第4話 庭園での密会(2)

 ひょっとしたら、この謹厳な女官は、王妃の女官ではなく、第二王子の乳母や傅役もりやくなのかもしれない。


「お話がありました通り、殿下は、お母君の元へ参じる伯爵夫人貴女さまを拝見して、興味を覚えられたようです。いつも傅役であるわたくしに貴女さまのことをお話しなさいます。今日は何をしていたとか、どんな服を着ていたとか……。少年にはよくあること、と思われるでしょうが、非常に真面目なお方なので、わたくし以外の女官には一歩引いて対応されるほどなのです。非常に珍しく拝見しておりました。失礼ですが、貴女さまは去年の冬ごろ、ご不幸があったようですね」


 アガーテはうつむいた。

 

「殿下は王妃陛下からそれをお聞きになり、貴女に夫がいらしたこと、その貴女に不幸が起きたことにひどく涙され、自ら死を選ぼうとされました。それ以来、笑顔を消されました。……そういう不安定な少年に、一回現実を見せて、派手に失恋していただき、立ち直っていただこうと思ったのですが……、なんかこう」

「なんかこう……?」


 謹厳な傅役はこめかみを押さえた。


「ほどよく常識的で、貞淑で温和。すべてにおいて殿下の好まれるご人格と一致していて……、口も利いたことがないのに中身を看破された殿下のご慧眼けいがんに畏れがとまらないとともに、わたくしの計画が破綻しそうで困ります」

「……」


 少しだけ安心した。この女官はおかしいわけではないのだ。

 ただすれ違っただけの女に、熱烈な感情を抱いてしまっているらしい王子の目をなんとか覚まそうとしている。王子のために。もし何かあれば、この傅役が止めてくれるだろう。



 案内された場所は、西翼の隅にひっそりとある小さな薔薇園だった。


 女官は、薔薇園の入り口の蔓薔薇つるばらでできたアーチ門の前で立ち止まると、「ここからはお一人で」と庭園の中にアガーテを入れた。

 王宮に数ある庭園のうち、この薔薇園は自然な風景を意識しているようだった。一見手入れされていないようにさえ見えた。薔薇だけではなく、春にふさわしい、シラーやプリムラ、クロッカスの花々が咲き乱れている。


 ——秘密の花園。


 そんなことを思っていると、背後に柔らかく、あたたかい衝撃が走った。

 後ろから、黒の軍服の男がアガーテを抱きしめてきていた。耳に甘く熱い吐息がかかる。

 

いたかった。レーヴェンタール伯爵夫人」


 硬質の声に振り向くと、金糸のごとき髪をした、背の高い少年がいた。面長の端整な顔は薔薇色に紅潮していて、紫水晶アメジストもかくやという瞳は潤んでいた。


「僕が貴女あなたを呼び出したゴットフリートだ」


 向かい合うと、自分より背がはるかに高かった。表情が大人びていて、青年といっても過言ではない。


 笑顔を浮かべた少年の薄い唇が、アガーテの頬に触れた。そして、その耳に囁く。


「ずっと、この日を待ち望んでいた」

「殿下。わたくしと殿下は——」

「口をいたこともないというのだろう。……実は、利いたことがある」

「……え?」


 記憶の海を探っても、目の前の少年らしい人物は遠くからの姿以外には浮かんでこない。


「去年の夏。忘れもしない。七月の末、王妃陛下が小さな仮面舞踏会を開かれたろう。僕も参加していた」

「……」

「その際、貴女と会話をした。貴女も仮面をかぶっていたが、すぐに僕にはわかった。その日から、貴女は、僕の単なる少年期のではなくなった」

「え?」


 偶像ではなくなったということは——、アガーテの実体を見ているということ。

 何をおっしゃっておいでなの、と思っていたら、激しく抱きしめられた。少年の薄くしなやかな胸板が、女の豊満な胸と重なる。


「僕が手に入れるべき存在だと。僕の運命だ、と」


 身体同士をぴたりとつけている淫靡さに、少年は頬を染めて甘い吐息を漏らす。そのまなじりにたたえられた清らかな色香に、耳にかかる吐息に、女は心の奥が罪深くざわめいて


 確かに夏、懐妊がうすうす判明しかけていた頃、仮面舞踏会に出た。だが、軽率なことを起こさないよう、どの舞踏の相手とも時候の挨拶をした程度で、たいして深い会話をした記憶がない。堅い女だな、と仮面の向こう側から言ってきた相手もいた。

 王子に「運命」と感じさせるような行為も言動もしていない。


 そのアガーテの気持ちを汲み取ったかのように、王子は続けた。 


「確かに、大した会話はしていない。でも、貴女は僕を穏やかにさせる」

「……あの」


 この少年を本当にどこかで正気に戻さなきゃ、と思っていると、顎が引き上げられ、唇に唇が押し当てられた。王子は熱に浮かされたように囁く。

 

「レーヴェンタール伯爵夫人は僕を穏やかにさせる。貴女と話したら、貴女の声が、貴女の仕草が、僕の心の重荷を解いてくれた。いまこうしているだけで、僕はとても心が軽い。もう手放したくない」


 唇を奪われた。だが、少年は唇を軽く触れさせるだけで、それ以上はしてこない。大人びてはいるが、くちづけの甘さも激しさも何も知らずに、ただの愛情表現だとしか考えていないのだろう。


 ——かわいい。もっと激しいのを教えて差し上げようかしら。


 自分の心の奥底からの妖しい囁きに、アガーテは愕然とした。

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