第3章 皇女と若き狼

第11話 声

 帝都を出発してからおよそ一か月。リリーはついにウルド砂漠へ到着した。親衛隊や近侍隊が見守るなか、儀装馬車から白い砂の大地へ降り立った。目の前には青く澄みきった大空と眩しいほどに白く輝く砂漠が広がっている。


──まさに、世界の果てね。


 あれほど熱烈だった民衆の歓声もいつの間にかやんでいる。帝国軍は整然と隊列を組み、静かにリリーを見守っていた。馬のいななきすら聞こえてこない。


 辺りは痛いほどの静寂に支配されている。帝都グランゲートでは想像もできなかった音のない世界。それがウルド砂漠だった。


──ここからわたしの戦いが始まる。


 リリーは新世界への第一歩を踏みしめる。軍靴から伝わってくる砂の感触はとても不安定で、今のリリーを暗示しているようだった。進むにつれてリリーを見守る帝国軍旗が遠ざかってゆく。かわりに……。


 リリーの視線の先には見たこともない大軍が展開していた。歩兵や騎兵だけでなく、砂漠を帆走はんそうする砂船すなぶねまで用意されている。巨大な軍旗や帆には『狼』の紋章が縫いこまれていた。


 軍勢はリリーの婚約者であるレイン・ウォルフ・キースリングが集めたという。いまだかつて、これほどの大軍で迎えられた皇女はいないだろう。リリーの自尊心はくすぐられた。


──ロイドの言う通り、これならレインを褒めてもいいでしょう。


 傲慢ともいえる気持ちを抱きながらリリーは歩いた。すると、前方から一騎の騎兵が進んでくる。馬に乗っているのは儀礼用の軽装甲冑をまとった男だった。


──きっと、あれがレイン。


 リリーは心がざわざわと波立つのを感じた。今からレインに気に入られ、「婚礼を挙げる」と決意させなければならない……そう考えると緊張感よりも高揚感の方が勝ってくる。


──ふふふ。わたしはこの状況を楽しんでいるのね……。


 偽装とはいえこれから恋愛をする。その事実にリリーの心と身体は臨戦態勢をとっていた。リリーにとっては表情も、身体も、仕草でさえもが武器だった。リリーははやる心を抑えるように空を仰いだ。瞳には、同じように青い空が映る。


──この空も、いずれわたしのもの。いいえ、帝国中の空がわたしのものになるの。


 そう考えるだけで皇女としての覇気と気概きがいが漲ってくるようだった。リリーは太陽の陽射しに目を細めながら再び歩き始めた。しかし……。


 目の前では少し滑稽な光景が繰り広げられていた。馬から降りようとしたレインがあぶみを踏み外し、落馬しそうになっている。リリーは思わず顔をしかめた。


──大勢の帝国軍がわたしたちを見ているのに……落ち着きなさいよ。


 リリーは呆れてため息をついた。こんなところで慌てるとは、レイン・ウォルフ・キースリングも大した男ではない。そんなことを考えながら進んでゆくと、レインもこちらへ向かって歩いてくる。ただ……。


 レインは顔を伏せるようにして歩き、足取りも自信なさげだった。こちらまで緊張が伝わってくるようで、『砂漠の狼王ウルデンガルム』や勇壮なサリーシャ将軍の息子には見えない。


──期待していたけれど、本当に拍子抜けね。


 リリーの落胆をよそに、レインは帯剣を抜いてその場にひざまずいた。抜身ぬきみの剣を両手でささげるように持ち、頭を下げてリリーの到着を待っている。


──どうせ恋愛をするなら、マシな男がよかったわ……。


 リリーはレインの前までくると、跪くレインを静かに見下ろした。整えられた黒髪、日に焼けた腕、脈打つ首筋の血管、そして太陽に煌めくつるぎ……それらを見ていたリリーは不思議な感情が湧いてくるのを感じた。


 いつの間にか、リリーはレインの所作を美しいと感じていた。それは、レインが帝国における最高の儀礼をとっているからではない。リリーにはレインがつるぎと一緒に心もささげているように見えていた。思わず見とれていると、レインが声を張り上げる。


「リリー殿下におかれましては遠路のご来訪、祝着しゅうちゃく至極しごくに存じます。わたしは神聖グランヒルド帝国よりウルド国を預かる、藩王ロイド・ウォルフ・キースリングの息子、レイン・ウォルフ・キースリングでございます。リリー殿下をお迎えに上がりました!!」


 レインの声がウルド砂漠を吹き抜ける風に乗ってリリーの耳元へ届く。砂漠の熱風を忘れさせるような涼やかな声だった。今まで聞いたことのない声色に、リリーの心はざわざわと波立ってゆく。


『涼やかな声のひと


 それが、リリーにとってレインの第一印象だった。

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