第1菌 竜痘少女
◎1
死の雪は人類を冒していた。空からは菌の胞子が降り、一面雪化粧に見えるのは菌床である。菌糸は土に根を張りめぐらせ、花のように力強く立ち上がった分生子は胞子を飛ばして風に乗せる。
空は厚い雲に覆われて陽は射さない。血も凍るような永遠の冬。大気は汚染され、息をすれば肺に白い影が差して腐るほどである。
世は菌に支配された時代。
ここディカリア王国の安全地帯といえば丘の上の無菌城のみだった。その城外はドーム型のシールドに覆われており、そのドームをたくさんの除菌作業員が命綱もなしに足場に乗り火炎放射器で殺菌すると黒い燃えかすをトンボでこそぎ落としていた。灰色の作業着に身を包んだ彼らは一様に白いガスマスクを着用している。
一転、無菌城を下るとコロニースラムの
通称モルド。
ここはこの世の掃き溜め。建ぺい率の概念を打ち壊すほど無数の団地がひしめき合っている。まるで蜂の巣だ。
そんな団地街を歩く者たちがいた。1匹は毛むくじゃらで四足歩行の獣。顔も見えないほどに枝毛と毛玉に埋もれた化け物は全身がカラフルなカビまみれだった。汚いを通り越してもはや芸術である。しかし本当の問題は黒い外套を羽織ったもうひとりの青年のほうだ。
驚くべきことにその青年はマスクを着けていなかった。
端的に言って自殺行為である。だが青年はとくに焦った様子もなく提灯片手に歩みを進めて、ギュゥッギュゥッと積もった雪が踏み固められる音があたりに響く。
すると、そこへ数人のむくつけき男たちが突如として現れ、青年の行く手を阻んだ。もちろんガスマスク(無骨)を着用しており、その中でもひときわ大柄な親分がくぐもった声で言い放つ。
「今日こそ俺たちゴリオ団の一味になってもらおう」
「ったく、ゴリラ。おまえも懲りねェ奴だな」
青年はけだるげに答えた。
「俺様の名前はゴ・リ・オだ!」
「たいして変わんねェだろ」
「変わるわい!」
ゴリオは鼻息荒く怒鳴った。
「それだけおまえがほしいんだ、キンタロウ」
「うっせェわ」
キンタロウと呼ばれた青年はそう吐き捨てると四足歩行の毛玉に尋ねる。
「さてどうすっか? なあカビル?」
しかし当の尋ねられた相方は、
「ニャオーン」
と、鳴くのみだった。
人間同士のいざこざには興味なさそうである。
ゴリオ団の手下たちはロープを構え、ゴリオの手にはモーニングスターが握られていた。ちなみにモーニングスターとはたくさんの突起のついた鉄球に鎖を繋いだ武器のことである。
ゴリオがモーニングスターをぶんぶんとふり回すとあたりの粉雪が舞い上がった。
「おらおらどうした!」
ゴリオが威嚇の声を上げると超局所的な吹雪が猛威を振るう。
ホワイトアウトのなか、キンタロウとカビルは固まることしかできない。
「いくぞおらぁ!」
プロレスラーのように大仰な掛け声をかけてからゴリオはモーニングスターの鉄球をキンタロウに向かって投擲した。するとぐるんぐるんと遠心力によって鎖がキンタロウとカビルに巻き付いていく。
「畜生、離しやがれェ!」
「こら動くな! 怪我すっぞ!」
意外にやさしく言うゴリオにキンタロウは必死に抵抗を試みるが無駄に終わる。
「てめぇら、キンタロウをロープでふん縛っちまいやがれ!」
「「押忍、ゴリオ団長!」」
返事をしてから平団員たちがキンタロウに近づいてきた、まさにそのとき――
「不潔です」
と、消え入りそうな声が聞こえたかと思えば、雪に紛れてとある白い人物が立っていた。
ファーのついた厚手の白いコートの下にこれまた白い白衣を着込み、ロングブーツが雪を踏みしめる。ゴム手袋を嵌めた手には白銀のアタッシュケースを持っていた。清潔な衣服にはシミひとつない。フードを目深に被り顔全体を覆う白いガスマスクで素顔は知れないが高身長の人物だ。そしてそのファッションの中でも一際目を引くのは首から提げた歯車のような群青のアクセサリーであろう。
「な、なんだ、おまえ……! いつの間に――」
平団員がそう声を上げた瞬間、白い男はアタッシュケースでその平団員をぶん殴ってから一瞬にして失神させると現場に一気に緊張が走った。
「きさま何者だ?」
別の平団員が問うが、白い人物は答えずアタッシュケースをその場に落とすとオペ開始前の医者のように手の甲を相手側に向けた。
「殺菌開始」
白い人物はゴム手袋の拳をギュムギュムッと握り込むと、みずみずしい透明な液体が拳を包み込んだ。
「濃度70%殺菌――!」
