4-4. 群れと独り


 斜塔の鐘楼に篝火が燃えている。

 その横に再び、いくつも花火が上がっていく。


 人々は右往左往し、広場は抜けられない。

 市は群衆と逆の方角へ、大聖堂の正門へ歩いていった。

 斜塔へ抜けるならこの建物を通るしかない。


 教会の前に立ち、慎重に階段を上った。


 やがて、杖が金属の音を立てる。

 聖堂へ続く扉。

 市がそれを押し込むと、ぎいっと重い音が闇へ流れていった。


 強烈な異臭が漂っている。

 ぐにゃりと生臭い気配が強まってくる。

 足元に、集まっていた市民の遺体。


 その奥の祭壇から、二足の獣が歩み寄ってきた。


『来ましたね』


 高い声が届いた。

 司祭の詰襟服を着た狼は、あからさまな足音を立てて近づいてくる。


「アロンソを吊ろうとした坊主だな」

『ええ。かつてはミラノの司祭。グイードに会ってからは生き方を変えました』


 言いながら、男は細い目を大きく開き、僧服を引き裂いた。

 斜めの白い線が入った灰色の体。

 間合いを図りながら、姿勢を低くして手を緩く開き、足の爪でキリキリと石の床を引っかいていく。


 ほとんどの人狼は大柄だが、マテオはそれにくらべると一回り小さかった。

 素軽すがるく進めていく歩の気配は速い。


 マテオは聖堂に二つ並んだ燭台の一方をつかむと、それを全力で投げつけた。

 槍のような青銅の先端が市の脳天へ迫る。

 燭台を斬った瞬間に仕掛けるつもりだ。


 市は剣の柄を燭台にぶつけて弾き飛ばした。


『甘い』


 マテオがそれを受けるタイミングで、さらにもう一方の燭台も投げ飛ばした。

 燭台は槍のような先端を向けて市の腹へ。


 市はそれも刀の鞘で受け止めた。

 青銅をつかむと、同じほどの力で投げ返す。

 鈍重な武器が、人狼の胴体を貫いた。


『大した力ですが、これでは倒せませんよ』


 人狼が腹を貫通した鉄棒を握りしめる。

 だが、次の瞬間。

 マテオの顔に、さっと恐怖が浮かび上がった。

 

「あっしの武器が、どうしたい」


 鞘の中から現れた刃が、金属もろともマテオの右腕を斬り裂いた。


『銀……銀だと……!』


 吹き飛ばされた腕は、空中で光を発して破裂した。

 残った左手で燭台を引き抜き、横手に投げ捨てる。


「坊主。武器が大差ねえなら腕で勝負だ。

 そいつももうすっ飛ばしたけどな」


『やりますね』


 右腕がごっそりないまま、三本足で突っ込んでくる。

 市は身をひねって避けた。


「なんで手向かうんだい。

 ずらかればいいじゃねえか。

 あっしよりずっと逃げ足は速かろうよ」


『征く道を失うことはできません。

 足りないものがあるのです。

 人ではないということ。

 人として生きられぬということが』


 市が銀の刃を逆手に持ち、背中に回した。


「あんたも、人になりたいのかい」


 マテオは左手を地面から離して立ち上がる。

 歩こうとしてはいたが、足が震え始めていた。


『私たちは皆、同じことを思っていますよ。

 グイードは、そのために私たちを集め、練りあげました。

 私たちを否定することは許さない。

 立ち向かう者は全て殺す。

 化け物と呼ぶ者がいなくなるまで』


 マテオが歯の両側から血を流す。

 暗い聖堂に、ギリギリと石のこすれるような音が響いた。

 

『私は、怪物と呼ばれた』


 マテオは息を荒げながら声を振り絞った。


『私の信仰は、神に届かなかった』


 マテオの腕の根元が、徐々に崩れ落ちていく。

 銀の力がマテオの全身に広がり始めている。

 これ以上斬り合うまでもなく、すでに決着はついていた。


『怪物であるがゆえに、主のもとに召されることはない。

 怪物であるがゆえに、誰も救えない。

 子供も、大人も、男も、女も。

 涙が枯れるまで泣いている者を、だれ一人救えない』


 マテオの顔と胸の半分はもはや消滅している。

 残った左半分だけで話していた。


『私はキリストのしもべになりたかった』


 やがて、顔が消え、胸が消え、腹が消え、最後に、床の上に立った二本の足が、ぐらりと倒れた。


 崩れ落ちる積み木のように獣は姿を失った。

 典礼聖歌が舞い上がり、そこへ灰の塊が音符を足していく。

 聖堂には最後のか細い声だけが響いていた。


『主よ、我らを救いたまえ』


 市は刀の灰を振り捨て、南の扉をあけた。


 人狼を憐れむ気持ちと、ロレンツォの意思と、その二つの中を、市は歩んでいた。


 選ばなければならない。

 自分が取るのは、ロレンツォの言葉だ。オルガの無事だ。


 ドゥオーモの広場に出る。

 群衆はいなかった。

 斜塔への道に赤い両目が満ちている。

 やがて、それらが一か所へ向けられていった。


「なあ、ロレンツォ」


 市がつぶやいた。

 低い低い声だ。

 何かが市を引きずり込んでいく。

 深い闇の中へ。


「死んでからも、ずっとあんたは、あっしの真後ろにいるんだな」


 朱に染まるドゥオーモの石畳に杖を滑らせ、市が進む。


「心配しなさんな。

 約束は、果たしに行くよ」


 市は人狼たちと十歩ほど離れて足を止めた。

 五〇体ほどの狼が半円を描いて取り囲んでいる。


『来たか、チェーコ』

『銀があれば勝てると思うなよ』

『みくびらなければ、貴様など敵ではない』


 口々につぶやく狼の声を、一つ一つ市は聞き取った。

 度重なる斬り合いの上、血まで抜いているため、両足はしびれたように重く、歩運びも不自由だった。


 それでも、市は歩を進めた。

 

