第2章 狩って狩られて弱肉強食
第18話 コーヒーのひととき
淡い暖色の照明。音量控えめのスローなジャズ。どことなくレトロ感の漂うテーブルで、牙人は目を閉じながらコーヒーカップを口に運んだ。
心落ち着く香ばしい香りが鼻から抜け、牙人は満足げに息を吐いた。
ここは、おなじみの中村万事屋事務所——
喫茶セロトニン。
少し変わった名前とは裏腹に、正統派の落ち着いた喫茶店である。
マスターは、シックな色合いのエプロンを着た壮年の男性。白の混じった長めの髪を後ろで結んでいて、銀縁の丸眼鏡が柔和な雰囲気を醸し出している。
牙人は特段コーヒーの味にうるさいわけではないが、それでもここのコーヒーはおいしいと思う。比べるのも失礼だが、インスタントなど目じゃない。
しかし、この昼時にも客は牙人を含め数人ほど。知る人ぞ知る店というやつなのかもしれない。
牙人がコーヒーカップを置いたのとほぼ同時、ベルの透明な音が、ちりん、と来店を知らせた。
「いらっしゃいませ」
マスターの深みのある声が、新しく来た客を出迎える。
「あれ、狼谷じゃないか」
「あー! ほんとだー!」
聞き覚えのある声が耳に飛び込み、牙人は顔を上げた。
木目のきれいなドアの前には、思った通り、栞と千春の姿があった。
そんな二人に、カウンターからマスターが声をかける。
「おや、お知り合いですか」
「ああ、事務所の新入りです。マスターにはまだ紹介していなかったな」
「それはそれは」
千春は「しゅばっ」とか効果音を口にしながら、当たり前のように牙人の向かいの椅子に座った。栞はウルフカットの襟足を手で直しながら、千春の左隣に腰を下ろす。
「人狼くんもお昼?」
「今食い終わったところだよ。前からちょっと気になってはいたんが、バイト終わって暇だし来てみるかと思ってな」
「いいねいいね! マスターのコーヒーと料理おいしいでしょ!」
「ああ、うまいな。これから常連になることを大変前向きに検討したいくらいだ」
牙人の仰々しい言い回しにけらけらと笑って、千春は自分のことのように「でしょー!」と大きな胸を張った。
「せっかくだし、わたしたちが食べ終わるまで一緒にどうよお兄さん」
「どうせ暇だしいいぞ」
「やったね! 百人力!」
「何がだよ」
確かに、牙人の変身時の馬力はなかなかのものだと自負しているが……。そういう話でもないだろう。
二人の注文の最中、壁のカレンダーが目に入る。マスターが戻っていったところで、牙人は口を開いた。
「二人は帰省したりしないのか?」
今日は八月十三日。世間ではお盆に突入し、帰省ラッシュの時期だろう。
「帰らないよー」
「私もそのつもりだな。年末年始に顔を出せばいいと言ってくれている」
「なるほどなあ」
うなずきながら、コーヒーを口に含む。うまい。
「そういう人狼くんは?」
「俺も今年はやめとくかな」
「どうして?」
「どうして……って、まあ、毎年行かなくてもな。……それに、“局”としてもその方が都合いいだろ。監視対象の身としては、勝手な行動は慎むべきかと思ってな」
「うむ、良い心がけだ。苦しゅうない」
腕を組みながら謎に偉そうな口調で言った千春に、牙人は「ははぁ、ありがとうございます」とおどけて返しておいた。
ぶっちゃけた話、去年の盆明けに職場が滅びていたということもあってか、あまり帰る気が起きないというのが本当のところだ。栞ではないが、年末には顔を見せるようにしようと思う。
「もう八月も半ばか。……そういえば、
ふと思い出したように、栞がそう切り出した。
——三嶋大社。
その名の通り、三島市にある大きな神社である。というか、「三島」という地名の由来が、この三嶋大社だと言われている。かの源頼朝との関係があったり、建造物のいくつかは国の重要文化財に指定されていたりと、なかなかに歴史のあるスポットだ。
この市に住処を持つ者として、牙人も何度か足を運んだことはある。
「夏祭り!」
千春が、横に座る栞にぐっと体を近づける。
「栞、十五日行くー?」
「ん、いいよ。一緒に回ろうか」
「いえーい!」
千春と栞は身を寄せて微笑み合っている。これが、「てえてえ」か。美人二人、なんとも絵になることだ。
「人狼くんも来る?」
「え」
……などと思っていたら、こちらにも飛んできた。不意打ちに少し固まる。
「……逆に、俺が行っていいのか?」
「うら若き乙女の浴衣姿を見たくはないのか!」
「喜んで!」
居酒屋の店員よろしく、流れるように元気よく即答した牙人に、千春は満足げにうなずき、栞は呆れたように苦笑した。
ちょうどその日はシフトを入れていないか、あっても午前中だけだ。
夏祭りなど、何年ぶりだろうか。
「わたしたちの浴衣を楽しみにしているがいいさ!」
「……ん?
「そうだよ?」
「いや……それはさすがに……」
きょとんとした千春に、栞は声を詰まらせている。
「わ、私は浴衣を持っていないぞ」
「大丈夫! わたしが何着か持ってるから、好きなの着な!」
「うっ……」
苦し紛れの栞の言い訳は、千春の無邪気な笑顔のもとに、軽く消し飛ばされてしまった。
というか、浴衣を何着も持っているってなんだ。実は、結構お金持ちだったりするのだろうか。
「いいですねぇ。大社のお祭りですか」
と、そこへ、マスターがトレーを手にやってきた。「お待たせしました」と言いながら、テーブルに料理を静かに置く。
「いえね、実は私も
「ほえー、喫茶店が祭りで出店なんて珍しいね」
「ははは、確かにそうですね。珍しいついでに、ぜひとも足をお運びください」
あごひげを撫でながら笑うマスターに、千春が決め顔で親指を立てる。マスターも立て返す。
見かけとしゃべり方によらず、結構ノリのいいおっちゃんだ。
そんな彼が、テーブルに伝票を置いたときだった。
「……おや、失礼。電話ですね」
『リリリ』と電子音が鳴り、マスターが早歩きでカウンターの奥へと向かった。
「……で、寺崎は浴衣着るのか?」
「う……まあ、考えておくよ」
栞は目を逸らしながら、ちびちびとお冷をすすった。
——と。
「はい……はい……え!?」
いきなり大きくなったマスターの声に、牙人たちは何事かと顔を見合わせる。
「ああ……それは仕方ありませんね。……いえいえ、お気になさらず。では」
電話の受話器を静かに戻したマスターは、そのまま少し顎に手を当てて何かを考えていた。十数秒の後、気まずそうな顔をしたマスターが、三人の座る卓に歩いてくる。
「お騒がせしてすみません」
「……何かあったんですか?」
「それが……」
牙人の遠慮がちな問いかけに、マスターが、はは、と乾いた笑みを浮かべた。
「先ほどお話しした夏祭りの出店、当日手伝ってくれる予定だった方々が、三人全員、仲良く夏風邪をひいてしまったらしく……」
「まじか……」
「まじです……」
栞も「うわ……」と声を漏らしている。これには、千春も苦笑いだ。
そんな不幸なことがあるだろうか。よりによって全員。……いや、牙人の職場滅亡もなかなかの不幸度だが。
「つきましては、ものは相談なのですが……」
そこで、マスターは小さく咳ばらいをすると。
「——八月十五日の私の出店を、万事屋さんに手伝っていただきたいのです」
「んー……依頼として受けるなら別にいいと思うけど、普通にバイト雇うより割高だよ?」
「ああ、お金のことなら大丈夫ですよ。そもそもこの店は、趣味のようなものですし。それに、明後日に向けて今から新しく人を募集するのも、骨が折れます」
「よし! それなら乗った! 隊長にはわたしから話しとくよ~」
「そう言っていただけると助かります」
なんとなく気になって、牙人が口を開く。
「ところで、出店って何やるんですか?」
「焼きそばです」
「へえ、焼きそば……焼きそば!?」
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