そしてダイナミックに構えたかと思うと平団員に向けて突き放つ。
「《アルコールパンチ》!」
「あこちっ!」
平団員のひとりは湿った拳を顔面にもろに喰らって体ごと意識を飛ばしてしまった。それはまさしく一瞬の出来事だった。飛び散った透明な液体が道端の雪に降りかかるとジュジューッと解けて、あたりには雪を発酵させたかのようなニオイが醸し出された。
「聞いたことがある」
その惨状を見て思い出したようにゴリオは語り出す。
「近頃モルドを荒らし回っている男がいると……。そしてそいつは自らがボコったヤツの治療まで施していく変わり者――通称アルコールマン」
アルコールマンと呼ばれた人物が再度白い拳を構えた瞬間ゴリオ団の平団員たちは怯む。
「ガハハ! こりゃあ分が悪い」
ゴリオは大笑いしてから倒れた部下二人を肩に担ぐと回れ右をした。
「野郎ども、ずらかるぞ!」
「「押忍、団長!」」
意外にもゴリオは相手との実力差がわかればすんなり退くことのできる性分だった。
「それからアルコールマン、おぼえていやがれ!」
「…………」
白い男は拍子抜けしたように構えを解いた。
「もちろんキンタロウもな! また勧誘してやるぜぁ!」
「勘弁しろ」
口を尖らせるキンタロウをよそにゴリオはモーニングスターを思いっきり引き寄せると体に巻かれた鎖が回収されてキンタロウとカビルは独楽のようにあーれーと回ってしまう。それから
「ゴリゴリー!」と、ゴリオ団はゴミのお山へ帰っていった。
「目が回って酔っちまった。うえー気持ちわるぅ」
カビルよろしく四足歩行になって処女雪の上に嘔吐してしまうキンタロウ。
「昼間食ったもんぜんぶ吐いちまったじゃねえか。もったいねえ」
するとそんなグロッキーなキンタロウにゴム手袋の手が差し伸べられた。
「きみ、どうしてマスクしてないんですか? 死にますよ?」
白くて細長い中指の先から透明な液体がポタッジューッ、ポタッジューッと滴り落ちていた。
「汚い空気なんて吸いたくないでしょう?」
「うるせェな」
「それとも、きみはもしかして……」
「うるせェな。あんたには関係ねェだろ」
そう言ってキンタロウが白い手を振り払った――次の瞬間、バタリ! と、アルコールマンは雪の上に倒れ伏してしまった。雪のクッションで衝撃が吸収されたのは幸いだった。などと思っている場合ではない。
「お、おい! しっかりしろ!」
アルコールマンは微動だにしない。シュコーシュコーと息はある様子。カビルはアルコールのニオイを嗅いで鼻を鳴らす。キンタロウもさすがに弱っていると、団地外の影からおびただしい数の光の粒がこちらをうかがっている。
「ちっ、スライム菌たちか」
突如現れたのは緑のゼリー状の物体で一見かわいらしい顔をしているがスライム菌は死肉を漁るスラムの掃除屋だ。
スライム菌は徐々にキンタロウたちの周りに群がってくる。狙いはアルコールマンだろう。そしてたとえスライム菌がいなくとも、こんな場所に放置していたらアルコールマンが凍死するのも時間の問題である。
キンタロウはスライム菌とアルコールマンを交互に見つめてから決断する。
「すまねェな、スライム菌たち」
夕飯はおあずけだ。
と、意を決して腰を屈めてからアルコールマンを背中に背負うキンタロウ。身長が高いだけあって結構重い。股下90㎝の白い足を引きずりながら雪道を歩けば、それをカビルの肉球の
キンタロウはひしめく団地のせまい空を見上げたのち白い吐息を漏らした。
「いい運動になりそうだ」
***
白昼夢のような夢見心地。
シャララランシャラララン。
これは昔の記憶。遠くに去っていく白い少年の背中。泣きすがる私の小さな手に少年は首に提げてあった菌を呼ぶ笛を握らせた。つまり今をもって彼は王位継承権を放棄したことになる。
それを認めたくなくてだから私はその歯車のような形の笛を受け取りたくなかった。
「お兄様!」
私は声のかぎり叫んだ。
しかし立ち止まることもなく白い少年は歩き去っていく。もしかしたら彼には私の他に自分を呼ぶ声が聞こえていたのかもしれない。そして何を思ったか私は笛に唇をつけると勢い任せに息を吹き込む。
「フゥーッ! フゥーッ!」
だが、どうがんばっても笛から音は鳴らなかった。どころかだんだんと私は息苦しくなり酸欠状態に陥ってしまう。
フゥーッフゥーッ。スゥーッスゥーッ。
うまく息ができない。
カチッカチッカチッカチッ。
なにか打ち付ける音がする。
フゥーフゥーボワッ!
