第2話 矢継ぎ早のジーナが言うには

 職場を早退したイリナが、そのまま家に帰ることは不可能だった。


《やーだやだ! せっかく若い女の子の体の中に入れたんだもん、思う存分楽しみたい! 私の普段の生活がどれだけ質素で貧相か……! 本当に、聖女になってからな~んの楽しみもないんだから! こんなことになるなら聖女になんかなりたくなかったー! ばかーっ! だから、どこか楽しいところに連れてって。じゃないと、絶対、絶対に後悔したくなる目に遭わせるわよ?》


(聖女……怖~……)


 涙目になりながら「具体的にどのような」と頭の中のひとに返事をし、脳内作戦会議。


《めいっぱい可愛い格好してみたいし、イケメンにエスコートされて劇場行ったり舞踏会に行ったりしてみたい……!》


 果てしない。

 そのどれもがイリナの人生にはまったく縁のないことで、人選を間違えておいでですよ、と思いながら説明を試みた。


(率直に、無理です。私はしがない図書館職員で、おしゃれにかけるお金はありません。制服のある職場、最高です。イケメンの知り合いもおりません。いまから最大限私にできることと言えば……、そうですね。ちょっと素敵なケーキ屋さんで、お茶をするくらいで)


 このときのイリナは、職場でローブを脱いできており、洗いざらしの木綿のシャツに肩紐のワンピースを身に着けていた。姉のお下がりを姉が身につけていた年数以上に着続けていて、古ぼけている。手にした革のバッグも「味」と言い逃れできない程度にへたっていたが、素敵なお店に入って大丈夫かな、という考えがほんの一瞬浮かぶ。

 それには気づかなかったらしく、ジーナが頭の中できゃっきゃと大はしゃぎをした。


《そ! れ! で! 素敵なケーキ屋さん、い~じゃない! それで決まり! わ~い、貴族の奥様方の間で流行りのお茶会の真似事ができるってことでしょ? 楽しみ!》


 本当は、財布の中にも余裕などなく(お茶会の真似事!?)と白目になりかけた。

 だが、こんな機会でもなければ自分は一生行く機会がないかもしれない、と思い直す。

 たまには誘惑に負けてみようかな、という考えが脳裏をかすめた。

 それは隠す間もなく即座にジーナに悟られ「行かなきゃ路上で脱いで裸踊りしてやる」と脅された。失うものの何もないジーナは、やると言ったら本当にやりそうだった。聖女とは。


 イリナは、上司のミケランジェロ同様、不毛な言い争いを好まない性分である。

 すみやかに決断を下し、前々から気になっていた店へと向かうことにした。

 その道すがら、イリナはようやくジーナから「聖女」についての説明を受けた。


《本当につらいの……。潔斎の期間の粗食と言ったらないわ……二十歳前の食べ盛りの娘にあれはないでしょうってくらい、最低限の固いパンと薄いスープと水よ。潔斎ってなに? 神様は聖女の胃の中に何が入っているかそんなに気になるの? 神様の能力をそんなことに使って良いと思ってるの? 私には、神がわからないわ……》


 イリナは神殿組織に詳しくはなかったが、聖女と呼ばれる存在がいて、代替わりをしながら神殿奥深くで祈りを捧げているらしい、という基礎知識はあった。

 ただしそれは、多くの国民にとって、あまり関わりのないこと。

 大々的に公表される内容は極めて少なく、現在はどこの誰が聖女を勤めているかすら、明らかにされていない。

 しかもイリナは、貴族の端くれとはいえ、暮らしぶりはごくごく一般庶民。

 日々を家と職場の往復で過ごしている。

 仕事に関する知識はともかく、世の出来事に関してはせいぜい人並み、知らないことはまったく知らない自覚がある。


 そのイリナに対して、ジーナはこんこんと自分の窮状を訴えかけてきた。


《起床は早朝、食事までの間修行、普段から粗食。さらに修行、粗食。どんなに寒い日でも水行、粗食、そして寝るまでの間ひたすら修行、夜更けに就寝。潔斎期間はさらに粗食どころか粗粗粗食よ。美味しいものと楽しいことに飢えているの。聖女辛ぁ~》


(それはたしかに、辛そうですね)


 図書館を出て、王宮の広大な庭に沿う高い塀の側の道を歩きつつ、イリナは相槌を打つ。

 空はすこんと青く晴れ渡っていて、蜜色の日差しが往来をやわらかく照らしていた。

 時折吹く風が心地よい。

 どうやら、頭の中のジーナはその感覚を共有しているようで、《良い風ねぇ……》と呟きをはさみつつ、続けた。


《せめて少しの里帰りくらい許してほしいのに、神殿の引退聖女たちが「お前は絶対に羽目を外してとんでもないことをする」って言って。私の若さと美貌への嫉妬がすごいの。ああはなりたくないわ。私は賢い女だから、後進をいじめるなんて絶対にしない。一年でモノになるように誠心誠意修行に付き合って鍛え上げて、私の仕事を根こそぎ引き継ぐ。そして私は晴れて自由の身……!》


(最終的に私利私欲に走った感はありますが、概ね同意いたします。後進をいじめるなんて百害あって一利なし。組織に必要なのは「仕事のできる人間」であって、自分を脅かすなんてつまらないこと考えて潰してしまえば、それだけ自分の仕事が大変になります)


《やっぱり! イリナもそう思うでしょ!? 後進を育てないで平気な顔をしている年増たちはね、結局のところ自分自身が楽な仕事しかしていないから、「自分の仕事を任せる人間」の必要性がわからないのよ……! そんな役立たずな上層部なんか一掃してしまえば、淀みが浄化されて組織はきれいになるのに》


