恋する悪役令嬢
「トレーフルブラン」
ピクリと肩が跳ね上がってしまいました。どきどきと高鳴る胸が収まるのを待って本の隙間から見上げます。ボサボサの髪の隙間から見つめてくる黒い目と目が合いさっと目をそらしてしまいました。
「何ですか……」
震えてしまう声。
「いや……何でもないが……」
躊躇いがちにそう言われるのに私はホッと息を吐き出しました。今ここでどういうつもりなのかと聞かれても私には返す言葉一つもないのです。
先生への恋心めいた何かを自覚してしまってから二週間あまり。私は毎日のように先生の部屋へと足を運んでしまっています。放課後は五人とのお茶会に、お菓子作り、町の中の視察だとかで色々やることがあるので、基本は一番長い昼の休み時間、たまにそれ以外の休み時間を使って先生の側に。
そこで何をするのかと云えば、本を読む振りをして先生の様子を観察するだけ。それ以外は何も。
何時でも来いと言っている手前、先生は私を追い出そうとはしませんが、困惑しているようでいつも私が来るとじっと見てくるのです。
その視線にもどきどきとしてしまうのです。
何をやっているのだと自分でも思います。
でもこんな風に私の方から好きになることなんて今まで一度もなくてどうしたら良いのか分からないのです。
兎に角自分がやりたいことをしようと思って今は先生の傍に。何かを話すわけではありませんが、先生のそばにいるのは何だかとても落ち着きますの。そりゃあまあ、どきどきもして胸が破裂するんじゃなんて不安になったりもするのですが、それと同じぐらいにずっとここにいたいと思わせる何かがあって……。
その気持ちに抗えないままつい。
今日だってダメだとわかりながらも止められなくて。
先生が此方を見てくる気配がします。気にされているのが分かってどきどきとは別に胸が苦しくなります。私だけの問題だったら良かったのにそうもいきませんし。
「トレーフルブラン」
また名前を呼ばれて恐る恐る先生を見ます。静かな黒い目は困ったように揺れていて。
「……来るのはいいのだが、お前はいいのか。お前が困るんじゃ」
躊躇いながらの言葉に私は口を閉ざしてしまいます。良いんですのと返したい所なのですが、そういえる状況じゃないことはちゃんとわかっています。
……本当のことを言うと分かっていなかったのを今日気づかされたのだけど。
それは朝のことでした。テラスで考え事をしていた私の元にやって来た人影。
「トレーフルブラン」
声をかけられて見上げると私はそこにいた人に驚いてしまいました。
「セラフィード様」
そこにいたのはセラフィード様で何故か難しい顔をして私を見つめていたのです。睨み付けていたに近いかもしれません。
「何ですか、セラフィード様。さやか様に伝えておいたと思うのですが…」
何か用があるなら彼女に通してくれと声には出さず目線のみで訴えてみるが難しい顔をした彼はそれをはねのけました。
「簡単なことで今回だけだ」
口にされたのにですがと思いましたが言葉にはしませんでした。セラフィード様のご様子から何を言っても無駄だと分かったためです。強情なこのお方の意思を曲げようとしたらそれこそ余計に時間がかかってしまいす。ここ好きにさせて早く終わらせようと考えました。
「で、なんのご用ですか」
問いかければ口を閉ざすセラフィード様。険しい顔をしながらも言いづらそうに視線をさ迷わせるのに私は早くしてくださいませと促します。こうするとテンパってしまい要領の得ない話になってしまうのですが、前回のように待ってあげる気はありません。
「あーー、その、なんだな」
歯切れの悪い言葉にセラフィード様と名前を呼びます。見つめればうっと唸ったあと、彼は私をぎっと睨み付けました。怖くはないのはその目元が赤く染まっていたからでしょう。
「トレーフルブラン。お前はあのグリシーヌ先生の事が好きなのか」
今度言葉に詰まるのは私の番でした。装う間もなく頬が赤く染まり呆然とセラフィード様を見つめてしまいます。
「な、な………」