 体を支えているのはロレンツォの思いだった。

 彼が残した無限の愛情だった。


 再びルミナーレの花火が打ち上がった。

 夜を彩る炎が広がるのに合わせ、人狼たちは全身から滑らかな光沢を発しながら足を速めた。

 市が立ち止まり、体を小刻みに揺らした。


『怯えているのか』


 人狼が半円を描いて囲む。

 市は答えず斜め下へ顔を向けている。


『人知を超えた我らの俊足』

『人知を超えた我らの怪力』

『思い知るがいい、人の弱さを』


 狼の一体が口を大きく開けた。

 地を滑るように疾走し、市の脚を狙う。


 襲撃は届かなかった。

 市は、震えていたのではない。


 頭を揺らしていたのは、耳で間合いををつかむため。

 体を揺らしていたのは、肌で空気の流れを感じるためだ。


「誰が怯えるか。お前らごときに」


 市が身を沈めた。

 刃が起こす風。

 狼の口から血が溢れ、体を傾けて石畳の上に。

 遅れて腹が開き、臓腑が溢れ出す。


 取り囲む狼たちが憤怒の形相を向ける。


『少しはやるな』

『だが何度も続くと思うな』

『正面に回るな、背後からかかれ』


 一体が叫び、集団は弧を描いて市の背面へ。


 またも市が駆けた。

 だが、正面ではない。

 足を止めるや、そのまま後ろへ。 


「正面だの背後だの、なんだいそりゃ」


 刃は市の脇から背へ突き出された。

 市の後頭部に狼の吐血がかかる。

 またも一体が灰となり風へ溶けた。


 集団が足を止めた。

 視線を合わせ、殺気をぶつけ合うことしか知らない人狼にとって、それは奇妙な闘法だった。

 あまりにも不慣れな相手だった。


『俺が腕に噛み付く。お前らは足へ行け!』


 今度は正面から一体が仕掛けた。

 一瞬で市との間を詰める。


 市は刃を振らない。

 狼の腹の下へ仰向けにころがった。

 刃は勝手に肋骨の下から心臓を突き上げ、真っ二つに斬り裂いた。


『花火が上がったときを狙え!』

『耳が使えなければこちらのものだ!』


 人狼は四つ足になって市の周囲を駆け回る。

 車輪のように取り囲み、市はその軸が位置する場所へ。

 夜空の一点から花火が広がると同時に、人狼の輪が一点へ飛び込んでいく。


 狼は知らなかった。


 花火の爆音。

 人狼が作る囁きと足音。

 風に舞う塵の音。

 ガス灯の炎が揺らぐ音に至るまで。


 その重奏全てを、市の耳は区別できることを。


 順手に持ち替えた刀が、狼の首を次々に飛ばしていく。

 月に照らされた鮮血が花火と重なった。

 仕掛けた獣たちは声も出せずに息絶えた。

 バネじかけの人形のようにのたうち回り、痙攣を起こして倒れていく。


 獣には、市の緩急が予測できない。

 獣には、市の死角がわからない。 

 獣の策は、市に通じない。


『武器を持って来い!』


 残る狼たちが焦りを感じ、斜塔へ向いて叫んだ。

 入り口が開き、新手が押し寄せる。

 手足を人間のものに変えて、槍を持ちながら。


 がちゃがちゃと鉄の音が鳴る。

 穂先が一斉に市へ突きこまれる。


 その拍子に合わせて市が刃を振る。

 不器用な手に収まった不慣れな武器が宙を舞う。

 直後、狼はまたも肉塊に変わっていく。


『銃を使え! 帝国の最新式の銃を!』


 集団が立ち上がり、ライフルを持ち出して市の額へ向ける。


 その銃口も弾を放つことはできなかった。

 人狼たちが引き金に触れる前に、市の刃はその持ち手を切り裂いていた。

 どさり、どさりと、銃が胴体から離れた両手と共に地面に落ちる。

 悲鳴とともに狼たちが灰になり、吹き飛んでいく。


「小細工、小細工、小細工。

 ずいぶん臆病だね、あんたらは」

 

 斜塔を背にした人狼たちは、完全に戦意を失っていた。

 歩を下げて身を強張らせる姿に、強者の威厳はない。


 市が斬りこんだ。

 とてつもない速さだった。

 怪物が刈り込まれた草のように倒れていく。

 裂けた口から血の塊を吹きだしながら。

 死にゆく形相を、見えない市は振り返らない。


 市は斬り続けた。

 イナゴのように群がる人狼を、腹に力を込めて斬り倒した。

 血を失い、筋肉を超えて骨に届いた疲労も、今は消えていた。

 先へ行く力が、体の芯から湧き出てくる。


 盲人が怪物を越えて行く。

 無人の荒野を進むが如く。


 人知を超える俊足も。

 人知を超える怪力も。

 市の刃に通じない。

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