私は荒い呼吸のまま薄目を開けると、灰色の髪の青年が床にあぐらをかいて座っていた。グレーのつなぎの上半身だけを脱ぎ、あまった長袖を腰に巻き結んでいる。煤けた白シャツが炎に煌々と照らされると首から提げた火打ち金が鈍く光っていた。囲炉裏の前で青年は箸を持ちお椀のなかでネバネバとなにやらかき混ぜている。
というか。
「くっさ!」
猛烈な悪臭で私の細胞たちが一気に覚醒する。
「やっと起きたと思ったらなんつー言い草だよ」
灰色の青年は鼻白むように言った。
「ず、ずみまぜん」
私は鼻を摘まんで謝りつつ青年に尋ねる。
「ところで何ですか、このニオイは?」
「見りゃわかんだろ? 納豆をかき混ぜてんだよ」
「納豆?」
「簡単に説明すれば、納豆菌の棲んだ藁に大豆を包んで発酵させた食品だ」
そう青年は説明してからおもむろに五徳の上に網を敷き、魚の干物を焼き始めたではないか。
「しかもこれまた臭いんですけれども!」
「当然だ。これはくさやだからな」
「ちょ、ちょっと……私のガスマスクはどこですか?」
「あーたった今、洗濯に出しちまったよ」
「地獄!」
「だってあんた息苦しそうだったからよ」
「そのせいで今死にそうになってるんですよ!」
私の鼻がもげたらどう責任を取ってくれる。
「というか、勝手に他人のマスクを洗濯しないでください!」
「冗談だ。上をよく見ろ」
「?」
「囲炉裏の上の火棚に干してあるだろう」
「ひどい扱い!」
マスクの燻製が出来上がりそうである。そもそも竜痘禍では換気も容易にはできないし、果たして空調は機能しているのだろうか? 一酸化中毒にはなりたくないのだけれど。
目の前の囲炉裏には灰が敷き詰められており火消し壷、火箸、灰ならしなどのアイテムが同居する。自在鉤の先には木蓋の落とされた大きな鍋が吊るされており鯉の横木が火の池を泳いでいた。その脇には火に当たりながら丸くなって寝る大きな毛玉と蛾やネズミやゴキブリが這い回っ
ており、天井や壁は灰とカビにまみれてカーテンは赤茶けている。
正直ドン引き。
私は枕にしていた自前の白いアタッシュケースを引き寄せると、その上に体育座りをして改めてとんでもないところに来てしまったことを痛感する。
「……どうしてそんな臭いものが好きなんですか?」
「逆にあんたはなんで臭いものが嫌いなんだ?」
「それは……DNAに刻まれたものというか、人体に有害なものの可能性が高いからですね」
「たしかにそうかもしれねェな」
私の一般論を一旦飲み込んでから青年は言った。
「だけどな、におうっつーことは菌が元気な証拠でもあるんだぜ?」
まるで納豆菌に微笑みかけるように言ってから青年は誰にともなく自己紹介する。
「俺は
「火山……灰菌太郎」
「火山灰、菌太郎だ」
カザンバイキンタロウ。
私が口の中で何度も反芻しているとキンタロウは湯飲みに注いだお茶を出した。
「悪かったな。お茶も出さずに」
「あっ、ありがとうございます」
素直に受け取ってから、私はアルコール除菌シートで念入りに湯飲みの飲み口を拭く。そんな私をキンタロウは腐った目の端で捉えたのち、炎を眺めながら切り出した。
「いやしかし、巷で噂のアルコールマンがまさか女だったとはな」
「悪いですか?」
私は湯飲みに口を付けずポニーテールに結われた
「いやあんたは悪くねえかもしれねェが、どうも場所が悪りィな。そもそもあんなところで何やってたんだ?」
「悪党退治です」
「?」
「世直しです」
「ははーん……いい趣味してるんだな」
得心したようにキンタロウは冷笑を浮かべる。
「小奇麗な出で立ちを見るに無菌城からやってきたんだろ?」
「はい」
「なんでわざわざ下りてくるかね、こんなとこに」
「それはよからぬ噂が蔓延しているからです」
「よからぬ噂?」
聞き返すキンタロウに私は答える。
「はい。このモルド街で非人道的な人体実験が行われていると」