やっと言葉が出たかと思えばそれはまともな言葉にはならなくて。その姿をみてセラフィード様は唖然と口を大きく見開きました。
「ま、まさか、本当にそうなのか……。お、お前数ヵ月で他の人を好きになったりしませんと言っていたのは何だったんだ!!」
「煩いですわね! 仕方ないでしょう。女の子というのは優しくされるのに弱い生き物なんですの」
詰られるのにカッとして咄嗟に言い返してしまいました。だけど最後の方は小さくなり、私だって女の子なんですからねと呟いたのはほぼ口の中のみで言えていた。だが、それでも衝撃はあったようでセラフィード様はうっと声をだし胸元をつかんで他所を見ました。
「そ、それは俺がお前を、その、あの……。パーティーの時に助けてくれたからということか……」
「それもありますがそれ以外にも色々優しくしてくれたから……」
どうしても出てくるのは小さな言葉ですがセラフィード様には聞こえているようで呻き声のようなものが聞こえてきます。何だかその声さえにも羞恥を煽られてセラフィード様の顔が見られません。ちらりと見てみたらセラフィード様は青ざめた顔をしていましたからとてつもなくシュールな状況になってしまったと思います。
いまの状況を変えるために何かを言った方がいいのではないかと思いながらも何を言えばいいのか一つも浮かびません。
それだけならいいのですが……、長いこと無言でいるとちょっとした悪戯心が沸き上がってきてしまい……
「あんな風に優しくされたのなんて数年前にたった一度だけのことで……。ときめいてもしまっても仕方ないじゃないですか……」
さらにセラフィード様が唸り固まりました。まるで処刑される直前のような顔で見つめてきます。
「その、一度って……。まさか、七年前の……」
無言で横を向きました。言葉にこそしないもののほぼ肯定しているようなものです。いまにも両膝を地面に着きそうなほどセラフィード様は憔悴してしまいました。少し可哀想にも思えてきて、やり過ぎたかと思ったのてすが、いいえと強く思い直します。
ここで甘やかしたらこの人はいつまでたっても私の事を思い続けているままですわ。早くすっぱり諦めてさやかさんと付き合ってもらわなくては。
じっと見つめてくるセラフィード様に私は微笑みます。少し落ち着いて来ました。問わなければいけないことも分かっています。
「で、どうして私がグリシーヌ先生を好きだと分かったんですか。態度にはだしていないとおもうのですが」
言えばセラフィード様はえっと声を出しました。悲惨そうな顔をしながらも信じられないと言う目で私を見てきます。
「……お前それは本気で言っているのか」
「え?」
「お前最近良くあの先生の部屋に行っているだろう。グリシーヌ先生かルーシュリック。どっちかと付き合っているんじゃないかって噂になっているぞ」
「……」
ころんと手に持っていたペンがこぼれ落ちました。セラフィード様の顔をじっと見つめます。嘘でしょうと口から出ていくのにセラフィード様は首を振ります。気にするように見つめてくるのに私の笑みは引き攣りました。
人の噂は恐ろしいとずっと心に言い聞かせながら生きてきたと言うのにすっかりそのことを忘れていました。
先生の部屋に何日も通い続けたらどんな噂が出るかなんて考えずともわかると言うものなのにセラフィード様に言われて初めて気付いたのです。
「……大丈夫か」
青ざめてしまった私に気遣うようにかけられる言葉。何一つ返せませんでした。
思い出して唇を噛み締めてしまいました。行かない方がいいのではないかと思いながらも来てしまった今日。
「いいのか」
もう一度聞かれるのに言葉は返せません。良いか良くないかで聞かれたら良いわけがないのですが、それでもどうしても来たいと思ってしまうのです。先生の傍に居たいと。
こんな風に思うのが初めてでこの気持ちをどう抑えたらいいのか。
いままではずっと傍に居続けられるように、必要とされ続けられることだけを考えていて゛今゛を考えたことがなかったから……。
今したいと言うこの気持ちはどう抑えたらいいのでしょう。
