第一部:十六歳/二十八歳

第1章 王妃の密命

第1話 王妃の密命(1)

 アガーテと少年がこうなったきっかけは、一年と少し前に遡る。


 ***

 

 春の穏やかな空気は、レーヴェンタール伯爵邸の玄関を包む。伯爵夫人のアガーテは、鮮やかな薄緑のドレスに糸くずなどついていないか、女中に姿見を持ってこさせて丁寧に確認していた。

 いきなり、背後から抱きしめられる。


「王妃陛下のところへ参じるの? アガーテ」


 夫のレーヴェンタール伯爵が、春の海辺を思わす陽気な笑みを浮かべている。

 アガーテは、夫の腕のなかで頬を膨らませた。


「もう、エリアス。何をやってらっしゃるんだか。王妃陛下からせっかくたまわったドレスが、よれちゃう」

「悪かったね」


 夫はこれ以上ないほど愛おしいものを見るように、妻から離れた。


「元気になったようで何よりだよ」


 ふと、アガーテの緑の瞳が曇った。一瞬だけ表情を無くす。そのあと、満面の笑みを浮かべて夫のほうを向いた。


「……そうね。ひょっとしたらこれで勢いがついて、また、出来るかもしれないし」


 彼女は自分の下腹をそっと撫でた。夫はそれを見て、痛ましいものをみたように灰色の瞳をそらす。表情を消したあと、妻と同じように笑みを貼り付けた。


「意外とね。だが、私はしばらく君の目の前から退散するよ」

「ひょっとして、お仕事から帰ってくるのが十年後とかじゃあないでしょうね?」

「まさか。たったの一年間だ」


 まあ、淋しい、とアガーテは夫をえんずるように見る。


 アガーテの結婚生活はほぼ平穏だった。陽気で社交的な外交官の夫とは仲睦まじく、時には夫の任地へ共に赴くこともあり、時には留守番をすることもあり。

 夫と結婚し、そんな生活を続けて十年になる。明るい性格で端整な容姿の夫は、群がってくる女たち相手に火遊びめいたこともするが、平然と複数の妾を抱えるのが普通な貴族の男にしては、かなり誠実な部類と言えるだろう。


 アガーテも夫以外の男性など考えたこともなかった。そもそも、誇り高きレーヴェンタール伯爵家に嫁いだのであるから、その夫人が、軽々に他の男性を近づけることなどあってはならないと強く思っていた。

 だけれど、と彼女はうつむく。


 夫婦になって長いというのに、子供に恵まれなかった。


 確かに夫は不在がちだ。他の夫婦に比べれば夜を共にする機会も少ないだろう。だが、アガーテと同じ年の女性たちはほぼ出産しているのに、自分には子供が自分の腹を訪れる兆候が、一切なかった。


 自責の念と周囲からの優しい白眼視と、子供を持つ友人たちからの奇妙な疎外感が、アガーテを苛んでいた。


 それが救われかけたのが去年の夏。結婚九年目にしてようやく懐妊した。夫婦は有頂天になった。膨らみゆく腹と共に広がる幸福が、アガーテを包んだその瞬間。晩秋のある日、大量の出血を伴って、子供は生まれることなく消えてしまった。

 冬の間のアガーテの心は結氷けっぴょうし、しばらく誰の問いかけにもまともに答えなかったが、ようやく、春の芽吹きと共に、穏やかな表情を見せるようになってきていた。

 夫は自身も出かける支度をしながらアガーテに尋ねる。


「王妃陛下はご壮健かな?」

「ええ。最近ますますお元気でらっしゃるわ。もう四十もとうに越されたというのに」

「楽しんできてね!」

「はい」


 アガーテは夫に向かって、嘘偽りのない笑顔を浮かべ、手を振って玄関の外へと向かった。



 レーヴェンタール伯爵夫人アガーテは、王妃のお気に入りのひとりである。

 王妃の年下の友人として、気軽にそば近くへ寄ることが許されており、王妃主催の茶会や詩の朗読会には常に顔を見せるよういわれている。


 今日は、茶会に招かれた。

 王妃から少し前に賜った薄緑のドレスに身を飾っていくので、玄関で大騒ぎしていたのである。


 茶会の場とされた王妃の間は、薔薇とヘリオトロープの花束があちこちに飾られていた。特に、マントルピースの上に置かれたクリスタルガラスの壺に、白薔薇と紅薔薇があふれんばかりに生けられているのは目をみはるほどの美しさだった。

 女官に案内され、王妃の間の隅の、客用に用意されたダマスク織の椅子に座っていると、開け放たれた大窓から、そよ風が吹いてきた。窓にかかる紗のカーテンが揺れ、風とたわむれだした。

 そのカーテンの向こうの庭園から、ふと、アガーテは何かを感じた。


 見られているような。じっとりと、熱っぽく。

 目を凝らして庭園のほうを見ると、誰もいなかった。


 ——気のせい?


 疲れている、と思って目元を指で軽く揉んでいると、女官が王妃の出御を告げる。


「王妃陛下のおなりでございます」


 すぐに立ち上がって、礼をしながら王妃を出迎える。

 三人の息子と二人の娘に恵まれ、五十に手が届く歳の王妃は、年相応の容姿をしているにもかかわらず、凛とした気品があった。おそらく、南にある帝国の皇女という生まれながらの高貴さによるものだろう。


 王妃はアガーテに、「礼はよい、こちらへ参れ」と手招きしてきた。

 庭園に面したテラスへと案内されると、レースのクロスがかかったテーブルの上に、ティーウェアと菓子が並べられている。テーブルの周りの椅子は二つしかなかった。


「王妃陛下、他の方は?」


 王妃は、さらに自分に従ってきた女官をも、謹厳で口の堅そうな白髪混じりの女ひとりを除いては下がらせた。王妃はいたずらめいた表情を浮かべて、アガーテの顔を覗き込んだ。


「今日は二人きりの茶会だ」

「は、はい」


 何かお叱りでもあるのだろうか、と思いつつ、一方で、敬慕する王妃とこうして二人きりのときが持てるのは光栄なことだと、差し示された席に座る。

 謹厳で口の堅そうな白髪混じりの女官が、アガーテに茶を注ぐ。その真紅の茶がカップに注がれると同時に、豊かな薔薇の香りが一面に広がった。


薔薇茶ローズ・ティーだ。心の耗弱こうじゃくに効くという。最近、……母親として、動揺することばかりでな」


 王妃が言った。


 ——子育てに行き詰まっておられるのかしら。いずれも素晴らしい王子王女だけれど、やはりそういったお方たちでも、ご心配やお悩みは尽きないのでしょうね。


 何も知らないアガーテはそのとき、他人事ひとごとのように考えていた。


「お悩みでしたらわたくし、お聞きすることだけはできますわ。子がおりませんので、それ以上は難しゅうございますが」

「おお、話を聞いてくれるか」

「はい。なんでもおっしゃってくださいませ」

「ま、その前に、飲め」


 茶を口にすると、甘酸っぱい味が広がり、やはり薔薇の香りが鼻腔を満たす。


「実は、そなたに頼みがあるのだ」


 王妃は何か言いにくそうだった。

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