「へえ。まあここはその手の話が尽きねェところだからな。たとえば人身売買とか、臓器売買とかとか」
と、キンタロウは身に覚えのある様子で自身のあごに手を当てる。
「にしても、その調査に無菌城ひいては国が乗り出すとは到底思えねェが?」
「はい。その通りです」
私は居住まいを正す。それから言った。
「自己紹介が遅れました。私はディカリア王国国王が娘のアルコです」
「は?」
「ですから王女のアルコ・ドラゴンハートです」
「そうか。まあいいや」
「え!? いいんですか!?」
アルコは拍子抜けもいいところだった。いちおう王女なのだが……。
するとキンタロウはひねくれ者らしくこう言った。
「だって信じてねェからな」
「信じてください!」
「仮に信じたとして、そのお姫様が犯罪の温床であるモルド街にひとりで潜入調査をしていたってのか?」
「そうです」
「頭ん中がはびこってんな、あんた」
「おかしいのはこの国の現状でしょう」
「ふーん」
値踏みするかのようにキンタロウの目の色が変わった。
「まあそんでぶっ倒れてちゃあー世話ねェけどな」
「それは酔っ払ってしまって……」
「酔っ払う、ね」
キンタロウはそう繰り返してからずばりと言い当てる。
「あんた
「え? あっはい。そうです」
アルコは頷いた。
「よくわかりましたね」
「まあな。わかるよ」
キンタロウは得意げになるふうでもなく当然のように言った。
彼の醸し出す雰囲気を不思議に思いながらもアルコは続ける。
「人間は生まれながらに右胸部に菌臓と呼ばれる臓器が存在し、その菌臓には一種類の菌が棲みつくことは知っていますよね?」
「ああ。二種類以上の菌が菌臓に入り込むと一種になるまで縄張り争いをするからな。それは菌全般の特性だな」
「ええ。その通りです。そして私の場合は生き残ったのは
「だからあんたはあんなみずみずしいパンチが打てたってわけか」
「そういうことです」
アルコはアルコール菌に初めて出会ったときのことを思い出す。当時の私は熱に浮かされており記憶は曖昧なのだが、菌が暴走して無菌城内をアルコールの海にしてしまったことを憶えている。
「だいたいは幼少期に菌を宿し、その棲みついた菌の特性が子供の肉体を通じて現れます。それに際して親の保有菌を伝染される可能性も大いにあるので子供の菌が定着するまでキスなどの濃厚接触を避ける親もいるくらいです」
アルコール菌は菌の中でもトップクラスの殺菌能力を持ち、無菌城育ちのお姫様らしい保有菌といえた。
するとキンタロウは質問した。
「俺が聞きかじった話によれば、最新医療では人工的に特定の菌を菌臓に着床させることができるんじゃなかったか?」
「はい。菌の着床実験や菌臓移植などの研究は盛んに行われておりますが、そのやり方だと拒絶反応が出てしまう可能性があります。その子供の遺伝子と菌の遺伝子とがうまく噛み合わなければいけませんからね」
「あんた、お姫様のくせにやけに詳しいな?」
「こう見えてもいちおう医者志望ですから」
すこし誇らしげに言ってから、アルコは湿った手でカビルに触ろうとするがするりと逃げられてしまう。
「汚え手で触ろうとするからだ」
「こんな綺麗な手は他にありませんよ?」
「そういうあんたの綺麗の押しつけが汚えつってんだよ。手を汚して出直してこい」
自分なりの善意をキンタロウに否定されてアルコは口惜しかった。
「せっかく綺麗にして差し上げたかったのに……」
「余計なお世話だっつの」
「アルコールのお風呂に沈めてやりたいです」
「カビルを殺す気かよ!?」
「あるいはホルマリン漬けでもいいです」
「すでに死んでんじゃねェか!」
いい加減にしろ。
と、キンタロウは自身の膝を叩いた。
そこでアルコは反論に転じる。
「そもそもこの子が汚れているのは飼い主であるキンタロウの責任では?」
「別にカビルとは飼ってる飼われてるの関係じゃねェからな。ただの友達だ」
「そんなこと言って家にお風呂がないというオチじゃないでしょうね?」
「今月は水道は止められてねェはずだから、
「……薪」
アルコはギャップを感じずにはいられなかった。これが庶民の暮らしなのだ。
「ただでさえカビルは風呂嫌いなんだよ」
「信じられません」
そんな生物がこの世にいるのだろうか。
アルコは三度の飯よりもお風呂好きだった。毎日最低4回は入浴している。
「キンタロウはカビルといつ出会ったんですか?」
「なんだそんなことか」
キンタロウはカビルと出会った頃の話を簡単にする。
「俺が初めてカビルと会ったのはだいたい5年前のことだ。その日は春雷が鳴っていた。俺はいつも通り仕事が終わって帰り道を歩いてたら近くでひときわ大きな雷が落ちてよ。その場所まで立ち寄ってみれば真っ白な雪の上に血が染みこんでるのを見つけたんだ。その血痕のスタンプを辿ってみるとこの黒雪団地の水道メーター庫の前まで続いてた。そこにはたくさんのスライム菌たちが集まっててよ。それを俺が払いのけて水道メーター庫の錆び付いた扉を開けるとその中に怪我をしたカビルがいたんだ」
「カビルにとってはキンタロウは命の恩人なんですね」
「だからそんな大層なもんじゃねェよ。ただの友達だ」
するとキンタロウのあぐらを掻いた足にすりすりとカビルは体をこすりつけた。そんな甘えるカビルを撫でながら仕切り直すようにキンタロウは提案した。
「そんなことよりも飯にしようじゃねェか」
「はあ私は食べられないかもしれませんが……」
アルコは他人が作った料理は苦手なのだった。
そんなアルコにはお構いなしでキンタロウはもてなしてくれる。
「初めちょろちょろ中ぱっぱ赤子泣いても蓋とるな」
上機嫌に唄なんかを交えつつキンタロウは火の脇に飯盒を置くが、アルコは気が気じゃない。
なんだろう、すごい動悸が。
「あんたはパンのほうがいいか?」
「どっちでもいいです」
キンタロウはホットサンドメーカーを取り出したのち、青カビの生えた食パンをセットして腐乱した生卵をカパッドロッと載せてそこに干涸らびたベーコンを挟み五徳にかける。ものの数分で出来上がったバクテリアサンドイッチが腐ったミカン箱の上に載せられてアルコの目の前に錬成された。
キンタロウは一言添える。
「どうぞご賞味あれ」
「こんなもの食べられません!」
アルコは腐ったミカン箱ごと囲炉裏に投げ捨てたい気分だった。
「おいおい。どうした?」
「どうしたもこうしたも腐ってます!」
「火通してんだから大丈夫だろ」
「そういう問題!?」
アルコは納得できるわけがなかった。
そもそもなぜ有機物は腐るのか。それは細菌が有機物を生成分解して繁殖し排泄を行うためだ。つまるところ腐ったものというのは細菌たちの排泄物まみれというわけである。
「キンタロウ、いいですか。食べ物は腐ったら食べられないんですよ!」
「あんたはアルコール菌の宿主だからいけんだろ」
「いやいやいや絶対無理ですから!」
たしかに私の中のアルコール菌たちが細菌を退治してくれる場合もあるかもしれないが細菌の生成した有毒物質までを無効化できるわけではない。それ以前にこれは気持ちの問題なのだ。
はあはあと酸欠になりながらアルコは気を鎮める。本気で一酸化中毒になってしまう。
「賞味期限が切れてる切れてない以前の問題じゃないですか」
「うるせェ人間。じゃああんたの賞味期限はいつだよ?」
「ここぞとばかりに皮肉らないでくださいよ」
この短時間のうちに一気に老け込んだ気がするアルコだった。
「……まったく、どうしてこうもありとあらゆるものが腐ってるんですか」
「ああ? それがこの世の真理ってもんだろうがよ」
「いいえ、それは屁理屈って言うんですよ」
「たとえ屁理屈でも理屈は理屈だろ」