どうしたら良いのか分からずつい手元の本を弄ってしまいます。見つめ続けてくる先生から逃げるようにそちらに目を向けて……。
気不味い空間なのですが、これも気遣ってくれているからなのだと思うとふわふわとした気分になってしまい……。
「お前がわかっていないと思わないんだが」
先生が話すのに内心舌をだします。ごめんなさい。朝まで分かっていませんでしたの。
「妙な噂が流れ始めているぞ。それなのにいいのか。せめて週一回とか……」
にしたらどうだと言われるのに来るなとは言わないんだとまたときめきました。私だけの問題ではなく先生も噂の的になっていて迷惑でしょうに。
「良いんですの」
思わずでてしまった一言にえっと先生が声をあげました。見開いた目が見つめてくるのに私も先生を見つめました。恥ずかしくて逃げ出しそうになるのを堪えます。
「噂のことは良いんですの」
ぎゅと本を握る手に力がこもってしいました。胸がどきどきと音をたてます。何を言うつもりなんですの。止めなさいとも思うのに止められません。
「完全に嘘とは言いきれませんし」
「何を……」
「だって私」
先生のことが好きですから
口にした一言で先生の目がさらに見開きぽかんと口もあきました。私も言ってしまったとさらにどきどきしてしまいます。言うつもりはなかったのに、でもここにいたいから。
何をと先生の口が動くのにもう一度好きなんですと口にしました。二どめは恥ずかしくて目をみて言うことはできませんでしたわ。
さらに見開かれていく先生の目。限界まで見開いたかと思うと、すっと落ち着いていきます。困惑したその目は静かな色を宿り出して、私を見ながらそれはと口を動かすのに皆まで言わせることはしませんでした
「分かっていますわ。優しくされたからときめいてしまっただけで、一時的に勘違いしているに過ぎないなんてことは。でも私こんな気持ちは初めてなんです。
セラフィード様の時はその気持ちをじっくり味わう前に頑張らなければとそっちの方に走ってしまったので…。
だからこんなにのんびりと恋をしたことがないんです。
今はその、この気持ちを貴方の傍で噛み締めていたいのです」
言えばしばらくおいてから先生はそうかと言いました。考えるように部屋を見渡してそれから私を見ます。
「だが俺はお前のことをそういう風には見ていないし、これからも見ることはないだろう」
はっきりと告げられるのに胸がつきりと痛みました。下手くそになった自覚はありましたがそれでも笑いました。
「分かっていますわ。私も先生にそう言ったものを求めるつもりはありません。
ただ、その……しばらくはそばにいさせて欲しいのです。それだけで良いんですの」
「そうかなら好きにしろ」
俺は構わんと優しく告げられるのに胸に暖かいものが溢れました。
その日の後はつい先生の事ばかり考えてしまいぼぅとしてしまいました。お茶会やその他にも色々あったのですがまともに思考することができず、今日は活動はそこそこに早めに家に帰ってきました。
家にはいってもまだ少しぼぅとしていたのですが……、感じた視線でそれは消え去りました。
そちらを振り返ってみるとブランリッシュ柱の影から私を見ていました。睨み付けている訳でも彼に首をかしげます。私に見られても彼はずっと私を見ていて。何か声をかけるべきなのかと思いながらも私は踵を返しました。
ブランリッシュから声をかけてくることもありません。
「トレーフルブラン様」
召使いに声をかけられて私はなんですのと言います。もうブランリッシュからの視線も感じませんでした。
「ご主人様からの伝言があります。明日見合いをしますので早めに帰ってきて支度をするようにと」
何を言われてもはいと答えるだけのつもりだった私の足が止まりました。ああきたのかと受け止める一方で今日なんてとも思います。
分かっていたことなのに胸が痛んで、私はその痛みに蓋をして歩き出しました。
「分かりました」
答える声からなんの感情も感じ取れませんでした。
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