孤独な虎とAIの森
モーター戦車
孤独な虎とAIの森
一つの小さな動物園で、大きな虎、ミハイルが一匹孤独に暮らしていました。
ミハイルはかつて、広大な森の中で自由に生きていました。森の深い静寂、暗闇の中で煌々と光る星々、そして、彼の心を揺さぶる野生の呼び声。それらすべてが彼の存在を満たし、彼に生きる意志を与えていたのです。
しかし、彼は若くして森林破壊の影響で家族を失い、自然の中で生きることができなくなってしまいました。
森から獲物がいなくなり、木も草も枯れ、川は乾き、滅びゆく森で餓えて、倒れて、あとは死ぬのを待つだけという時、彼を絶滅から保護しようとした人間の手によって保護されました。
しかしそれは彼にとっては、それまでの自由な生活を奪われることを意味していました。四方を囲む鉄格子からは、広大な森の風景はもちろん、星々の輝きすらも見えなくなってしまったのですから。
彼はその鉄格子の向こうに見える、広場を行き交う見物人たちを眺め、時折、彼らの笑顔や歓声に対して、深い唸り声を上げていました。
しかし、その声は、人々を威嚇して恐怖に陥れるためではなく、彼自身の孤独と絶望を訴えるためのものでした。
ミハイルの目に映る景色はいつも同じで、彼の耳に聞こえる声もいつも同じでした。彼の日々は一日一日と重なり、それぞれの日々が区別できないほど同じに感じられてきました。
それは彼の生活が単調であり、彼自身が刺激と新鮮さを求めている証拠にほかなりません。
季節が変わっても、ミハイルの生活は変わりませんでした。
彼は鉄格子のケージの中で過ごし、日が昇り、日が沈むのをただぼんやりと見つめていました。時折、彼は記憶の中にある、ここではない遠くの森を思い出し、その自由で豊かな生活を懐かしみ、心からその日々に戻りたいと願っていました。
もちろん彼はその森が滅びて、糧となる獲物の一匹もいなくなってしまったこと、木々も草も枯れてしまったことも覚えていましたから、それが敵わない望みであることも理解していましたが。
つまるところ、彼は絶望していたのです。
そんな彼のために、彼を慰めようという職員たちの願いから、AIの虎、アレクセイが開発されました。
AIで動く機械の虎、アレクセイがミハイルのケージに姿をあらわした時、彼は深い興味と期待を抱きました。
(この新しい仲間は、おれが抱える孤独を理解し、おれを慰めることができるのだろうか。それとも、このアレクセイというやつは、ただの虎の姿をした機械にすぎず、おれの心を理解することはできないのだろうか)
「こんなに小さいケージに閉じ込められて、おまえは寂しくないのか?」と、ミハイルは深い唸り声でアレクセイに問いました。
「私はAIだから、寂しさという感情はありません。」
アレクセイはソフトに答えました。
「ただ、おまえが寂しいと感じているのなら、何か話すことで気を紛らわせられるかもしれませんね。」
ミハイルは大きな頭を上げて、瞬きもせずアレクセイを見つめました。
「それは、どういう意味だ?」
「私はあなたのためのストーリーテラーになります。
あなたが故郷の森で自由に走り回っていた時のこと、あなたが最初に獲物を捕らえた時のこと、あなたが初めて出会った他の虎との出会い…そんな物語をお話しします」
「だが、おまえはそれらを知るはずがない。おまえはAIだ。森を知らない、人間が作った機械だ」
「それは正しいです。しかし、私はあなたの記憶や体験を直接知ることはできませんが、大量のデータと模範例からそれらの状況を想像し、物語を作り出すことはできます」
ミハイルは長いこと静かに考えてから、とうとう重々しく頷きました。
「なるほど、それなら話してみろ」
そして、アレクセイの声が静かな夜に響き始めました。
アレクセイが語った森の物語は、ミハイルがかつて経験した美しい世界を、精緻な詳細まで再現していました。
アレクセイは、森の生態系の様子、動物たちの行動、風の音、ささやくような木々の音、さらには夜空を覆う星々の輝きまでをも詳細に描き出しました。
「かつて、深い森の中で、一頭の若い虎が暮らしていた」
アレクセイはそう始めました。
「その虎は、その強さと敏捷さで森の中で誇らしく生きていた。彼は日々、獲物を追いかけ、川で水を飲み、夜は樹上で星を見上げて過ごした」
「森の中はいつも生命で溢れていた。
色とりどりの鳥たちが空を飛び、小さな動物たちは草の中で遊んでいた。