あー言えばこー言うキンタロウである。
「だいたいな、腐ってるんじゃーなく発酵してるんだよ」
「言い方の問題ですね」
「あるいは
「えらくカッコよくなりましたね」
ちなみに腐敗と発酵の違いは人間に害があるか益があるかで決まる。そういう意味では、もしかしたら私たちの使う言語もまた日々熟成していってるのかもしれない。それを腐敗とみなすか発酵とみなすかは意見が分かれるところである。
「キンタロウは脳味噌まで発酵してるんじゃないですか?」
「いやーそれほどでもねェよ」
「褒めてません」
この男と話していると疲れるのは私のせいなのでしょうか。アルコは疑問に思いながらもふと気づく。
「えっ、ていうか冷蔵庫は?」
「そんなもんあるわけねェだろ。電気すら通ってねェんだぜ」
言われてみればそうだ。
この薄暗い部屋を照らしているのは目の前の囲炉裏の火と
アルコは目の前の男に感謝しつつも口をついて出たのはこんな言葉だった。
「ここは何時代ですか?」
「人間が勝手に区切った時代なんか知らねェよ」
キンタロウは素っ気なく言ってから首をひねる。
「まあ培養した電気菌に発電させて電気を売ってる奴はいるが……。別に興味もねェな」
「特定保護菌の無断培養は法律違反ですよ?」
「ルールがねェのがここのルールだ」
キンタロウは無法者を見るような眼でアルコを見つめる。
シュンとしながらアルコはモーニングスターをぶん回す大男を思い出す。
「でも元締め的存在はいらっしゃるんですよね?」
「ああ、ルールを作るのもまた自由だからな」
そういってキンタロウはアルコのサンドイッチを奪うとひとくちで頬張ってしまった。
「あっ」
「ん? どうした?」
もぐもぐもぐ。
「やっぱり食べたくなったのか?」
「いえ……」
「吐き出してやろうか?」
「絶対にやめてください!」
このキンタロウという男はどこか幼稚なところがある。
すると、そうこうしているうちに
「つくね入りのモツ鍋だ」
「へえ、モツですか」
「ちなみにこのモツは塩麹に漬けたものだ」
「たしかモツって牛さんの腸ですよね……ゴクリ」
アルコは湧き上がる恐怖とともに生唾を飲み込む。
「あんたも煮沸殺菌されてるものなら食べられるだろう」
「が、がんばってみます」
「別に無理して食べるもんじゃねェんだけどな」
ぼやきながら、キンタロウは茶色い粘土のような物体を鍋に溶かし入れ始めた。
「な、なんですかそれは?」
「これは味噌だ」
「ミソ?」
「簡単に説明すれば、大豆を
「自家製……実に怖い響きですね」
「なんでだよ」
何でもなにも決まっている。こんなススとカビにまみれた部屋で製造されたものなんて……想像するだけでおそろしい。
アルコが気構えているとキンタロウは言う。
「安心しろ。味噌は別名『医者殺し』と呼ばれてる」
「危険度MAXじゃないですか!」
「字面で判断せずによく聞け。要するに味噌を食えば医者いらずってことなんだよ」
「なるほど。……あなた、私を毒殺するおつもりですね?」
「するかァ!」
キンタロウはズッコけた。
「だいたい、あんた医者じゃなくて医者志望だろ」
「医者死亡って! やっぱり!」
「何がやっぱりなのかさっぱりだ」
キンタロウは肩をすくめてお手上げだった。
「ただでさえ私は菌が多量に含まれる食品は苦手ですのに……」
「そんなんだからあんたは大きくなれないんだよ」
「いや、ちゃんと私の身長を見ておっしゃってます?」
「発酵食品を食べてればもっと伸びただろうよ」
「なら食べなくて正解でしたよ」
これ以上伸びてたまるもんですか。まことしやかな都市伝説になりますわ。
しかしながら、キンタロウが煮えた鍋に味噌を溶かし入れることによってたちどころに食欲をそそる香ばしい匂いへと変化した。そしてアルコが油断したまさにそのとき、ぐりゅるるるる~! と、団地じゅうに響き渡ろうかという音が鳴った。沈黙をぐつぐつと鍋が煮込み、一拍置いてからアルコはカァと顔が熱くなる。
そんなアルコをキンタロウはにまにましながら見つめていた。
「どこかで腹の虫が鳴ってるな」
「私のおなかの中に虫なんていません!」
「そりゃあ本当にいたら俺でも怖ェけどな」
それからキンタロウがおたまを持ちモツ鍋をすくおうとしたところで思わぬ邪魔が入る。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「ああ? なんだよ?」
「いや、その……」
「腹減ってんだろ? 意地張らずに食えよ」
「はい。私も食べたいのはやまやまなんですけれど……」
「言っとくが、さっきの身長が伸びるうんぬんは冗談だぜ?」
「さすがにそれはわかってます。それにキンタロウの背丈を見れば……ねえ?」
「見下ろしてんじゃねェよ!」
キンタロウは見上げるようにアルコを睨みつける。
「なら何が問題なんだ?」
「その料理が問題なのではなくて……キンタロウ」
アルコは意を決したように言う。
「ちょっとおたまを貸してください」
「はあ?」
呆気にとられるキンタロウからアルコはおたまを奪うと、自身の手からアルコール消毒液を少量分泌しつつ除菌シートで入念に拭きとる。ついでにその他の食器類や箸置きにいたるまでを綺麗に磨き上げてしまった。
まるでアライグマみたいなプリンセスである。
「……これで満足したか?」
「はい!」
「いい笑顔でなによりだ」
キンタロウはやや呆れ気味におたまを奪い返すと、今度こそモツ鍋をすくい左手に持ったお椀に注ぐとお椀からは白い湯気が立ちのぼった。
「ほらよ。食べてみそ」
「ありがとうございます」
アルコはおそるおそる箸でプリプリのモツをニラと一緒に挟んだのち持ち上げる。しばし見つめてから腹をくくったようにパクッと口に運んだ。はふはふと口腔内で熱さを堪能したあと、まろやかな味噌の風味とニラの香りが鼻から抜ける。モツを噛めば噛むほどうま味が染み出してのど越しもよく鷹の爪がいいアクセントになっていた。
「……おいしい」
「当たり前だろ」
「なんで? どうして? こんなにおいしいんですか? 毒を食らわば皿までと思っていたのに!」
「毒ってあんた……」
キンタロウが顔を引きつらせる隣で立て続けにアルコはパクパクと食べる。しなっとしたキャベツのほのかな甘味とゴボウの素朴な食感がさらに食欲をかき立てた。ホクホクのつくねはなめらかな舌触りで何個でも食べれてしまう。すると続けて、キンタロウは飯盒からふっくら炊けたホカホカの白米をしゃもじで茶碗によそってアルコに渡してくれる。
こちらもまた絶品。
もっちりとしたお米の一粒一粒が生命力を感じさせてほっぺが落ちるとはまさにこのことだ。
キンタロウはそのアルコの様子を満足げに見つめてから、自分のぶんのモツ鍋をお椀によそったところで匂いに釣られたカビルがうらやましそうにお椀を見つめていた。
「よし。カビルもご飯にするか」
キンタロウは戸棚から木片のような物体と
「キンタロウはいったい何を削ってるんですか?」
「これはカツオ節ってんだ」
「カツオ節?」
「魚を
「……またカビですか」
「別にいいじゃねェか。これがカビルの大好物なんだよ」
おりゃりゃりゃーっとカツオ節なるものをキンタロウは削ってからカビルの皿に盛り付けた。そののちキンタロウは『菌右衛門』と書かれた一升瓶を傾けて正方形の
「あんたも飲むか?」
「お酒は飲めません」
「そういや、あんた下戸だもんな」
「ええ、そうですとも。それがなにか?」
「アルコール菌の保菌者のくせに酒が飲めないなんて滑稽なやつだな」
「悪かったですね」
それはアルコにとっても積年の悩みの種だった。アルコール菌はどうして私を宿主に選んだのだろうか。
それともあるいは……私がアルコール菌を選んだのか?
