最期第2話
私とサナギは消えたナミザを探した。あの嵐に飲まれた私たちはしばらくの間、身動きがとれなくなっていた。
世界が閉ざされたみたいに、全てが黒く染まるかと思った。私も死んでしまうのかと思ったけれど、そうはならなかった。私が病気にかからない体質だからか、サナギの力なのかはわからない。
いつの間にか私の周りは普段の色を取り戻していた。空は青く、街は薄汚れて灰色で、テムズ川は濁っている。それが私の見る世界だった。
きっと、サナギも、ナミザも私とは違う世界を見ている。けれど、それは仕方がないことだと思う。
「ナキ、ナミザを追う」
サナギが言った。暗い髪をかきあげて前を見据える瞳は太陽の光を反射している。
「どこにいるかわかりますか?」
「わからない。けど……」
サナギの足は自然と動いていた。
「わかるんですか?」
「いや、ただ、住処がある。この街で一番死体が集まるところだ」
その言葉で私はどこにナミザがいるのかわかった。この街で死体が一番集まる場所、それはとても粗雑な倉庫だ。本来の役割は廃材置き場、人も廃材も大差はないのだろうか。
私とサナギはフィンズベリー広場から南に歩いた。いくつかの路地を抜けるといたるところに人の骸が転がっていた。
フェレスはもう病原菌ではなく、人を殺すだけのただの何かになっている。
テムズ川沿いに出るとサナギの足が早まった。
サナギは走り出し、私も走った。怪我を負ったナミザが行く先はそこしかなかった。
フォルミード倉庫の前には大量の血が地面に広がっていた。それが誰の血なのかはわからなかった。
サナギはその倉庫に入っていったけれど、私は躊躇ってしまった。倉庫からは本当に嫌な臭いがした。これが腐臭と言うのだろうか。人が死んで腐った臭いと言うのだろう。吐き気がする。こんなところに入ったらおかしくなってしまいそうだった。
それでも、これ以上立ち止まることはできない。
倉庫の中には無数の死体が転がっているはずなのに、中には白骨がいくつかあるだけだった。船着場の近くに塵のようなものが積もっている。ここにはもっと大勢の人が運び込まれたはずなのに。
倉庫に入ると壁にもたれかかって座っているナミザの姿が目に入った。ナミザはサナギに向かって叫んでいた。
「もういいだろう! 放っておいてくれ」
サナギは黙って首を振った。
「放って置いてくれればいいのに、どうしてサナギはいつも……」
「お前がいつも一人だからだよ」
「哀れみか……サナギ、君がそんなことをするから、全てが狂うんだ! 無自覚かもしれないけれど、君が行ったことは全て裏目に出ている。自ら罪を背負い追放された。それで一族は滅んだんだ……追放されるべきは、マテラだったのに」
「なあ、ナミザ、マテラは何をしたんだ?」
ナミザは苦しそうに血を吐いた。何度も咳き込んで、肺を患ったような不自然な呼吸をしていた。
「あいつは狂っていたんだ。そして、自暴自棄になったのかな? いや、僕はわからない。ただ言えることは集落を人間に襲わせたことだけは確かだ。それで皆死んだ。それだけだ」
この中は最悪だった。色々な臭いが混じり合って、暗くて、そして、汚かった。そこかしこに血が滲み、骸が転がっている。腐っているものから、腐りきっているものまで本当にいろいろだったけれど、そんな中で彼らは自然に、会話していた。
私は自分がこの中で平静でいられることが不思議だった。
「マテラが?」
ナミザは少しだけ笑みを浮かべて、再び表情を失って言った。
「ああ、そして、呆気なく死んだよ。僕が殺した」
サナギはナミザを見つめた。ナミザはもう目を開ける気力もないみたいで、目を眇めて言った。
「族長も、他の連中も皆、馬鹿だ。あんな奴に、期待するから、呆気なく、本当に。マテラも結局はあんなに簡単に死んでしまった。僕が撃った銃弾で脳みそを散らして、本当に呆気ない。理由ぐらいかたれよな……」
「そうか」
サナギは頷いた。
ナミザは「つまらないなあ」と呻いた。
「何も幸せなことなんてなかったよ、サナギ。生きることはこんなものなのだろうかな? 僕にはわからない。昔は他人を憎んではいたけれど、人間を殺そうなんて一つも思わなかったのに。でもさ、一族の人間に貶められて、外の人間に壊されて、マテラが全てを駄目にしたから」
「それで、それで気持ちは晴れたか?」
サナギが言った。
「晴れなかったね。何も変わらなかった。殺すたびに、何も思わなくなっていったよ。死ぬのが人間ではないみたいな……でも、違うこともあったかな」
ナミザが私を見て言った。
「サナギは、どうだい? 人間を病から救って何かいいことはあったかい?」
サナギは首を振った。
「何も変わらなかった。胸の中にはいつもあの村の光景があった」
ミュンクヴィズの一族が滅ぼした村、いや、マテラとサナギが壊してしまった村。生きていた人は一人もいないと言う本の記述を思い出した。
「そう、それでいくら他人の命を拾っても、その光景だけは消えなかった。人間にも良い人間がいれば、悪い人間もいる。俺たち一族も同じだった。違いなんてさしてなかったのかもしれない」
「でもね、どいつもこいつもそうは思わないんだよ」
「そうだな」
「ナキ、君も思うだろう。人間は腐っているって、人間は生まれながらにして罪を負っているって」