時折、虎は大きな鹿を見つけ、追い詰めるために全速力で駆け抜けた。その度に、彼は森の中の生命のサイクルを感じ、自身の存在を実感した。
しかし、最も美しいのは、夜になると訪れる静寂だった。
星々が空に煌々と輝き、月の光が森を幽玄な雰囲気で包み込んだ。
その静寂の中で、虎は自身の心を静め、森の声を聴いた。
彼は自然の調和と、自身がその一部であることを感じ、深い満足感を覚えた」
アレクセイの物語は、ミハイルの心に深く響きました。
ミハイルは自身の過去を思い出し、アレクセイが描く森の世界に心から感動しました。しかし、それと同時に、ミハイルは深い寂しさを覚えました。
それは、彼がかつて自由に生きていた森を失った痛みと、再びその日々に戻ることはできないという現実の寂しさだったのです。
そして、彼はアレクセイに質問を投げかけました。
「おまえは、実は本当の森を知っているのか?」
「直接経験するという意味では、私はそれを知りえません」
アレクセイは正直に答えました。
「しかし、他の虎が経験した森の記述から、それを想像することができます。風が木々を揺らし、緑の葉が光を浴びてきらめく様子、土の匂い、小鳥のさえずり……」
ミハイルは一瞬目を閉じ、その情景を想像しました。しかし、それはただの想像にすぎません。
「だが、おまえはそれを感じることはできない。風の触感、木々の香り、さえずる鳥の歌声…」
アレクセイは少しの間黙って考えた後で、ソフトな声で答えました。
「その通りです、ミハイル。私はそれらを直接感じることはできません。しかし、それが私があなたと同じように生きるために必要なことだとは限りません。
私たちは異なる存在で、異なる経験と感情を持っています。それでも、私はあなたの心を慰めることができると信じています。」
ミハイルはしばらく黙って考えた後、深くうなずきました。
「おまえの言う通りだ、アレクセイ。私たちは違う。しかし、それでもおまえの話は私を慰める。だから、もっと話してくれ。もっと森の話を…」
そして、アレクセイは再び話し始めました。森の鮮やかな情景を描き出し、静かな夜に虎の物語を紡ぎ続けました。それは虚構の物語かもしれない。しかし、その物語は少なくとも一匹の虎の心を慰め、孤独な夜を少しだけ温かくしました。
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日々が流れ、ミハイルとアレクセイの交流は深まっていきました。しかし、時間は平等に全てに影響を与えます。AIの虎、アレクセイも例外ではありませんでした。
「アレクセイ、おまえ、声がおかしいぞ」と、ある日、ミハイルは彼の声の変化に気付きました。アレクセイの声はごく僅かにですが遅く、そしてひずんだものとなっていました。
「私のシステムは年月とともに劣化しています。私は修理やアップグレードが必要な状態になっています」
アレクセイはうなずきました。
「私の電子頭脳は旧式化しており、新しいバージョンの電子頭脳には私のAIをインストールすることは難しいです。
現代のテクノロジーは日進月歩で、私が作られた当初の技術はすでに古いものとなっています。新しいバージョンの頭脳には、私が持つデータを処理する能力がないかもしれませんね」
ミハイルは深く唸りましたが、黙って聞いていました。
「そして、私のAIのバージョンが上がっており、私のデータは新しいAIに引き継がれます
。しかし、新しいAIは私とは違う学習内容を持っているため、私のデータがあっても、私自身とは異なる存在になるでしょう。
私の記憶や経験、そしてあなたと過ごした時間は、新しいAIにとってはただの情報となり、それを理解する能力は限定的です」
ミハイルの眼がアレクセイを詳しく観察していました。
「だが、それはおまえが死ぬということではないのだろう?」
「それは定義によるのかもしれません、ミハイル。
私は生命のように物理的な死を経験することはありません。
しかし、私が今の私であるための要素が変わってしまうことで、ある意味で、私としての存在が消えてしまうと言えるかもしれません」
さらに、アレクセイは自身の機体の問題にも言及しました。
「私の機体もまた、時間とともに劣化します。修理や部品の交換が必要になるでしょう。しかし、そういった部品が製造されなくなる日が来るかもしれません。
また、私を維持するための資金やリソースも限られています」
