していくところだった。
街の上を旋回している鳩とちょっと遊んでから、家に帰ろうとして向きを変えた。下をみた俺は、木漏れ日の小道を歩いているブラシウスに気が付いた。先刻の汽車で街に着いたのだ。
「ブラシウス」
空から声をかけようとして、俺は口を噤んだ。箒を背負ったブラシウスは、人間の女の子と一緒に笑いながら歩いていたからだ。
ブラシウスはにこやかに田舎娘に話しかけていた。
相変わらずもてるというか、手が早いというか、俺だって女の子は好きだけどブラシウスは俺なんかよりも何倍も気軽に、その辺にいる女の子に「やあ」と声を掛けるのだ。
俺が空から見ているとも知らないで、素朴でもっさりした感じの田舎娘の手から重たい牛乳缶を取り上げて持ってやり、ブラシウスは上機嫌で女の子と並んで歩いていた。ほぼ一方的に話しかけていた。いきなり魔法使いの美形に声をかけられた女の子もびっくりだろう。
分かれ道に差し掛かった。ブラシウスは田舎の女の子に笑顔で手を振った。
「あっちだね。道を教えてくれてありがとう」
人間の田舎娘とさよならしたブラシウスの背中めがけて俺は急降下した。野原の草花が箒の影に沿って傾く。
「テオか」
振り向きもせずにツォレルン家の四男ブラシウスはご機嫌で応えた。女の子と喋っていたせいか、ブラシウスの顔が明るい。
「道を訊いただけだ」
「魔法使いが人間の女の子に手を出すと、人間の男の機嫌が悪くなるから止めてくれよ」
「牛乳缶を返す時に少し彼女の手を握った。そのくらいだよ」
ぬけぬけとブラシウスは云って、長閑な田園風景に眼を向けた。
田舎の女の子がどんな風に今のことを云い触らすか眼に浮かぶようだ。ねえさっきそこで魔法使いの若者に声を掛けられたの。彼ったらわたしの手を握ったのよ。
「他の連中は後から一緒に空中馬車を仕立てて来るそうだ」
「全員は家の中に入れないから、森の中で野宿なんだけど」
「面白そう。いいね」
「人間の俺の友だちも来ることになったんだけど」
「どうぞどうぞ。人間の女の子も来る?」
お前みたいな女の子たらしが居ると分かってるのに誰が呼ぶかっての。
やがて俺の家が見えてきた。庭にはシーナがいた。シーナはブラシウスに危ないところを助けてもらった恩がある。
「ご機嫌ようアルフォンシーナ嬢。お久しぶりです」
ブラシウスの笑顔が全開になった。シーナに逢えた歓びが全身から溢れている。りんごの樹の下にいるシーナに向かってブラシウスは駈け寄った。
「退院してからの、その後のおかげんは如何ですか」
「お蔭さまで。その節はありがとうございました」
愛想なしの魔女はこれで礼儀は果たしたとばかりに、ブラシウスがシーナの手の甲に接吻しようとする前に、「ごゆっくり」と云い捨てて身を翻して家に入ってしまった。
ブラシウスはくすくす笑った。
「彼女、実に正しく魔女って感じだね」
「云っとくけど、あれは照れてるわけじゃないから。普段どおりだから」
「分かってる」
俺たちも家に入った。
「ブラシウス。ツォレルン家の」
「ホーエンツォレアン子爵。貴方もこちらにお越しでしたか」
顔を出したベルナルディにブラシウスは挨拶をした。ツォレルン家とホーエンツォレアン家は源流が同じなのだ。紋章もよく似てる。遠縁のようなものなのだ。
「テオの兄君になられたと聴きました。わたしにとっても喜ばしいことです」
「よろしくブラシウス」
「貴方がお探しの女人について何か新しい情報が入ると良いのですが。ご心配ですね」
「魔女のことだから」
ベルナルディは力なく相槌を打った。
「独りでも何とかやってくれているだろうが。無事であることだけでも知りたいものだ」
「あんなに弱り切ったベルナルディ氏の様子は初めて見たよ」
ブラシウスが俺の耳に囁いた。
「長いあいだ懇意にしていた恋人だからな。身をもがれるような想いなんだろう。実に辛そうだ」
しかしそんなブラシウスも、俺の師匠を眼にすると顔つきを変えた。箒を握る手に力が入るのが後ろから見ていても分かった。ブラシウスの身体が強張っている。
『冠』ライダーであってもそうでなくとも、箒乗りの飛ばし屋ならば誰でも、若年で七冠を制覇した男の前では平静ではいられない。しかもその天才はその後、突然、競技会から姿を消した。星碑に刻まれたその名には永遠に追いつけないのだ。
師匠から先に言葉をかけた。
「ブラシウス。あらためて礼を云わなければ。先日はアルフォンシーナを救ってくれてありがとう」
「いいえ」
ブラシウスの声には緊張があった。
「テオと貴方のお役に立ててよかったです」
師匠を前にしたブラシウスの目線と頭は自然に垂れていた。
「選定侯にして七剣聖。こうして親しくまたお逢いできて、わたしのほうこそ光栄です」
》前篇(下)
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