ナミザが私に言った。彼の声はとても柔らかかった。少しだけ、誰かの声音に似ているような気がした。誰かは思い出せなかったけれど。
「私は罪なんて背負いたくないと、思います」
ナミザは笑っていた。屈託のない笑顔だった。お腹から足元まで体は血でべっとりと濡れてしまっていた。何度も咳き込んで、苦しそうに泣き始めた。
それは本当に子どもみたいだった。私よりも幼い子どもみたいに泣いていた。
「ハハッ、この街は本当にもう人間が住めるところじゃなくなるだろうね。僕は彼らに命じているから……彼らはこの街の人間を喰らいつくすまで止まらない。ずっと準備してきたことだから、サナギにだってどうにもできないだろうね。だから、二人はどこかに行きなよ。どこかで暮らして、普通に生きて、普通に死んでほしいな。僕はね。みんな嫌いだった。一族の人間も、もちろんマテラも、外の人間も、どこの人間も、殺すほど嫌いだったけれど、二人のことは嫌いじゃなかったな」
ナミザの肌はどんどん白くなっていった。もう力もないという風に、ぐったりと腕を寝かせて、壁に埋もれるように顔を伏せた。
「僕はね。人間の世界なんてどうでもいいと思うよ。生命は集団の利益を優先するように創られているっていうけれど、その中には狡猾な個体がいる。そして、そいつは搾取して、一人だけ生き残るんだ。そんなのは許せないだろう? そんな奴は生かしちゃおかない。僕はずるくて悪いものがとても嫌いなんだ。だからね。不幸な、そう、いつも不幸ばかり自分で買ってさ。自分は不幸じゃないって、言って、本当はとても幸せなんて言えない人間こそ。僕は幸せになってほしいと願いたいんだ。だから……二人はさ——」
それ以上ナミザが言葉を発することはなかった。瞳は閉じられて、身動き一つ取らなくなった。
「サナギ」
サナギはどこも見ていないような瞳をしていた。顔はナミザの方を向いていたけれど、瞳は何も映しておらず空虚な感じだ。
「行こう」
サナギは私の手を引いた。私は「どこへ?」とも言えなかった。ただ彼に引かれて、
フォルミード倉庫を出て行った。
ここは墓場というよりもゴミ溜めみたいなところだと思った。フォルミード倉庫は人間というゴミを捨てる神様のゴミ箱みたいな、そんなことを考えた。私もサナギもナミザも他の人間もきっと神様からしたらなにも違わないのかもしれない。
サナギはどんどん街の中に入って行った。もう辺りには黒い何かが延々と舞い上がっていた。街を飲み込むようにナミザが望んだ通り、この街を滅ぼすために小さな悪魔たちはこの街を覆い壊すのだろうと思った。
「ナミザには悪いが……ナキ、人間が嫌いか?」
サナギが言って、私は頷いた。
サナギは地面に触れる。そこには何もない。何かあるようには見えないけれど、サナギやナミザには何かが見えていることを私は知っている。彼には何かが見えている。
「ナミザが間違っているとは思わないんだ。でも、自然を捻じ曲げてしまってはいけないんだ。人間には人間の善悪があって、でも、それは人間だけのものじゃない。どんな生命にもそれぞれに善悪や行動原理が存在している。だから、彼らも、彼らの意志を捻じ曲げてしまってはいけないんだ」
「でも、こうなってしまって、どうにかできますか?」
「全てを元に戻すことなんてできないが、ナミザも知らないことが一つだけある」
「何?」
サナギは黒い靄を指差していった。
「自然っていうのは食って食われての繰り返しだ。そして、どんな生命にも天敵がいたりする。食物連鎖も腐食連鎖もどちらも変わりはないんだ」
地面にこびり付いた黒い悪魔たちは少しずつ消えていき、そこに小さい芽のようなものが生まれる。それは綿毛のようであり、宝石のようでもあった。初めてサナギを見た時にもあったものだ。
様々な光を放つそれは瞬く間に広がっていく。
太陽の光が降り注ぎ、それを受けて、美しい小さい者たちは光ながら、時計台や煉瓦の壁や道路まであらゆるところを埋めていく。私の目の前には色で満ちた世界が広がっていく。
「なんですか?」
サナギはゆっくりとこちらを見た。
「悪魔を食べる。小さなこれもまた、悪魔たちだよ。俺には彼らのことはあまりわからないが、彼らはバクテリアを食い成長して、小さな花になる」
「これで街の人は死なない?」
「いや、すでに身体を蝕まれている人は駄目だろうね」
サナギはそう言って目を瞑った。
世界の色が変わっていく。灰色や暗いものが鮮やかなものに塗り替えられていく。小さな悪魔は同じく小さな悪魔に滅ぼされていく。それが世界の摂理だと思うと妙な気分になる。
私たちはとても小さくて生きることすら危うい。
少しだけサナギが羨ましい気がした。
真っ暗な世界がどんどん色を変えていく。こんなに世界は美しかったのかと思う。これが二人が見ていた世界なのかもしれないと思った。二人のことが少し羨ましくなりそうだった。
「死んだ人は死んだまま、生きている人もやがて死に、ただ生き残ったものだけが、怯えて生きていくことになる」
サナギはそれだけ呟いてその奇妙なもの達の上を歩いていく。
私は一人立ち止まってしまっていた。
でも、サナギは振り返ってこちらに目を向ける。その目は相変わらず綺麗な紫色をしていた。
それを見て私も彼の後ろを歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます