魔物の脚はタコの味
「重っ……」
土曜日の午前中、紫音は両手に巨大な手提げ袋を抱え、家路についていた。
あの少女はしばらく、紫音の家に居候させることにした。最初は迷子か家出かと思っていたが、あの魔法のような芸当を見せられては、警察に連絡しても信用してはくれないだろう。
幸い、あのマンションは学生1人で暮らすには少しばかり広く、部屋も余っているので同居人が増えてもあまり問題ではない。それに相手は子供、食費などもそこまで大きな出費にはならないはずだ。
「ただいま」
「……………………」
玄関を開ければ、返事はなかったが廊下の奥から、エメラルドの瞳がじっとこちらの様子を窺っていた。言葉は依然として通じないままだが、なんとなく紫音のことは、食事や住む場所を与えてくれる人程度の認識になっているのだろう。
紫音は纏わりつくような視線を感じながらも、買ってきた大量の食材を冷蔵庫にしまっていく。自分1人なら問題ないのだが、子供にはきちんと料理したものを食べてもらわねばと、買ってきた次第だ。通販でも良かったのだが、地元の商店街の方が安いと思い、わざわざ歩いて行ったのもそれが理由だ。
「よし、終わった……」
冷蔵庫の整理を終えた紫音は、次に鞄から一冊の薄い本を取り出した。子供向けの文字の読み書きを練習するもので、期間はわからないが一緒に暮らしていく以上、言葉の勉強は必須だ。
少女に手招きすると少しためらう様子を見せたが、すぐにとことこやって来て椅子に座った。かなり素直な子だ。
「それじゃ、始めよっか。まずは……あーえっとー……」
「……………………」
「ちょっと1回タンマ」
兄弟はおろか、子供も産んだ覚えもないのでどう教えていいのかわからない。世の母たちは大変だなと、紫音は痛感した。
「私は 紫音 です」
「……………………」
考え抜いた末に思いついたのは、身振り手振りを交えながらの会話だった。せっかく本を買ったが、これの出番はもう少し後になるだろう。それに言葉は書いて覚えるより、実際に日常で触れる方が上達が早いし、誰しもが通る道だ。英語を机に座って学習するより、英会話の方が効果が出やすいのと同じだ。
自分を指差しながら言えば、少女は瞬き1つをして、静かに指をさした。
「ワ、ワアヒア……ジオン……エフ」
「そっか。名前、聞いてなかった」
昨日は食事の後、一緒にシャワーを浴びて寝てしまったので全く気にする余裕がなかったが、彼女の名前を知らなかった。
だが身分を証明するものを持ってるはずもないし、そもそも言葉が通じない。というか、少女は恐らくこの世界の人間ではないのだろう。現実主義の紫音には信じがたいことだが。
「名前がないと何かと不便だから、仮称だとしてもつけちゃおうか」
言ってみたのはいいものの、他人の名前を考える経験などあるはずもなかった。かといって、仮だとしても下手な名前を付けるわけにもいかない。
ひとまずPCを起動し、流行りの名前などを検索するが、どれもしっくりこない。奇抜すぎなものや読めないものなど、紫音の心を揺さぶるような名前は見つからなかった。
「えぇ……こんなの読めないわ」
現代の子供の名前に軽く衝撃を受けながらも、特に収穫もなさそうなのでPCを閉じた時だった。机に置かれていた本の一冊に、栞が挟まっているのが目に留まった。
「……決めた。
『栞』には道しるべなどの意味があり、人生という道中で迷うことなく成長してほしいという素敵な願いを込めて、子に名付けることもあるそうだ。
その意味が、昨晩の道端で倒れ、泣きじゃくる少女に重なりこれ以外の名前はもう思いつかなかった。
「私は、紫音。あなたが、栞よ」
改めて名前を教えると、少女は小さく『……シオリ』とだけ呟いた。
それから小一時間ほど、会話の練習をすれば昼の時間になっていた。お互いの名前は伝わったので、それだけでもノルマクリアと言えるだろう。
「ちょっと早いけど、お昼にしようか」
紫音がご飯を食べるジェスチャーをしてみれば、栞は小さく頷いた。そしてリビングの方に手を向けると、昨晩のと同じ謎の言葉を呟いた。
「まさか……」
紫音の予想通り、空間が割けて大きな穴が開いた。昨日と違う点と言えば、何か青い球体の様なものが穴から顔をのぞかせているのだ。表面にぬめりがあり、光沢をもつ不思議な物質だ。
栞はソレを掴むと、ゆっくりとリビングに引っ張り出した。昨日も思ったが、少女にしては腕力が成人のそれを上回っている。
「うわっ、何これ」
べちゃりと、スライムを床に落としたような音が1つ。近づいて観察すればそれは、水の詰まった巨大な袋のようだった。穴から先端が出ただけで子供の背丈ほどあるので、全部出したらリビングの床が抜けるだろう。
栞もそれをわかっているのか、これ以上穴を広げずにその場で留めていた。結局これは何なのか、回り込んで側面から確認しようとしたところ、不意に側部に着いた黒いボタンと眼が合った。
「…………はっ?」
あまりの衝撃に、言葉がつまり数秒ほど見つめあってしまう。錯覚などではない、これは何かの生物の眼球だった。
「う、嘘でしょ……ちょっと出すの待って!」
さすがにここまで巨大な生物が出てしまうと(半分ほど出ているが)、この部屋だけの被害に収まりきらない。下手をしたら、休日の昼間に自衛隊が総動員で緊急出動するレベルだ。
栞にストップをかけ、紫音は水袋を指先でつついてみた。やはり中に水でもつまっているのか、軽い反発力があるだけで、目だった反応はない。もしかしたら、この生物は既に生命を終えたのかもしれない。
だが全身青色の巨大な生物など、紫音の記憶には存在しなかった。この体面から察するに、おそらくは海洋生物の一種なのだろか。手触りは、イカやタコのそれと酷似していた。
「ん……?タコ?」
もしやと思い、紫音はスマホである生物の名前を入れた。その生物は何世紀も前に海に現れた怪物で、巨大な船をも呑み込み、船乗りや漁師から恐れられたという伝承が残っている。
もう一度よく観察してみれば、眼球のすぐ側に、太い筒のような器官を発見した。頭足類が水や墨を吐き出し、移動に使う
「……クラーケンか」
大学3年の春、紫音は海の魔物に人生で初めて遭遇した。
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