 物騒なことを言い出した。

 実際のところ、問題はそこまで単純ではないのでは? と考えるイリナとしては、ジーナを焚き付けている場合ではないと、話の方向性を変える。


(その方々は、もしかすると本当に「良い仕事」をしていないかもしれません。ですが、ことジーナに与えている忠告は的を射ていると思います。つまり「絶対に羽目を外す」というのは)


《あら。何が言いたいの?》


(いまのジーナ、すごく羽目を外していると思うんです。解き放ってはいけない、と周囲の皆さんが考えるのも不思議はないような)


 心の中で言い終える前に、体の主導権を乗っ取られた。

 イリナの意志とは無関係に、顎を引いて顔を上げ、背筋をすっと伸ばして前を見る。


 正面から歩いて来る紳士が三人。

 往来にも構わず爆笑して、体を揺らして小突き合っていた。その一人がぐらっと体を傾けて迫ってくる。

 危ない……! と思ったときには、体が勝手にさっとかわした。

 普段、俊敏とは言い難いイリナらしからぬ、無駄のない動作。


《失礼しちゃうわね。レディに気づかず、道を譲らせるなんて》


 スカートに手を伸ばして、埃を払うような仕草をしつつ、ジーナは去りゆく男たちの背を睨みつけた。


(たぶんあの方々にとって、私はレディではないのでしょう。慣れています、そういうものだって)


《こんな王宮の近くの道を、我が物顔で歩いているなんて。それなりの身分の相手なのだと思うけど。「気を使うべきレディとそれ以外」を無意識に分けているなんて。おお、なんて卑しい根性なのかしら。私、ああいうのが伴侶だったら耐えられない!》


 ジーナは矢継ぎ早にぽんぽんと小気味よく話す。

 聞きようによっては毒のある言葉も多いが、このときのイリナは咎めることなく、苦笑にとどめておいた。


(私も、考えはジーナに近いと思います。ですが、あの男性たちに近い考え方の女性も世の中にはいるでしょう。「自分とそれ以外」に差をつける男性に心酔するような方。そういった男女で夫婦になれば、なんの問題もないのではないでしょうか)


《甘いわよ、イリナ。関心のない相手に対して冷酷に振る舞える男というのは、結局のところ自分が一番大事なの。自分か相手かを選ぶ場面になったら、絶対に自分の利益を優先する》


 力強く言われて、イリナはきゅっとこぶしを握りしめた。

 その瞬間、体の主導権が自分に戻ってきた感覚があった。確かめるように口を開いたとき、そのまま声が言葉となって転がり出た。


「ただひとりの女性だけしか目に入らず、愛によって命を捧げるような男性だってどこかに。……それが究極、『他人はどうでもいい』からきているのなら、私も納得しにくいとは思いますが」


 はっと、自分の口を自分の手でおさえる。


(恋人もいないのに、つい出過ぎたことを言いました)


 ジーナは、うんうん、と頭の中で相槌を響かせてから答えた。


《そうよね~。私はそういった自己中で視野の狭い男はお断りよ。道ですれ違った女性に気づかず、平気でぶつかるような男が夫だったらぞっとする。息子だったら見つけ次第張り飛ばして教育やり直しよ》


 イリナは、歩くのを再開する。

 王宮敷地に沿う道が終わり、賑やかな通りに差し掛かった頃、イリナは心の中でジーナに呼びかけるように考えをなぞった。


(ジーナの考えに、私も同意します。私も、愛する女性しか目に入らない相手より、周囲の皆さんに親切で優しい方が良いです。もちろん、世の中にはいろんな方がいますからね。誰彼構わず無闇に優しさを大盤振る舞いする必要はないと思いますが)


 どちらにせよ、自分に良い顔を見せる反面、貧しい身なりの女性には辛くあたるような相手とは、うまくやっていける気がしない。

 そうでしょう、と頭の中で同意の声が響く。

 得意げなジーナのその声を聞きながら、イリナはふと空を見上げた。


(ジーナは、聖女だからこうして直接頭に語りかけるような、不思議な力を持っているんですか。本人には、神殿に行ったら会えますか?)


《まず、無理。私は、任期の間は俗世に関わることができないの。面会希望なんてやめてね。私に届く前に握りつぶされるだけよ。任期が終わっても、「聖女」だったことはなんだか秘密にされるみたい。神の妻だったのに、俗世で結婚なんかすると外聞が悪いのかしら》


(いますごく、俗世に関わっているのに……)


 イリナの見るものを見て、風を感じ、ときには体を奪うほど大胆に。


《ふん。散々聖女を囲い込んでおいて、こんな力を見逃すなんて。神というのも、ずいぶんと抜けた存在よね》


 ほほほほほ、と頭の中で高笑いが響いた。

 イリナは曰く言い難い思いで、そっと進言をする。


(不敬の極み)


《うるさいわね。私怨が止まらないのよ、神への。まさか、「聖女」ってだけで、みんながみんな清らかだなんて決めつけていないでしょう》


(実は私、今まで「聖女」について深く考えたこともなかったんですけど。ジーナのおかげで、少しだけわかりました)


《何よ》


 中身はふつうの人間なんですね。

 イリナがそう言うより先に、何かを見つけたジーナが《あーっ! あのお店! 行くわよ!》とイリナの頭の中で騒ぐ。

 ぐいっと強制的に目の焦点が遠くに合わせられる。

 ハートのトランプを背景に、ティーポットとティーカップが描かれた看板。

 それが何かを確認して、イリナは(あのお店ですよ!)とジーナに語りかけた。


 ティールーム・トワイライト


 その店こそ、イリナが通勤で前を通過するたびに気にしていた、「ちょっと素敵なお店」だった。

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