アルコがそんなことを考える一方、キンタロウは一升瓶から
「そうだな。削りたてホヤホヤのうちに食べるか」
カツオ節に削りたても何もあるのかはわからないが湿気る的なことがあるのかもしれないとアルコは思った。
そしてキンタロウは両手を合わせてから、
「いただきます」
と言った瞬間、隣のカビルはムシャムシャと青虫がキャベツを食べるがごとくカツオ節にがっつく。キンタロウは一升枡の日本酒をグビーッと呑み、すごい勢いでモツ鍋を食べるものだからアルコも負けじと自分の食い扶持を確保するためにモツ鍋をおかわりした。モツ鍋はきれいに空になりアルコはおなかいっぱいになってしまった。
「味噌モツ鍋、おいしかったです」
「だろうな」
「同じ原料を使ってるはずなのに納豆とは大違いです」
「納豆なめんなよ」
別になめているわけではないがあんなものを食べる人の気が知れない。
しかし、それと同時にアルコは静かに確信していた。
「きみは獲得者なんでしょう?」
アルコの問いにキンタロウは答えない。
ちなみに獲得者とは免疫獲得者のことで、いま世界中で
「だから屋外にもかかわらずマスクをしていなかった」
「…………」
「そして獲得者のもうひとつの大きな特徴として肉眼で菌を視認でき、かつ菌の声が聞こえる」
――らしい。アルコも人づてに聞いた話だが。
するとキンタロウは腐すようにやっと口を開いた。
「そんな流言まともに信じてるのか?」
「はい」
アルコはまっすぐな瞳でキンタロウの瞳を見つめた。
彼の視る世界。
それがわかれば、私もあの人にすこしでも追いつける気がするのだ。
「きみは人類の最小にして最悪の敵に対抗できる稀有な存在なんです」
「敵じゃねェよ」
「?」
キンタロウの発言にアルコは首をかしげる。
「ただちょっとばかし人付き合いが苦手なだけだ」
「コミュ障なんですね……って、きみさぁ」
「あんたが思うより菌はしたたかで賢いんだよ」
至って真面目な顔でそう言うとキンタロウははにかむ。
それは今日はじめて見せる類いの笑顔だった。
「普通は菌やウイルスが視えるっつったら気味悪がられるもんなんだがな」
「そうかもしれませんね。でも……」
アルコは追憶するように言った。
「私のお兄様も視える人だったから」
「ほう。やっぱり俺の他にも視える奴がいやがったか」
キンタロウは面白げに呟くとそこでアルコはハタと気づく。
「もしやキンタロウ、私を試しましたね?」
「さあ何のことだ」
マスクを取り上げて帰れないようにしたのも、食事を振る舞ったのも、おなかを満たして油断した私から情報を搾り取るため。
まったく食えない人だ。
しかしアルコはただやられっぱなしでは帰れない。
「それにしても菌が視えるってどんな感じなんですか? 幽霊が視えるみたいでなんだか怖そうですけれど」
「この世にいないものが視えるよかマシだろ」
「たしかに一理ありますね」
ようは向き合い方の問題か。だとすればキンタロウは保有菌とどう向き合っているのかアルコは気になってちょっと意地悪な質問をした。
「キンタロウは菌が視えるのによく発酵食品を食べられますよね?」
「まあ食べるっつーか取り戻すって感じだけどな」
「?」
「俺の中におかえりなさいだ」
「なんだかよくわからない比喩ですね」
菌を食べ過ぎるとこんな思考回路になってしまうのかとアルコは同情した。そんな二人を眺めながら囲炉裏の前のカビルは大あくびした。
しかしなんだろう。この落ち着く感じは……。アルコは同じ部屋で初対面の男と二人きりで話しているというのに不思議と打ち解けていた。囲炉裏の火のおかげなのか。はたまたモツ鍋がおいしかったせいか。もしくは似ても似つかないはずのキンタロウとあの人の面影を重ねてしまっていたのかもしれない。
アルコがそんなことを思っていると、
ガチャンッキィ!
と、玄関の錆びた鉄扉が開いた。するととある人物が顔を出して挨拶した。
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