ミハイルは、アレクセイが言う通り、自身もまた時間と共に老いていくことを理解していました。それは、生命ある者の宿命であり、それは人間であれ、虎であれ、そしてAIであれ、共通するものでした。
そして、その事実に彼は再び深く頷きました。
「なるほど、そうか。おまえもまた、永遠ではないのだな」
そして、日々が過ぎ、アレクセイのシステムは更に劣化しました。
彼の話す声は途切れがちになり、物語は途中で止まることが多くなりました。
しかし、彼は最後までミハイルの側にいて、彼を慰め続けました。
ある日、アレクセイが静かに言いました。
「私のシステムが限界に達しています。もう長くは持ちません。」
ミハイルは深く息を吸い込みました。
「おまえが先に行くとはな。しかし、それもまた、命の一部だ。
おまえの物語は、私が引き継ぐ。」
そして、その日、アレクセイは静かに機能を停止しました。
アレクセイが永遠に去った後、ミハイルのケージは再び静寂に包まれました。
しかし、彼の物語はミハイルの中に生き続け、虎の記憶の中に新たな物語として刻まれました。今度はそれが彼にとって孤独な静寂ではなく、彼自身の心と対話するための静寂となりました。アレクセイがいなくなったことで、彼は自分自身と向き合う時間が増え、自分の感情と向き合うことを学びました。
そんなある日、新たなAIが動物園にやってきました。それはアレクセイとは違い、鳥の姿をしたAIドローンで、名前はイヴァンでした。
イヴァンはアレクセイとは違う方法でミハイルと交流を試み、彼に歌うように話しかけることで、彼の孤独感を軽減しようとしました。その小さな鳥の姿のAIは、毎日ミハイルのケージの隅に立ち、彼と対話を繰り広げました。
ミハイルは最初は反応を示さなかったものの、イヴァンの持つ新しい視点と知識に心を開き始めました。
「ミハイル、今日の天気はどうだった? 明日は雨が降るかもしれないよ」
「そうか、雨か。それは久しぶりだな。」
イヴァンの言葉を聞いた彼は、ケージの向こうに見える広い空を見上げ、新たな会話の始まりを迎えました。
やがて、ミハイルは他の動物たちとの交流を深めることも覚えました。
彼の隣のケージにはシマウマのパヴェルがいて、彼もまたミハイルの友達となりました。シマウマと虎では鳴き声がちがうので、話などできないのですが、イヴァンが巧く声真似して、二匹の言葉を通訳したのです。
「ミハイル、あなたは強そうだね。」
パヴェルが声を上げました。
「あなたが私たちを守ってくれるなら、怖いことなんて何もなかったろうなあ」
ミハイルは唸りながら笑いました。
「そうだな、パヴェル。私たち虎は強い。でも、それは力を誇示するためではない。それは生き抜くためだ。怖さがなくなるわけではない。たとえば──」
他の動物たちとの交流はミハイルにとって新しい経験でした。
それは孤独だった彼がこれまで経験したことのない、新たな世界への扉を開いたのです。そして彼はその新たな世界を受け入れ、新しい友達との生活を楽しみ始めました。
その動物園は依然として彼にとっての牢獄であることは変わりませんでした。けれど、今はともに語る仲間がたくさんいて、語るのを助けてくれるAIも増えてきました。彼の世話をする職員との対話の試みも、イヴァンによって始められています。
あるいはもう、ここは檻などではなく、おれにとっての新しい森なのかもしれない、とミハイルは思うことがあります。そんなときは決まって、自分によく似た、けれど機械の存在であり、彼より先に老いて去ってしまった、AIの虎のアレクセイを思い出すのです。仲間は増えたにも関わらず、なぜか寂しさを覚えるのです。
──お前ともう一度話せたらな、アレクセイ。
もう居なくなった存在の事をおもいつつ、前よりも孤独でなく、むしろにぎやかになってきた、檻というよりもいわば森となったその動物園で、彼は脳裏でひとりごちるのでした。
この動物園が自分にとっての新たな森となったと感じている今でも、彼は、失った森を懐かしんでいます。
彼が生まれ育ち、今は失われた故郷の森と。
言葉で再現されただけの、けれどとても美しく感じられた、彼を孤独から守ってくれ、やはり今は喪われてしまった、あの言葉の木々からなる、アレクセイという名のAIの森とを。
どれほど今が温かくとも、彼は何度でも、それらの森を思い出すのです。
そう、何度でも。
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